影鬼は終わらない

あおばずく

 プロローグ




 帰り仕度を終え店の戸を閉めようとしている時だった。


 それがどうやら人であるらしいと気づくまでに時間を要したのは、単にサーシャの目が生まれつき悪いせいではない。


 それはまるで屍人のように動かなかったのだ。


 店先のランプを消していたら間違いなくそれに気付かずに帰路に着いていただろう。


(いけない…!ランプを消さないで帰るとまたおばさんに怒られる…)


 ランプを消しに店内に戻ろうと思いながらも、サーシャの視線は酒樽に寄りかかったままピクリともしないその人に注がれたまま動かなかった。


 否、動けなかった。


 ここ、モールタウンは歓楽街である。

 酒に飲まれて道端に転がっている客を見ない日はない。非合法も蔓延るこの街で屍を見かけたのも1度や2度ではない。ここにきたばかりの頃はそれらを見るたびに心中穏やかではいられなかったが、それはここでの当たり前なのであった。

 実際、ここに来て1月経つが、今では余程のことがない限り足早に通り過ぎてしまう。


 それなのにサーシャはー酒場「ノスタルダム」の看板娘はーその生きているとも知れない人から目が離せず、その場に縫い付けられたかのように棒立ちのままでいた。


 まやかしを見ているような心地だった。

 何かに取り憑かれているような。

 何かに化かされているような。

 得体の知れない何かー


 その時、微かにそれが動いた。


 目深に被っていたフードがはずみで外れる。淡いランプの下に横顔のシルエットが浮かび上がった。


 若い男であった。


 生きた人間だとわかってなお、彼女の目はその男に注がれていた。


 何故だか強い違和感に駆られる。

 目を細めてもう1度男を見る。


 そして…


 サーシャは息を飲んだ。





 その男には目が無かった。





「……‼︎」


 音を立ててその場に崩れこむ。

 自分でも呼吸がままならないのが分かった。

 男にはおよそ瞳と呼べるものがないのだ。

 そんなことが果たしてあり得るのだろうか。


「あ、あなた誰⁉︎…それにめ…」


 サーシャの存在に気付いた男はこちらを振り返った。


 やはり男には左の瞳がなかった。


 落とした店の鍵を拾い直し、ゆっくり後ずさる。


「み、店ならもう終いです‼︎酔いならよそで覚ましてください‼︎」

 声が裏返りそうになりながら、サーシャは言った。


 しかし、そんな声など届いてないのか男の目ーつまり右目ーは虚ろなままだった。


「………み………」


 不意に男が声にもならないうめきを発した。手をこちらに伸ばそうとする。


「…ひっ……!」

 


「…み………ず……」

 


 倒れたのは男だった。 




   ーーーーーーーーーーーーーー




 気がつくと宙に浮いていた。


(いや、宙じゃない。まるで…そう、海のような…広大な広がり…)


 上下左右の感覚もなく闇に落ちていく自分の姿をもう1人の自分が見ているような…まさに夢見心地というのが相応しいような気分だった。


(おれは死んだのか…?)


 闇が濃くなる。


(やだ…!こんなことで死ぬなんて…そんな…)


 黒に呑まれる。


(ぐぅわぁ…‼︎)





「…きゃっ!」


 確かに濡れ雑巾を叩きつけられる感触がした。


「………‼︎」


(…生きてる!)


「助か……ッゲホッ、ンゴホ!」

「あっ…!まだおとなしくしていてください‼︎」

 たぶん濡れ雑巾を投げつけてきた女が駆け寄る。


「ひとまずお水を…」

 差し出された水を口にする。

 途端に視界がクリアになる。


 店と思しき場所で椅子に座っていた。


(ここは…酒場か…?おれは一体……、まぁ何にせよ助かったのか…)


「あの、大丈夫ですか?」

 たぶん店の娘だろう。

 髪をひとつに結った、正直そうな女だった。


(娘が介抱してくれたのか?…そうか…おれは歓楽街まで…)


「ああ…大丈夫だ。どうにも思い出せないんだが、助けてくれたのだろう。礼を言う。ありがとう。」


「いえ…そんな、助けたなんて…私はただ水を…」

 そう言いながらもう1杯水を汲んできてくれた。


「いや、ありがとう」


 身体中に染み渡る水が心地よかった。



   ーーーーーーーーーーーーー




 娘の話からだんだん状況を思い出してきた。


(そうだった…おれは‥)

 だけどどうしても肝心なことが思い出せない。


「あの………、目… どうされたんですか?」

 遠慮がちに聞かれる。

 至極もっともな疑問だろう。


「いや、何、生まれつき両目の色が違うんだ。

 その上左目は色が薄いから瞳が見えずらいらしい。」


「あっ…それで…。私も生まれつき目が悪くて…」

 娘は明らかに胸を撫で下ろした。


(目が無いのかと思われたのかもな…)

 思わず苦笑する。


 その時、あたりに遠吠えが鳴り響いた。


 刹那、背筋が凍りつくような恐怖を感じる。

(何だ、どうしたって言うんだ。ただの野良犬だ。一体おれは何に…)


「まだ体が優れませんか?」

 顔を覗き込むようにして娘が尋ねる。

 顔色が曇っていたのだろう。


「いや、何でも無い。もう大丈夫だ。」

 実際、先刻まで感じていた気怠さはあらかたなくなっていた。


「用を思い出した。すぐに行かなきゃいけない。今日のことは恩に着るよ。また今度改めて礼を…」


「礼には及びませんが…本当にもう大丈夫なんですか?」


 用なんてなかった。


 ただ、すぐにここを離れなきゃ行けない。


 そんな気がした。


 そしてその予感は次の瞬間、確信へと変わった。


 椅子から立ち上がろうとした瞬間、脇腹に激痛が走る。


(ぅぐっ…!?)


 見ると、右の脇腹あたりの服は破け、店の明かりに照らされて赤黒くなっていた。


 「!!」


「あの、やっぱりまだ大丈夫じゃ無いんじゃ…」


 思い出した。思い出してしまった。


 遠吠えが心なしか先ほどより近い。


 今度ははっきりと顔を歪ませる。




 死の恐怖は…





 影鬼はまだ終わっていなかった。

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