『Book of Ghost』

 原稿用紙にも墨にも余裕はあったけれど、知識の在庫が切れてしまった。僕は重い腰を上げて立ち上がり、図書館に向かう。草屋くさや瓶屋びんやを抜けて真っ直ぐ紅坂くれないざかを下りて行って突き当たった古城こじょうの中庭をさらに抜けて枯れた噴水ふんすいをぐるっと迂回うかいした奥にある図書館だ。いくら僕でも記憶出来る語彙ごいの数には限界がある。一説には人間が記憶出来る語彙の量は五万だと言われているけれど、それを僕に教えてくれた人間は非常に胡散うさんくさい人間なので、本当かどうかは怪しいところだ。それもついでに確かめた方が良いかもしれない。丁度瓶屋を通り抜けたところでそう思った。

 紅坂は説明するまでもなく坂だとして、古城はもう何千年か昔に利用されていたものらしい。中は廃墟はいきょそのものらしいんだが、城に住みたいなんていう奇特きとくな人間はこの周辺には住み着いていないのでそのまま放置されている。誰の所有物でもない。そもそも、この世に誰かの所有物なんてものがあるんだろうか。僕はそうは思わない。古城の中庭も草木がしげっているけれど、これは定期的に剪定せんていされているようだ。図書館に住む庭師の男がやっていると、これもまた胡散臭い例の彼女から聞いたことがあったけれど、本当にいるのかどうかは怪しいところだ。

 中庭を抜けた先にある噴水はもうとっくに枯れていて、干上ひあがっている。けれど手入れは行き届いていて、これも庭師がやっているらしい。今は大抵、噴水の内側に足を向けて、ふちに腰掛けて長椅子のように利用するのが普通だ。僕もたまに、図書館が混んでいるときにここを利用するが、本の持ち出しはこころよく思われないので、緊急時だけしか利用しない。実際、今だってそこで本を読んでいるやつなんて一人もいない。

 図書館は元々武器庫として利用されていたらしい、背は高いが面積の狭い塔の中にあった。全ての武器や棚は取り外されて、所狭ところせましと本棚がき詰められいて、その中に本が窮屈きゅうくつそうに詰め込まれている。今日は多分休みの日ではないので、利用客は少ない。大体、休日以外に働かずに図書館に来る人間なんて、僕のような人間くらいなものだ。あとは歌詞を忘れた詩人くらいか。

「あらあらこんにちは」と、頭上から声が降ってきた。「書生しょせいさん、また自分の物覚えの悪さを認めに来たの? 殊勝しゅしょうなことだね」

「今日は忘れたんじゃなくて、足りないと思って来たんだよ。詰め込まないと吐き出せない」

「あらそう。大変だね。私はそんなこと一度だってないけど」

 訂正しておくが僕は書生ではない。言葉の定義から言って、明らかに間違っている。けれど彼女は僕をそう呼ぶことに決めたらしい。だから僕も彼女のことは幽霊と呼んでいる。まあ、あまり呼ぶことはないんだが、分類としてはそうだ。呼称は、君とか、そういうことの方が多い。

「で、どんな本をお探し?」

「そうだなあ、面白い小説が読みたい」

「面白い小説ね。たくさんあるよ、少なくとも私が面白いと思ったものなら。ねえ、こんなに世の中に面白い小説がたくさんあるのに、どうして書生さんは小説を書くの?」

 彼女はよくよく僕に突っかかってくる。どうにも僕が、この後に及んで一生かかっても読み切れないであろうほどに本があふれたこの時代になっても尚、新しい物語を書こうとする姿勢が気にくわないらしい。読むことが好きな彼女にとって、これ以上物語を増やされるのが嫌らしいし、その上僕が過去の作品よりも面白いものを書くものだから認めたくないそうだ。まあ、面白がってもらえるのは嬉しいし、なんだかんだと言いながら僕が何かを書けば彼女は喜んでくれるのでいいのだけれど。

「僕は書かないと落ち着かないんだよ」

「病気なんだね」哀れなものでも見るようにして彼女は言った。「書生さん、言語は何が読めたっけ」

「母国語以外はさっぱりだよ」

「そう、じゃあ、そういう本を読ませてあげようかな。ついておいで」

 彼女は図書館に住み着いた少女で、体つきは小さいけれど成人済みだということらしい。年齢なんてものはまああまり関係のない世界ではあるけれど、それでも図書館を管理する人間としては少々心許こころもとない。もともとは八十歳を過ぎた爺様が管理していたのだけれど、彼が死んで跡継あとつぎがいなくなったから、この近辺に住む人間の中で、一番この図書館に精通している彼女が管理人に抜擢ばってきされたわけだ。数年前までは、彼女も利用客の一人に過ぎなかった。好きこそものの上手なれ、みたいなものなんだろうと僕は勝手に思っている。

 塔は五階の高さまであるが、その階数というのは人間が動ける範囲というだけで、階ごとに本が分類されているというわけではない。本は至るところにあって、例えば壁が全面書架しょかになっているのは当然だし、階段も足の踏み場が六割程度あって、左右には本が陳列してあった。この階段が本で作られていないのは、やはり本に対する敬意があるからだろう。

 彼女の背丈は、僕から階段を二段分引いたくらいの差がある。丁度今、彼女の後ろをついている僕は、彼女と同じ目線で階段を上っているはずだった。外套がいとうの端が、階段に積まれた本に触れていく感覚がある。

「何故人は本を読むのでしょうね」と、彼女が歩きながら言った。「本を超える感動が世界にはあるのに」

「人工的な快感が嬉しいんじゃないかな」

「作られた物語ということかな」

「快感というのは、紛い物だよ。日常生活では得られないものだから、そういう刺激を人間は求めるわけでさ。世界がいつも刺激的であれば、快感を求める必要はない」

「性的快感が読後感を超えることがあるのかな」

「それは君にはまだ早い話じゃないかな」と、僕はいつものように彼女を子ども扱いする。「少なくとも、興味本位で手を出すべきじゃない」

「私は成人しているけれど」

「成人が全てじゃないと思うよ、幽霊君」

「ならば知識かな。でも書生さん、私はあなたより知識の上では勝っていると思うし、色々なことを知っているよ。書生さんが知らないような性知識も、この頭の中にはたくさん詰まってるの」

「じゃあこう言い換えよう、経験が一番強い」

「百聞は一見にしかず」

「ということじゃないかな」

「でも書生さんはさ、興味本位で手を出すべきじゃないって言ってるよ。興味を持たずに経験を積むことって難しいんじゃないかな」

「いつか時期ってものが来るよ」

「私にはそうは思えないけど」

 彼女は階段をそれ以上踏まずに、恐らく三階部分で進路をれた。そして書棚を進んで行く。どこに何があるかを分かっているようであるし、きっと目当ての本がもう決まっているんだろう。

「ところで今はどんなお話を書いているのかな」

「興味があるんだ」

「別にないけど、世間話って必要でしょう」

「今は、昔の話を書いてるよ」

「歴史小説ってことだね」

「そこまで堅苦しいものじゃないよ。でも、もっと人口が多くて、もっと技術がさかえていた時期の話だよ。家にいながら通信出来て、本なんか同じ内容のものが何万冊も刷られて、個人個人の知識や日常の共有が当たり前だったあの時代のこと」

「私があまり好きじゃない時代の話なんだ」彼女は少しがっかりしたように言った。「あまり好きじゃないんだよね、あの時代は」

「どうしてか聞いてもいいかな」

「本が面白くないから」と彼女は言った。「もちろん、素敵なものもあるけれど、母数が多すぎて」

「なるほどね。大衆娯楽的だったってことか」

「それもあるけど、本じゃないんだよね。あれは、原作。質の悪い戯曲ぎきょくみたいなものだよ」

「なるほど」

「あとね、個人製作の本がたくさんあったから。あれってね、ひどいものがたくさんあるよ。一応書庫にあるけど、外には出せないな」

「そんなにひどいのか」

「書生さんは見ないでね。文学力が下がるから」

 文学力なんていう言葉にこそ文学力が微塵みじんもない気がしたけれど、僕は何も言わなかった。彼女はまったく自由で辛辣しんらつだ。気遣いというものを知らない。産みの苦しみを知らないからだろう。もっとも、今この世界で産みの苦しみを僕と分かち合ってくれる人間なんて、絵描きか詩人くらいなものだ。

「ねえ、これなんかいいと思うな」と彼女は一冊の本を僕に手渡してくれた。「これはね、売れなければ小説を書くのをやめようという決意で書かれた作品なんだよ。推理小説なんだけど」

「面白いんだ」

「どうかな。けど、書生さんの書きたい時代に書かれた小説だから、参考になるんじゃないかな」

「そう、じゃあ読ませてもらうよ」

「お茶でもれるよ」彼女は僕に本を押しつけてそう言った。「もちろん飲むよね」

「持ち出しは」

「禁止だよ」

 僕に押しつけた本を、彼女は中指の関節で二度小突いた。戸を叩くような仕草だった。

 彼女の部屋は五階にある。僕は先に部屋に行くよううながされ、そのまま階段をのぼっていく。彼女はきっと、入り口に鍵を掛けにいったんだろう。そのまま今日は図書館が閉館する。読書の時間が始まるからだ。

 天窓からは心地良い日差しが降り注いでいる。まったく職権乱用というか、彼女の部屋には彼女が気に入った本ばかりが置いてあった。それも乱雑に積まれている。これらは図書館の利用客の手に触れることはないので、永遠に彼女のものだ。唯一ある家具らしい家具は揺り椅子で、彼女はそこで寝ているらしい。本を読むのもそこだ。中央にある丸机は、家具というよりは部屋の一部という印象だ。

 僕は壁によりかかり、本を開いた。独自な文体の本だったので、すぐに言葉が引っ張られそうになる。僕はいつでもそうだ。すぐに影響を受ける。けれどそれならそれで良いのかもしれない。もっと面白い小説が書けるんだろう。それはきっと幸せなことだ。

「お待たせ。今日は閉館だからゆっくりしていって」

「ありがとう。お湯を沸かすのを手伝おうか」

「書生さんは、もっとたくさん本を読んで」

 怒られてしまったのかもしれない。僕は大人しく本を開いた。実際のところを言えば、あまり本を読むのは好きではないのだ。僕の一番嫌いな言葉に「人間を二種類に分けると」というものがあるが、それにならうなら、人間は書く側と読む側の二種類に分けられるのだろう。

「ねえ、ところで、原稿はまだかな」と、彼女が問う。「私も何か読みたいよ」

「原稿はまだないよ」

「何言ってるかわかんない」

「まだね、書いている最中だから、原稿はない」

「じゃあ帰って」

「嘘だよね」

「嘘だけど、帰って欲しいくらい傷付いてる」幽霊は死んだような顔をして悲観ひかんする。「楽しみにしてたんだよ」

「そうだったんだ。それは、悪いことしたね。でも、流石の僕もね、昨日の今日でまた別の物語を書き終えるなんてことは無理だよ」

「書生さんは書くこと以外に才能がないんだから、毎日書いてしかるべきだよ」

 まったく彼女は頭のおかしいことを言うけれど、案外それは間違っていない気もした。さっき僕は自分で人間を二種類に分割ぶんかつしたばかりだった。僕は書く人間なのだから、きっと毎日書くべきなんだろう。いや、毎日書いているんだけれど、もっとちゃんと書き切りたいときだって、ある。

「明日は書いて持って来るよ」

「じゃあ、前借りでお菓子を出してあげるね」恩着せがましい言い方は、彼女らしい。「ねえ書生さん、もし明日持って来たお話が面白かったら、ご飯を作ってあげるよ」

「それはいいなあ。実は昨日から何も食べてないんだ」

「まるで小説家みたいだね」

「なにが」

「物語を書いてご飯を食べさせてもらうなんて」

「ああ、そういう職業が、昔はあったみたいだね」と、僕は懐かしむように言う。知らない時代のことを、さも思い出のように。「幸せな職業だよね」

「悲しい職業だよ」

 まるで僕の言葉を否定するのが仕事だと言わんばかりに彼女は言う。けれど僕は傷付かない。彼女のことは、嫌いにならないことにしているからだ。

「悲しい職業ってのは、どうしてだろう」

「だって、好きに小説が書けないんだよ。悲しいよね、私は、お金がもらえても本は読みたくないな」

「趣味は仕事にするなってことか」

「ううん、だって書生さんは、私に書いてくれるんでしょう」

 彼女は純真無垢じゅんしんむくな瞳を僕に向ける。まったくその通りだ。僕は彼女以外に物語を読ませないし、他に読む人間だっていない。僕の原稿は、彼女に読まれて、そのままこの部屋に積まれてしまうからだ。そうすると、他の誰が手に取ることも出来ない。

「まあそうだね」

「そして私は、書生さんのお話を読むの。もし小説家になったら、色んな人に読んでもらって、色んな人に読ませないといけないんでしょう。そんなの大変だよ。悲しいよ」

「一人にだけつむいだ物語が美しいのかな」

「ううん、嬉しいだけだよ」

 やっぱり僕の言葉を否定する。まるで僕の語彙を増やそうとするような行為だ。そうして僕は彼女の好みを知らされて、それに合わせるようにして物語を書くんだ。そしてたまにご飯をごちそうしてもらったり、お茶とお菓子を食べさせてもらって、暮らしている。

 そんな気持ちを表す感情を、僕は今までなんと表現していただろう。けれど今はきっと、嬉しい、と表現することだろう。すぐに僕は影響を受ける。けれどそれで彼女が喜んでくれるなら、やっぱり、嬉しいと思う。

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