破滅のユートピア

東郷 学

暁の明星

第1話

 ──十のために、一を捨て。

 ──百のために、十を捨て。

 ──千のために、百を捨てる。


 それは遙かな過去よりずっと、ずっと語られてきた正義の大原則。

 正義とは国家のひいては社会の、世界のために敷かれた秩序であり、より多くを救うためのものであるから少数を切り捨てるという話だ。


 もはや使い古された常套句。

 誰もが知っている当たり前の原則。

 勇者や英雄などはそこに葛藤を思い描き、常に現実と理想の狭間に惑い、迷うのだろうが、そんなものは人でなしの理屈だ。


 だって、切り捨てられる側にとってはどれだけ綺麗な大義名分だって処刑宣告同然だ。誰かのためにお前は死ねと、そういっているのだから。


 故に──個人にとってその瞬間、正義の味方は鏖殺者へと転じる。

 万人が納得する大義名分を掲げながら無辜の民を明日への犠牲と絶やすのだ。





 ──聖譜暦768年、ローゼンターツ領、崩壊。


 後に『ローゼンターツの悲劇』と称される地獄はしかし現時点においては紛れもない現実であり、今まさに具現する最厄であった。


 辺り一面を染め上げるのは火の海。

 響き渡るは怒号と悲鳴と嘆きの雨。

 正しく地獄の一丁目が如き惨劇の舞台を二つの影が駆け抜ける。


「ねぇ! カミィねぇ! と、父さんと母さんが……」


「大丈夫! 二人は絶対無事よ! 貴方も私が必ず守るからッ!」


 それは年端もいかない少年と少女だった。

 少女は少女より幾歳か年下であろう少年の手を引きながら無我夢中で走り抜ける。顔には少しだけ引き攣った笑みを浮かべながら、震える口調で必死に自らと少年を鼓舞する。


 いつ地獄の焔に巻かれても可笑しくない極限状態。

 両親を、家族を、隣人の身を案じる暇さえ与えぬ地獄は刻一刻と少年より少しばかりものを知る少女を心に絶望の蜜を垂らしていくが、手に感じる温もりだけが唯一の拠り所として少女を紙一重で救う。


 彼は。彼だけはなんとしても守りたかった。

 彼女にとっては弟のような、家族のような存在であり、種族の垣根を越えて、世間一般では毛嫌いされがちな自分らとも良くしてくれた希望の双葉。


 魔族である自分・・・・・・・に何の差別意識もなく姉のような存在だと、大切な家族のようだと言ってくれたこの少年だけは。


「くう──此処さえ抜ければ……!」


 抜ければ? 何だというのか?

 彼ら・・は決して逃がさない、容赦しない、許しはしない。

 正義の名の下、今なお、地獄を演じる鏖殺者共は小綺麗な大義名分の下、苦悩しながらあらゆる必要な犠牲を容認するだろう。


 傘としてあったローゼンターツ公が討たれた今、この街を守護する調律の支配者はいない。シミ一つ許さない正義の炎に斟酌は無用。

 悪の悉くを撃滅せんと今も激しく猛り狂っている。


 ゆえにこの逃走に意味は無い。

 未熟な魔族と力なき人間の幼子。

 一体どうして無力な二人がこの地獄を生き抜けるというのか。


「それでも……!」


 大切なのだ。家族が。

 失いたくないのだ。どうしても。


 それのみを一念に少女は駆ける、駆ける、駆ける。

 どうか幸運の女神よ、微笑んでくれ。

 正義の鏖殺者共よ、取るに足らない敵だと見逃してくれ。


 ささやかな希望だけを頼りに少女は少年の手を引き尚も逃走を続行する。

 ──だが、希望は訪れない。

 何故ならば、正義の味方は絶対無敵だ。

 どんな困難もあらゆる悪夢も、駆け抜け打倒し涙を希望に変えるから。


 どうしようもなく素晴らしい正義の味方ぜつぼうが、遂に希望に追いついた。


「……魔族の子供か」


 ビクリと肩を竦めて少女は思わず足を止めて振り向く。

 本来ならば声をかけられようとも遮二無二逃げなければならない状況にも関わらず、思わず足を止めたのは聞き覚えがある声・・・・・・・・だったから。


 ……その声を、誰もが知っている。

 ……その顔を、誰もが知っている。


 だって彼こそが希望ぜつぼう

 あらゆる正義を執行する絶対無敵の勇者であるのだから。


 ゆえに、どうか、どうか空似、幻聴であってくれ。

 そう願い、振り返った先に──少女は今度こそ絶望を抱いた。


「──……『竜殺英雄ゲオルギウス』」


 その名、ジュリオ・イニティウム。

 現世界における今代の勇者の名である。

 

 ──捕捉されたのがまだ神国の信仰狂いブラザーどもなら救いはあった。

 未熟な魔族とは言え魔族は魔族。

 万が一にも人類種に勝てる余地が残っただろう。


 だが、追いついたのが人類種は人類種でも最強の王冠を戴く相手なら話は別だ。

 『竜殺英雄ゲオルギウス』といえば、つい数ヶ月前に魔王が従える『四魔将』を撃滅し、『堕天竜ファーブニル』ですら撤退を選ばされたというまさに生きる英雄譚そのもの。

 どう足掻いても木っ端魔族が敵う余地など欠片もなかった。


「か、カミィねえ……?」


「……大丈夫、大丈夫だからね。私が必ず守るから」


 少年が恐怖に怯えた顔でこちらを見る。

 幼子とは言え分かるのだろう。


 世間一般で英雄視されるこの男が、いや、この男を含めた四人の希望が。

 今この時においてのみ、絶望の具現そのものであるのだと。

 この大粛正・・・劇を具象した地獄の主演たちなのだと。


 慰めの言葉は焼け石に水。

 もはや破綻した希望は縋り付くことすら許さない。

 でも、いいや、それでも……。


「だから──先に逃げて。ここはお姉ちゃんが何とかするから」


「え? で、でも……」


「こう見えてお姉ちゃんが強いのは貴方も知ってるよね? だから此処はお姉ちゃんに任せなさい。相手が勇者様でも負けないんだから」


 嘘だ──勝てるはずがない。

 相手は人類史上最強の戦士。

 加えて万が一に此処を切り抜けても彼に比する三賢者が決して逃しはしないだろう。


 魔族である自分だけは、どうあっても正義の運命に轢殺される。

 だが、彼は違う。

 純血の人間である彼ならば、僅かなりとも温情がかけられるかも知れない。

 無論、それも絶対ではない。


 だが少なくとも人間である彼なら市勢に潜り込むことによってこの地獄の当事者たる事実から逃れ出でることが出来るかも知れない。何も知らない一般人として地獄を切り抜けることが出来るかも知れない。


 さあ、故に──。

 どうか、神様。彼だけは。

 我が身は罪深くとも彼だけは……。


行きなさい生きなさい──!」


 命じる言葉に祈りを込めて少女は最後の希望を少年に託する。

 少年は勇者と少女の間に視線を彷徨わせて、


「必ず、必ず、カミィねぇも来るよね?」


「ええ。私もすぐに追いつくわ」


「みんな、助かるよね?」


「きっとね。だって貴方のお父さんは騎士様だもの。貴方のお母さんを守りながらきっと無事で待っているわ。私たちも遅れないようにしないと」


「ボク……ボク、待ってるからね?」


「ええ、ええ。約束よ、必ず一緒に生き延びましょう」


 約束よ──言って微笑む少女に、少年は走り出した。

 必ず少女が追いついてくるのを信じて。

 だって自分の大切な義姉はただの一度も約束を違えなかったのだから──。


「待ってる、待ってるから……!」


 きっと、明日は皆で笑い合って、いつも通りに。

 幸福だった日々を思い返して少年は駆け出す。

 決して、決して、振り向くことなく。


 だから次の刹那に少女は心の底から安堵と笑みを浮かべて。


「──ごめんね」


 遠くで、血の飛沫が舞う。

 ──『ローゼンターツの悲劇』


 死傷者、一万二千人、行方不明者八千人。

 生存した魔族──ゼロ。

 この日、ローゼンターツ領に存在した六千人の魔族は誰一人生き残ることはなかった。


 ──そう、誰一人例外なく。

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