第9話 D. S. ~ダル・セーニョ~

 労働をたっとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう趣旨で定められた一年で最後の祝日。子供のころから夢に見たゲーム制作を仕事にできている俺にとってはうってつけの休日に、そのゲーム作りスタッフである原画家に感謝すべきゲーム制作の仕事の手伝い・・・ではなくて年に二度ある同人の祭典の仕事の手伝いという名目で、高台にあるひときわ目立つ豪邸に呼び出されていた。

「入るぞ」

 部屋に足を踏み入れると、十年ぶりだというのにまったく変わらない光景が広がっていた。壁一面の出窓、部屋の中央に置かれたソファ、やたらと大きなベッド、そして机の上に置かれたパソコンのディスプレイに向かってペンタブで操作する英梨々。

「英梨々、おまえまだこの家に住んでたのな」

「パパとママはイギリスに引っ越したから実質的に自立したようなもんだけどね」

 英梨々のお父さんは在日外交官で登るところまで登ってしまい、イギリスで外務省の高官で呼ばれたのだという話を聞いた。まさか英梨々を残して小百合さんまでついていったとは思わなかったけど。ということは「今日、うちの親、留守にしてるんだ」という状況が毎日続いているわけで。

「おまえ、家事・・・」

「大丈夫よ。平日はお手伝いさんを呼んでるから。休日はカップ焼きそば食べればいいだけだし」

 服もスタイリストさんに、食事はシェフに、移動は専属の運転手さんに。昔から身の回りの世話を何もかも任せきりだったから、英梨々の親父さんも配慮しただろう。

「なによ、ちゃんと自分で稼いだお金で雇ってるのよ。前みたいにパパが雇ってくれてるわけじゃなくて」

 ポンコツの部分はそのままに、それでも頼もしくなった英梨々に少々の寂しさを感じながら、今日俺がここに来た理由を尋ねる。

「で、今日は何を手伝えばいいんだ?」

「そうね。ストーリー作りかしらね」

「っ・・・」

 いつぞやのコミケ前の制作で、今思い出しても死にたくなるような羞恥まみれのロールプレイを強要されたことを思い出す。そういえばコミケの前に締め切りギリギリの交渉をやらされたりもしたんだっけ。

「お前、今回の入稿はギリギリじゃないのな」

「当り前じゃない。あたしに何年のキャリアがあると思ってんのよ」

「同人は高校生以来だろ・・・。ていうか、なんで今になって同人誌なんだよ」

「いいじゃない別に。それよりさっさとストーリー創りなさい。まがいなりにもプロのシナリオライターなんでしょ」

「丸投げかよ・・・原作は?登場人物の誰を?ifルート?それとも後日談?」

「エロ特化・・・セルビス・・・リトラプの・・・」

 英梨々(と小百合さん)が俺をオタクの沼へと引き込み、何年もの断絶ののちに俺たちの関係が動き出したきっかけとなる出海ちゃんが描いた同人誌の原作となったシリーズタイトルを、それも昔から英梨々がお気に入りで、仲直りのために設定を借りた攻略対象の名前を、うつむき加減に口にする。お前が恥ずかしがるなよ。あの下手な仮装芝居を思い出して恥ずかしいのはこっちだから。もっと恥ずかしくなるから。

「・・・ほ、ほら、リメイクも出たし、話題性があるから相当さばけるから」

「はいはい。それで、リメイク版はオリジナル版とキャラ設定やストーリーは同じでいいのか?」

 今の柏木エリこと英梨々ならエロも話題性もなくても客は殺到するだろうに。と思うが言うだけ突っかかられる気がするので適当に生返事でも返しておく。このあたり、恵に学んだ処世術だったりもして。いつもは俺がスルーされる側なんだけど。

「・・・プレイするわよ。今から」

 お前はプレイせずに二次創作をしようって魂胆だったのか。というか英梨々は昔から原作を数話見ただけで描いてたっけ・・・。平常運転の英梨々に懐かしさを覚える。

 英梨々はゲーム機の電源を入れると、俺が座るソファーの隣に腰かける。

「あー、楽しみだったのよねー。って、どうしてあんたが持ち主のあたしよりも居ても立っても居られない的な顔してんのよ」

「だって、あのリトラプのリメイクなんだぞ。興奮しないわけないじゃん」

「十年ぶりに幼馴染の女の子の部屋に入ったっていうのに、興奮もなにもしなかったくせに・・・」

「あ?なんか言ったか?」

「なんも言ってないわよ!始まるわよ」

 メーカーロゴが表示され、そのフェードアウトとともにオープニング曲が始まる。中世の城壁に囲まれた街並みが俯瞰して映し出され、急速に視点が地上まで降下してゆき、城の扉が開く。カメラが場内に入り、赤絨毯の廊下を潜り抜けると、ベールに包まれたきらびやかな王女の間に到達する。椅子に座る王女が映るや否や、カメラが下からパンして天井が映し出され、本ゲームのタイトルである Little Love Rhapsody –Legendary Saga - の文字がドーンと出現する。

「おぉぉぉぉぉ」

「わぁぁぁぁぁ」

 俺は英梨々と感嘆の声をユニゾンしながら前のめりになって、AメロBメロでの攻略対象の人物紹介を食い入るように見つめる。サビに入ると、各ルートの名シーンが一部だけ切り取られたシーンが次々に描写されて、アウトロでもう一度タイトルが映し出される。

 オープニングムービーが終わり、ゲームスタート画面が表示されてもなお、英梨々は画面を食い入るように見つめている。口角が上がって少し細くなった目じりに涙を溜めながら。

「・・・立ち絵も一枚絵も全部リニューアルされてそうだな」

「そうね。感動的なシーンはそのままに、その感動をより鮮明に伝わるように現代風に描けるのはさすがね」

 英梨々の目が険しいものに変わる。涙が出るくらい感動しながらも、分析的な見方をしているところに、プロとしての頼もしさを感じさせられる。まぁ十年もプロをやっているんだから当然といえば当然だけれども、改めてまじまじと見せつけられるとそれは少し寂しいものもあって。

 英梨々の手によって『エリー』と名付けられた主人公は、子供のころに何週もプレイしたおなじみの共通ルートを進んでいく。

「おまえ、昔からずっとセルビス一択なんだよな」

「あったりまえじゃない。いまだに選択肢も全部覚えてるわよ。そろそろルート分岐前の重要な選択肢だってことも・・・って見たことないわね、これ」

 見覚えのない選択肢が画面に表示され、一定のリズムで刻んできたテキストをめくる手が止まる。英梨々は一番上の選択肢を選び、シナリオが再開する。

 オリジナル版にはなかったイベントが一つ挟まり、その後は見覚えのあるセルビスルートへと進む。

「なんか思い出しちゃった。子供のころに倫也と一緒に那須の別荘に行ったときのこと。普段は触れ合えない自然の中での遊びしようね、とか約束してたのに結局あたしが熱をだしてアニメ・ゲーム三昧になって」

「あったな。そんなこと。あれはあれでよかったんだけどな」

 英梨々が病気になるたびに、その病気がなおらないんじゃないかなどと余計な心配をして。英梨々が咳をするたびに泣きじゃくって。アニメやゲームにお守りをしてもらって、ようやく正気を保って。英梨々の体調が戻ったらケロッとそれは楽しい思い出に昇華している。

 懐かしい思い出に浸る甘美さに少し酔いながら英梨々の横顔を見る。ほんのり朱に染まり、どこか視点が定まらない様子でディスプレイを眺めている。

「ん?英梨々、熱あるのか?」

 俺は体温を測ろうと、英梨々の額に手を伸ばす。

「ないわよ。やかましい」

 英梨々は俺の手を振り払う。顔の近くに飛んできたハエをピシッと落とすようにすばやく、ハエをつぶしてしまわないように柔らかに。

「これでも大人になってからはほとんど風邪なんかひかなくなったのよ。・・・で、えっと、それで、そうじゃなくて・・・」

 英梨々は俺の方を向いて、困ったように笑う。その笑顔は、どこか憂いを帯びたような、それでなければ体調が悪くても無理しているような、ゲームのヒロインであれば次のシーンではシナリオを進行させる事件が起こるようなそういう笑顔で。

「やっぱお前、熱があるんじゃないか?」

 同人作品一作目のときも英梨々は熱を出した。そのおかげでマスターアップができず、冬コミには手焼きで参戦することになって、英梨々には大分泣かれたんだっけか。独断専行で英梨々を助けに行ったことに対して恵が裏切られた気分になって、しばらく交流が途絶えて・・・。

「あんたもしつこいわね。ないものはない。断言するわ。何ならここで直腸に体温計突っ込んで検温してみせてあげてもいいわよ」

 どういう強がり方だよ。という思いも込めながら、ツッコミがてら英梨々の額に手刀をかまして、少しだけ額の上に手をのせておく。熱はないようで、安堵のため息をつく。

「・・・それで、あんたどうするつもり?」

「何をだ」

 まさか直腸での検温の話しじゃないよな。などくだらないことは言わないでおく。

 英梨々は目線をゲームの画面に戻し、慣れた手つきでシナリオを進めていく。

「・・・恵が作業場に来なくなってもう二週間じゃない。まぁ制作進行はきっちりとやってるみたいだし、演出もメールベースで調整してるから工程は落とすことはないとは思うけど、本当に細かい演出の打ち合わせができてないから、ゲーム全体のクオリティは保証されないわよ」

「わかってる」

 画面にはエルドリア王国の夏祭りのシーンが映し出されている。エリーは馬車の中から町娘と歓談する聖騎士セルビスの姿を見る。エリーは身分の違いゆえに、セルビスに声をかけずに城に戻り、バルコニーの端で一人寂しく花火を眺める。

『エリー』

 セルビスはバルコニーにかかる木の枝から、エリーに手を差し伸べる。

 セルビスルートのクライマックスだ。このクライマックスになぞらえて、同人作品一作目には英梨々をメンバーに引き込むことに成功した。・・・詩羽先輩の助けを借りて。

 あの時は俺と英梨々との間のいざこざが原因だったということもあり、関係の修復とともにサークルをより強固な関係へと導くことができた。今回は俺と恵との間のいざこざではなく、さらに悪いことに詩羽先輩との間の信頼関係にひびが入っているとあって、詩羽先輩にも頼ることができないどころか、俺が二人のアクターをゲーム作りに戻すようにシナリオを紡がなくてはならない。

「・・・なによ、これ」

 画面に映し出されていたのは、見覚えのある祭りの花火大会の告白のシーンではなく、街中はずれの丘の上の広場でお互いが各々の職務を全うするプロになることを誓い合い、これを最後の逢瀬とすることを約束するシーンになっていた。

「やっぱりさっきの見覚えのない選択肢・・・」

「たぶんそれね・・・」

 二人は涙ながらに抱き合い、そこでエンディングムービーへと切り替わる。

 エリーは政略結婚で遠方の大エスターリッヒ王国の主であるハープズブール家に嫁ぐことが示される。嫁いだ先ではカリスマ性を発揮して改革を成功させて国力の増強に寄与する。

 一方でセルビスは町娘と結婚し、騎士長まで上り詰め、アルバニア王国の王城に遣えることとなる。セルビスの出世はエリーの大改革に奮起したこと、町娘がそれに向かう努力を支えたことが示される。

 エリーはセルビスの出世と、王城での徴用について伝令から耳にするが、政略結婚ゆえに後戻りはできず、セルビスを思いながら治世に努める。エリーの涙がベッドを濡らすシーンでエンディングムービーが終わり、タイトル画面へと戻る。

「バッドエンド、追加されたんだな」

 英梨々の横顔を見る。英梨々は視点の定まらない目をして画面を見つめている。その頬には一筋の涙の跡が引かれている。

「昔とは、なんだって違っちゃうのね・・・」

 英梨々にとっては衝撃的だっただろう。リトラプは一人の攻略対象キャラを選ぶことで、選ばれなかった攻略対象キャラとの接点がなくなる。そのため、ある攻略対象キャラとの明確な別れは示されなかった。追加シナリオであるお互いの責務を全うするためのセルビスとの別れのシーンを一週目から引き当ててしまったことに少なからずショックは受けているだろう。

「・・・取り戻せると思ったのに・・・」

「英梨々?」

「あたしがクリエーターとして仕事を取った代償に失ったものを。お互いに強くなって一緒の環境でこれからって思ってたのに」

「恵と、詩羽先輩のこと、blessing software のこと。だよな」

「やっぱり詩羽なんだ」

 俺は黙ってうなずく。

 恵にトゥルーエンドを紡ぐと啖呵を切ってみたものの、何からどうやっていのかが分からず、そのうちに不甲斐なさと決まりの悪さから恵と顔をあわせても目を合わせられないような状態が続いていて。恵と二人で過ごす休日も居心地が悪くなってしまっていて。英梨々からの同人誌のヘルプが渡りに舟を得たかのように、それを口実に家を出て来た次第であって・・・。今にも泣きだしそうな顔をする英梨々の言葉に返事をすることもできない。

「あたしは外の人間だから・・・」

 英梨々はポツリとつぶやく。

「詩羽が降りるって言いだしても伝えてはもらえない、蚊帳の外の外注スタッフだから。だから・・・」

 英梨々の大きな目から涙があふれ出し、白い頬を流れる。くしゃくしゃになった英梨々の泣き顔が、俺の中で押しのけてきた子供のころの俺の意識を戻していく。

「あたしなにもできない。あたしじゃどうにもできない。前みたいにみんなでゲームが作れる場所がなくなっちゃう。あたしが何年も望んできたことが崩れてっちゃうんだよぉ・・・」

 英梨々は声を上げて大泣きする。

 俺の顔色ばかり窺うような弱さがなくなっても、自分でお手伝いさんを雇えるほどに頼もしくなっても、世界中のクリエーターを凌駕するような絵をかいても、俺に疎外感や劣等感や孤独を植え付けたとしても、やっぱり英梨々は英梨々で、俺のもとに置いておきたくなってしまう。

「倫也が頑張ってくれないと、あたしの・・・」

 しゃくりあげるたびにひきつる英梨々の体を抱きしめて、頭をなでてやる。大丈夫だという安心感を与えるために。誰にも触れさせないという独占欲を満たすために。

「ありがとう、英梨々。心から blessing software のこと好きでいてくれて。外で十年も活動してても、ここを戻るべき約束の地のように考えていてくれて」

 英梨々は胸から顔をあげて、真っすぐに俺を見つめる。泣き顔で微笑みを浮かべながら。涙に濡れた英梨々の青く大きな瞳に、十年間、いや、二十年間も俺の心の底で静かに眠っていた思いが目を覚ます。

 英梨々・・・。

 お前は、俺のすべてだった。小学校のころ、この世のすべてを敵に回してもお前との関係を守りたかった。でもお前は勝手に遠くに行った。高校生の時に一度近づけたような気がしていたけど、少し近づいたからこそ、やっぱりお前は遠くの存在だと思い知らされた。だけど今は。

 英梨々の顔に焦点が戻る。英梨々は目を閉じる。

 今は、お前は俺のすべてではなくなった。恵がいてくれて、みんなが居てくれて、十年間、みんなで必死に神ゲーを目指して走り続けてきた歴史もできて。ようやくお前に追いついたところで、そうやってつくってきた今の生活が、今の俺にとってかけがえのないものになっていて。だから・・・。

「なぁ、英梨々」

 英梨々の体を離して英梨々に呼びかける。英梨々は目を開いて俺の顔を確認し、すぐに閉じて・・・俺にキスをする。一度目は、軽く触れるように。二度目は、しっかりと唇を押し付けるように。

 英梨々の唇の柔らかさ、鼻から入ってくる涙の少し塩っっぽい匂い、頬に伝わる少し低めの体温の温もり。今のかけがえのない生活で覆われた底にある目を覚ましたての俺の思いが引きずりだされる。

 今度は俺の方から英梨々の唇に唇を重ねる。頭を押さえつけるようにして、仕返しとばかりに英梨々の口の中に舌を侵入させる。英梨々の口のなかで、英梨々は俺の舌をアマガミし、舌と舌を絡み合わせながら、どちらともなくたらしこんでいく。

「・・・んっ」

 唇を離して、英梨々のうるんだ目が俺を見つめる。その顔は、もっと強く抱きしめてやりたいほどいとおしく、壊してしまいたくなるくらいはかなげで、なんといってもきれいで。

「倫也ぁ・・・」

 英梨々はソファの上で体制を変えて、俺の体に寄り添うようにして体重を預ける。赤く色づいた色白の頬と、泣いて撫でられて崩れた金髪とがどうにも言えない色気を醸し出す。

 英梨々のワンピースの襟もとにつけられた蝶結びになったリボンをほどく。英梨々はジャージではなくて、ワンピースを着ていたのだということに初めて気が付く。リボンの下から現れたボタンに手をかけたまま、英梨々の顔から茶系のワンピースに包まれた体まで視線を走らせる。綺麗だと思う。ボタンを上から一つ、二つと外したところで、英梨々は自分の手をボタンを外す俺の手に重ねてその動きを制止する。

「今はダメ」

 英梨々は俺の体から離れて、ソファーの隣に座り直す。俺の手によってほどかれたリボンを結び直す衣擦れの音が部屋に大きく響く。

「あの、えっと、その・・・」

 沈黙に耐えかねて何かを言おうとしてみるも、意味のある言葉は出てこず、言い訳じみたフィラーワードだけが口から発せられる。

「ちょっと待ってて」

 英梨々は机の引き出しから小さな箱を取り出して、もとのソファの俺の隣に戻ってくる。

 小さな箱のふたが開かれる。

「これ、覚えてる?」

 箱から英梨々が取り出したものを目にし、自分が今さっきまでしていた行為に後ろ暗さを覚え、胸が締め付けられる。恵との初めてのデートで恵が俺にプレゼントしてくれた、英梨々がサークルを抜けてフィールズのプロジェクトに参加するときに新幹線のホームでねだられて英梨々が持って行った、赤い細フレームのメガネ。俺と恵と英梨々との心のつながりの象徴だ。

 英梨々は遠くを見るような目でメガネを眺め、やがて決意に満ちた目に変わる。

「今、倫也とそういう関係になったとしても、フェアじゃないから。ゲーム作りの混乱に乗じて、あたしが倫也に取り入ったことになるから。それをやったら、大事な親友を失ってしまうことになる。あたしがサークルを裏切ったときみたいに気持ちの整理がつくまでの一時的なものじゃなくて、今度こそ永遠に」

 英梨々はメガネから視線を上げて、俺の顔へとその視線を移動する。

「だから、完全無欠の blessing software をなんとしてでも結成して、その時には・・・、えっと、その・・・、そ、その時には・・・」

 英梨々の目が右へ左へせわしなく動く。

「・・・だっ、だから・・・、その、さっきのはノーカン。何もなかった。今から、恵と詩羽の問題を解決して、完全無欠の blessing software を取り戻すための同盟を結ぶわよ」

 ノーカンだ。俺の中には英梨々との多くの思い出が残っていて、その中には英梨々への淡い初恋の記憶も含まれていて。懐かしい雰囲気に「あの頃」の思い出が引き出されて、英梨々の涙にほだされてしまっただけだ。

「なにボーっとしちゃってるのよ。それじゃまるで賢者モードになったみたいじゃない」

 英梨々は立ち上がり、俺の頭を軽く小突く。

「活動は明日からね。今日はもう寝るわ。なんか少し疲れちゃったみたい。ほら、あんたもぼやぼやしてないで早く帰りなさい」

「あぁ」

 俺は英梨々に促されるままリュックを背負い、よろよろと英梨々の部屋を後にする。

 澤村家の洋館を出ると、坂の下の住宅街が赤い太陽に照らされて朱に染められていた。腕時計の長針と短針は六時半過ぎを示している。十一月の終わりのこの時期に、午後六時台に夕日が見られるわけがない。やってしまった。リトラプに夢中になっていて一晩明かしたことに気が付かなかった。

 家に帰ったら、恵は怒ってるよなぁ。詩羽先輩の時は逐一連絡をしていたけれども、今回は何も連絡を入れていない。それに・・・。唇を離したときの英梨々の顔が目の前に浮かぶ。目に焼き付いた光景を振り払い、意識的にリトラプのリメイクのプレイ画面を思い浮かべるようにしながら、学生の時に幾度となく通った思い出のつまった坂を駅に向かって下る。英梨々と一緒に学校に通ったこと、一人でここを歩かなくてはならなくなったこと、花火の夜に仲直りイベントで英梨々を背負いながら歩いたこと、それからは隣を歩くのはいつも恵だったこと、恵と同棲することを決意して以来ご無沙汰になっていたことを改めて思う。

 冷たい風が脇を吹きぬけていく。いよいよ雪の降るあの季節に本格的にうつっていく気配がある。過ぎていく季節に置いてきた・・・。まぁ東京じゃ雪なんてなかなか降らないんだけどね。


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