第16話 あたしは今日…

 〇二階堂咲華


 あたしは今日…

 ある決心をして、ここに来た。

 ここ…

 それはー…


『あずき』



 本当なら、別に…こんな事しなくてもいいのかもしれないけど…

 朝子ちゃんには、会っておきたいと思った。

 だって、朝子ちゃんは…映君のお嫁さん。

 映君はあたし達とはイトコにあたるし…今やF'sのベーシストなわけで…

 繋がりが全くないわけじゃない分、いつどこで会うか分からない。


 朝子ちゃんのご両親が驚くほどスッキリと、あたしとしーくんの婚約解消と…海さんとの結婚を受け入れてくれても。

 …朝子ちゃんは、そうはいってないよね…

 きっと、『なぜ』って…思ってるよね。



 今日オフの華月とおばあちゃまにリズを預けて。

 あたしは…かれこれ20分。

 お店の前で、ウロウロしてしまってる。


 漂って来る懐かしい匂い。

 それがどんなに美味しい物か、あたしは知ってる。

 出来る事なら、すぐにでも暖簾をくぐって…

「右端から全部」ってオーダーしたいぐらい…。



「……」


 やっと踏ん切りがついて。

 あたしがお店の引き戸を開けると…


「いらっしゃ…あら!!久しぶり!!」


 懐かしい、おかみさんの声………と…


「…え。」


「あ。」


 な…なんで…!?

 なぜか、カウンターに…父さん!!


 あたしが入口に立ったまま呆然としてると。


「…そこに立ってると邪魔だ。入れ。」


 父さんは、あたしにそう言った後。


「座敷に移っていいか?」


 って、おかみさんに…


「ええ。いいですよ?」


 おかみさんは、父さんとあたしを交互に…不思議そうな顔で見てる。


「来い。」


 父さんは、そんな事お構いなしに…あたしに手招きした。


「……」


 な…ななななんで…?

 なんで父さんが…ここに?


 座敷に入って行った父さんを見届けて。

 あたしは小走りに、おかみさんに駆け寄る。


「ああああの、あの、どうして…」


「え?」


「あの、今の…父なんですが…」


「えっ、サクちゃんのお父さんなのかい!?」


「はい…あの…初めて…ですか?」


「ううん。もう4年ぐらい前からかね。忘れた頃にふっと来てね。へえええ…サクちゃんのお父さんなの。」


 4年ぐらい前…!?

 あたしがここを開拓したのが…5年ぐらい前だから…


「あっ、そう言えばね?今年の夏に久しぶりに来られて、『娘が二人いるんだけど、もし娘達がここに来てたら、どのメニューを頼むんだろうなー』なんて言って、かつ丼を食べてたよ。」


「……」


 今年の夏…

 もしかして…

 あたしが父さんと険悪になった頃…かな…


 そうやって、あたしが考え事をしてると。


「すいません、おかみさん。あたしにお客さんって……」


 厨房から、朝子ちゃんが出て来た。


「…咲華さん…」


「…朝子ちゃん…」


「ああ、お客さん、今座敷に移られたよ。サクちゃんのお父さんなんだって。」


 おかみさんの言葉に、あたしは『えっ』って声を出して、朝子ちゃんは眉間にしわを寄せた。


「ち…父が、朝子ちゃんに用があるって…?」


「ええ…あたしゃそう聞いたけど…」


「……」


「……」


「えーと…どうしたらいいのかな?」


 おかみさんの困った声を聞きながら。

 あたしと朝子ちゃんは…



 もっと困ってた。




 〇東 朝子


 目の前に居るのは…お兄ちゃんの婚約者だった…咲華さん。

 そして、少し前におかみさんがあたしに『朝子ちゃん、お客さんだよ』って言ったのが…

 どうやら…咲華さんのお父さんの…神 千里さんだと知って。

 あたしは…ちょっと、嫌な気分になった。


 どういう事?



 つい数日前…F'sのライヴを見て。

 咲華さんと海君の結婚を祝福できる日が来るといいな…って思ったのに。

 こんな、唐突に…

 …無理だよ…

 だって、お兄ちゃんは今ももがいてる最中。

 電話にもメールにも…応えてくれない。

 優しくて頼りがいのあるお兄ちゃんが…

 咲華さんと別れて、どれだけ苦しんでるか。


 …そりゃあ、お兄ちゃんがいけなかった。

 婚約して二年以上も…ほったらかしてたんだもん…

 あたしが咲華さんだったとしても…やっぱり無理だったと…思いたい。



「咲華。」


 ふいに、座敷から声がして。

 あたし達がそこを見ると…神さんが顔を出して。


「早く来い。」


 咲華さんに手招きした。

 そして…


「映の嫁さん、一段落してるなら、君もこっちに。」


 あたしにも…そう言った。



 一段落はしてる。

 だけど行きたくない気持ちが強い。

 でも…映が尊敬して止まない人。

 あたしは意を決して、咲華さんに続いて座敷に向かった。



 座敷の入口で正座すると。


「先にオーダーしていいかな。」


 神さんは、あたしの後ろにいたおかみさんに、そう言った。


「あっ、ああはいはい。」


「咲華、好きな物頼め。」


「あ…あたしは…」


「じゃ、ヒレカツ定食とロースカツ定食。」


「はいっ。少々お待ちを。」


 おかみさんが引き戸を閉めて…座敷に沈黙が流れる…かと思いきや。


「映の事なんだが。」


 突然、神さんがそう言って。

 畳の目を見てたあたしは、驚いたように顔を上げる。


「…えっ…?」


「家でも練習してるか?」


「……」


 口を開けて神さんを見ると。


「してるのか?」


 少しだけ首を傾げて、あたしに聞き返した。


「あっ…はい…あたしが寝た後とかに…」


「毎日?」


「そう…ですね…ほぼ毎日…」


「家では練習させないようにして欲しい。」


「…え?練習が…ダメなんですか?」


 神さんはグラスの水を一口飲んで。


「オーバーワークだ。加入した事でついて来ようと必死なのは分かるが、オンとオフの切り替えが出来ないようじゃ、つぶれるのも早い。」


 あたしの目を見て…そう言った。


「あいつは出来る奴だ。毎日家に帰ってまで練習しなくていい。」


「それは…彼に直接言ってもらった方が…」


「何度言っても聞きゃしねーよ。だから頼みに来た。」


「……」


「なんだって嫁が寝た後にベース弾かなきゃなんねーんだ。一度ベッドに入ったら、朝まで抱きしめて寝ろっつーの。」


 その言葉に、咲華さんが首をすくめる様子が視界の隅っこに入った。


「いいか。今夜から一緒にベッドに入れ。そして、真顔で『お願いだから朝まで一緒に居て』って言え。」


 あたしの顔は…みるみる赤くなったのだと思う。

 映の尊敬する人だけど…

 こんな事お願いされるなんて…!!


「か…神さんは、家で歌ったり…」


 少しだけ反論したい気持ちが出て、そう切り出した。

 だって…映は頑張りたいんだもん。

 練習だって、したいに決まってる!!


「あ?家で歌なんて歌わない。」


「えっ。」


 顔を上げて咲華さんを見ると…


「…うん…確かに、家で歌う所なんて…見た事ない…」


 遠慮がちに…そう言った。


「映には…ずっとF'sで続けて欲しいと思ってる。」


「……」


「だから、つぶれてもらっちゃ困るんだ。」


 映は…すごく評価されてるんだ…

 そう思うと…すごく…誇らしいし、すごく…


「…分かりました。あたしにしか出来ない事だし…今夜から全力でベッドに誘います。」


 背筋を伸ばしてそう言うと。


「……」


「……」


 神さんと咲華さんが、目を点にしてる…


「…え?」


 二人の様子に首を傾げると…


「まあ…頑張れ。」


 神さんはそう言って、声を押し殺して笑って…


「……ごちそうさま。」


 咲華さんはそう言って、赤くなった。


「……」


 全力でベッドに誘います。




 あたしーーーーーー!!




 〇二階堂咲華


「今夜から全力でベッドに誘います。」


 朝子ちゃんの決断を目の前で聞いて。

 父さんは笑いを押し殺して。


「まあ…頑張れ。」


 って言って…

 あたしは赤くなりながら『ごちそうさま』って言うしかなかった。


 …だけど…

 父さん、その事を話しに…ここに来たの?



「仕事中に悪かったな。」


「い…いえ…」


 両手で赤くなった頬を押さえてる朝子ちゃんは、急いで立ち上がって…


「きゃっ!!」


 敷居に躓いた。


「おいおい…大丈夫か?」


 父さんが手を貸して、転んだ朝子ちゃんを起こす。


「すすすいません…」


 あたしはそんな朝子ちゃんに駆け寄って…


「ごめん、朝子ちゃん。」


 至近距離で…土下座した。


「え…っ…」


 そんなあたし達の隣で…父さんは無言のまま、ゆっくりと自分の座ってた座布団に戻った。


「言い訳にしかならないのは分かってるけど、言いたかったの。お兄さんと婚約破棄しただけでも酷いのに…結婚相手が海さんだなんて、朝子ちゃん、嫌な気分だよね。」


「……」


「仕事で会ってしまう二人だから…海さんにも、お兄さんにも…嫌な想いをさせてるって…」


「……」


「ほんと…あたし…」


 あたし…本当は何が言いたかったんだろう。

 朝子ちゃんを前に、謝りながら…分からなくなった。


 言葉に詰まって、うつむいてしまうと。


「咲華。」


 父さんが、あたしを呼んだ。


「……」


 ゆっくり父さんを見ると。


「どうして謝る。」


「え…」


「志麻と別れた理由は、『待ち疲れた』だろ。それなら、悪いのは志麻だ。」


 父さんの言いぐさに、ギョッとして朝子ちゃんを見る。

 朝子ちゃんは…真顔で父さんを見てた。


「海と幸せになった事の何が悪い。堂々としてろ。」


「……」


「後はもう、志麻自身の問題だ。」


 …そうだけど…

 そうだけど。


 …そうか。


 あたしは…朝子ちゃんとしーくんの事を疑って…疲れた。

 その事が、ずっと後ろめたかった。

 だけど、朝子ちゃんはきっと知らない。


 自分が…しーくんと血の繋がりがない事。



「…それでも…謝りたかったの…」


 あたしが小さくつぶやくと、朝子ちゃんが視線を父さんからあたしに向けた。


「…応援してくれてたのに…ごめんね…って。」


「……」


「……」


 しばらく沈黙が続いて。

 あたしは…勢いでここに来てしまった事、父さんにこんな姿を見られてる事を後悔し始めていた。


 …やっぱり…勝手だ。

 あたし、自分だけ楽になろうとするなんて…



「…海君が…」


 自責の念に重たくなってると、ふいに朝子ちゃんがあたしの前に正座した。


「…え?」


「海君が、すごく変わった…って、二階堂ではもっぱらの噂のようです。」


「…えっ、そ…それって…」


「もちろん、いい方に。」


 朝子ちゃんは…笑顔にはならないけど、少しだけ口元を緩めてくれた。


「…お兄ちゃん、バカだな。お兄ちゃんだって変われたかもしれないのに。自分からチャンス失くしちゃって。」


「朝子ちゃん…」


「…まだまだ時間がかかるかもしれないけど…」


「……」


「お兄ちゃんも…きっと、海君と咲華さんの事…いつか祝福したいって思ってるはずだから…」


 その言葉に、胸が痛んだ。


 お兄ちゃんも、きっと。

 て事は…朝子ちゃんもそう思ってくれてたって事で…

 だけど、もっと時間が必要だったんじゃないの?

 あたし…自分が楽になりたいから、謝りに来たんだよね。

 どうして…どうして、人の気持ちを思いやれないの?


 そう自問して…胸を締め付ける思いをしてると…


『入っていいかい~?』


 引き戸の向こうから、おかみさんの声がして。


「あっ、はい。」


 朝子ちゃんが戸を開ける。


「はい、お待ちどうさま。」


 明るい声とともに、ヒレカツ定食とロースカツ定食が運ばれて来た。


「あ、あたしが運びます。」


 朝子ちゃんはおかみさんからお膳を受け取ると、それをテーブルに並べて。


「ごゆっくりどうぞ。」


 って…正座して頭を下げた。

 そして…顔を上げて…


「咲華さん、アメリカで生活されるんですか?」


「ええ…明日発つ予定。」


 あたしがそう答えると。


「じゃあ…今度帰国する時は、海君と一緒に来て下さい。」


「…朝子ちゃん…」


「待ってます。」


 笑顔の朝子ちゃんは…あたしの知ってる彼女と違う気がした。

 いつもしーくんが気に掛ける、おどおどした感じじゃなくて。

 明るくて…強い奥さんに思えた。


「…必ず。」


 あたしも、笑顔で答える。



 引き戸が閉まって、あたし達のやり取りを傍観してた父さんは…


「おまえ、大盛り食うんだよな。飯、少し分けてやる。」


 そう言って、自分のお茶碗からごっそりと、あたしのお茶碗にご飯を移した。


「…あたし、ヒレカツがいい。」


「半分ずつにしよう。」


「…父さん。」


「あ?」


「どうして、この店に来始めたの?」


「…あー。美味い店だよな。」


「あたしの事、尾行してたの?」


「……」





 してたのーーーー!?

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