2.5 「ない」について 

 「ある」という本源的述語が分化・分節化することで、さまざまな述語群が生まれる。動詞については、とくに自動詞と他動詞の対応が重要だろう(そこでは「受け身」表現などの興味深い事柄も登場する)。

 しかしその前に、順序として「ない」に触れないわけにいかない(二重否定や多重否定にはいつか触れよう)。「ある」に対する最初の強力な対抗馬が「ない」であり、この否定契機(機能)の導入によって述語の分化・分節化が可能となるわけで、言語そのものの成立に深く関わっている。(弁証法的だナ)

 ぼくが思うに、否定やウソの表現が可能であることが、ゲーム(あるいはシステム)としての言語を成立させる条件である。物はただそこにあるだけだが、意識は今あるところのものを否定して、今はないものやそれではないものを措定できる。サルトル的に言うと、即自存在(存在そのもの)の否定を介して対自存在(意識)が現れる、ということだ。否定は意識の本性なのだ。ついでに言えば、時間(過去・未来)も否定(今ではない)によって形成される。

 たぶん動物にも言語的コミュニケーションはあるだろうが、その中にはウソや否定が含まれず、ゆえに自立的な(状況に依存しない)言語世界が成立しないのではないだろうか。

 ところでだいぶ前になるが、「ハとガ」のところで学校文法での「ない」に触れたことがある。

 学校文法で存在・非存在を表す「ある・ない」は、存在〈ある〉が動詞で非存在〈ない〉は形容詞とされている。そして、動詞を否定する「~ない」は助動詞とされる。

 「ある」もまた、「ここに本がある」(物語文)の「~がアル」は動詞、「これは本である」(判断文)の「~でアル」が助動詞とされている。

 つまり、こうだ。

 存在の動詞〈ある〉 ←→ 断定の助動詞〈である・だ〉

 形容詞〈ない〉 ←→ 打ち消しの助動詞〈ない・でない〉

 こういう品詞論って、どうなんだろうね。それなりにスジは通っているんだろうけど、ぼくら日本人でもなんとなくしっくりこないものを感じてしまう。

 むしろ「ない」は英語のnotやフランス語のnon、ne ~ pasのように否定の機能を担う否定語(機能語)としたほうがわかりやすいし、文法的にもすっきりするのではないだろうか。

 英語の場合、don't run 「走る+しない(する+ない)」となって、runという動詞に変化はないが、日本語では「走る+ない」の形で、動詞に否定語が直接くっついて「走らない」と変化する。このような形はむしろ動詞の否定形(活用)としたほうがわかりやすいと思う。動詞の語尾〈ru〉が〈ra〉に(u→a)変わって〈nai〉が付くという規則変化である。(ruの前が1音節の場合、ki-ru(着る)→ruがとれてkiの子音kにi-naiが付きk-inai(着ない)となる。「する(su-ru)」→「しない(s-inai)」など。他に、a-naiやo-naiとなるものもある。「行く」→「行かない」、「来る」→「来ない」。「死ぬ」→「死なない」は例外? 「ます」→「ません」は?)

 このように考えると、「ない」は否定語「ズ・ヌ」(文語)の現代語として捉えるのが良い。「ズ・ヌ」は「ない」のように単独では現れず、「ある」の否定は「あらズ」というように述語に付随して現れる。

 つまりここで言いたいことは、「ある」を「有」「ない」を「無」として同等の資格で扱うことを排除したい、ということだ。「ある」という働きを名詞化(物象化・実体化)して「有」とする(ハイデッカー風にいうと存在→存在者)ことは物質世界(この世界)の必然だろうが、「ない」という働きを名詞化して「無」が〈ある〉というのはおかしい(反物質による世界ならOKかも。物質と反物質は同等の存在資格があるはずだが、なぜかこの世界は圧倒的に物質世界である、ということにもこの項でしつこく述べている「ある」の奇蹟の一端が窺える)。スローガン風に言えば、「ある」はあるが「ない」はない、のである。

 「ない」を名詞化するなら〈非在〉だろう。よくはわからないが仏教的な「無」とか「空」の思想も、「すべては無(空)で〈ある〉」というような理解は誤解で、その神髄は反・物象化や否定弁証法にあるのではないだろうか。

 認識論的にも「ない」は常に「ある」の否定であり、「ある」を前提にしている。

 例えば、「ここに梅干しがあります」と言表する。なんとなく梅干しの形や色が想像(イメージ)され、人によっては唾液が出てくることもあるだろう。では「ここに梅干しがありません」と言表したらどうだろう。なにがイメージされるか。たぶん多くの人はいったん梅干しをイメージしたうえで、その梅干しにバッテンを付けたり、その梅干しを消したりするのではないだろうか。もし何もない空間をイメージしたとすれば、それは「何もない空間」をイメージしたのであって、「梅干しがない」ことをイメージしたのとは違う。(ところで「何もない空間」をイメージできるだろうか。暗闇だろうか。その場合、暗闇がある空間をイメージしたことになる)。

 ところで、「ない」が常に「ある」を前提にしているということは、逆にいえば「ない」は「ある」を要請する、ということでもある。それが誘い・勧誘の表現「~しない?」だ。相手に「○○ない」を投げかけることで、○○をあらしめよう(充足を促す)という作用を持っている。これは動詞の未然・充足、あるいはアスペクト(様態)と絡めて後で検討しよう。

 おまけ:「ある」がなくて「ない」がある言葉

 「もったいない」という形容詞は、「勿体」(名詞)や「もったいぶる」(動詞)などの元となる言葉に「ない」が付いた形で形容詞化したものである。このような「~ない」という形の形容詞はかなりあるが、なかには元の形がわからないものや、現在では使われなくなってしまったものがある。

 たとえば「みっともない」など。外国人に日本語を教えているとき、この「みっとも」は何ですか? と聞かれて返答に窮すことがしばしばだ。

 以下の言葉はどうか?

  せつない

  はかない

  きたない

  たまらない

  はしたない

  しょうがない

  とんでもない

 ふがいない

  やるせない

  ろくでもない

  あられもない

  さりげない

  なにげない(最近「なにげに」というようにも使うようだ)

  つまらない、なさけない (「つまるところ」「なさけある」から意味が離れているように思う)  

  かたじけない(古語)

 また、慣用句にも「~ない」の形のみで登場するものがある。

  やむをえない

  ほかでもない

  かもしれない

  なくもない

 では、以下はどうだろうか?

  ~ではない(否定)→~ではないか(疑問というよりは断定?)

  ~ではないだろう(否定推量)→~ではないだろうか(?)

 どちらも「か」が付くと意味が肯定に変わってしまうのはどうしてか?

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