第29話 5月8日の夜

 「ねぇ、ハーヴェン。あなたイスト神話についてどれほど知っていて?」


 ヤシュニナ首都、ホクリンの自宅。セナは明日、国民議会で審議される法案に目を透しながら虚空へと話しかけた。しばらくして虚空からぬらりと美青年が現れ、彼女の質問に答えた。


 「我が女王よ。口の端に乗せるのもはばかられることながら、全くといってよいほど持ち合わせておりませぬ」


 過度とも言える受け答えをしたのは執事服を着た美青年だ。月夜の光に照らされ、彼の青白い肌がより青みがかって見えるようになり、血よりも赤い眼光が闇の中で映えていた。


 「貴方、元々冒険者でしょう?」

 「僭越ながら我が身とは全く関わり合いのないものでございます。せいぜいが基礎知識程度ございます」

 「そう。ならこれだけは憶えておくことね。イスト神話は決して再生神話ではない、ということを」


 はぁ、とハーヴェンは曖昧な答えとともに小首をかしげた。自分の命を捧げるべきご主人様が何を言いたいのかがわからない、と言っているようだった。そんな彼をかわいい、と思いながらセナは口を動かす。


 「伝承でビュネットマンは荒廃した地上を再生させた、とされているけど、実のところそれは違うんですよ。彼は確かに土地を自らが創造した八体の神々と共に再生しました。


 でも、それは決して人のため、ではなかったんですよ」


 ハーヴェンが目を細める。主人の言いたいことが察せられた気がした。かつて四聖教の教徒であった自分ならば理解できる話だ。四聖教の四柱の神々そして十大天使は人に恵みこそもたらしたが、決してそれは幸あるものではなかった。


 熾天使の一柱であるクロリーネが良い例だ。あの天使は増長するニンゲンを戒める、という名目で彼らを塩の過剰摂取で死にいたらしめた。神に叛意を持ったから、という極めて独善的な理由でだ。


 信徒として振る舞ってきた頃はそれが当たり前だと思っていたが、今の主人に仕えるようになってからはその気持ちはない。砂上の楼閣がごとき安い信仰心だったのだろう。


 「かの神々は再生した大地で己の我欲を満たさんがために様々な遊戯に勤しみました。例えば、一矢でどれほど人の塊が死ぬか、神々が二人のニンゲンのいずれかに最大の加護を与えどちらが勝利するか。


 時として森を焼き、海を焼き、果ては神龍とすら争ったそうです。イスト神話があまり信仰されていないのはそういった理由からです。あまりに我欲にすぎる神々の神話、一般人には受け入れられなかった」


 ただ静かに語る主人の言葉には軽薄さがあった。神々の愚かさを笑っているのか、それともニンゲンの自分勝手さを笑っているのかはハーヴェンには理解できないことだ。


 いや、自らの主人の真意を見抜こうなど従者がしてよい行為ではない。自分はただ言われた通りに振る舞えばよい。ただただ己の生命を賭して主人を守ることこそが自分の使命なのだから。


 「ま、今回の件で一番問題なのはそんな我欲にまみれた神々の主神を召喚しようとしている、ことではないのですけど」

 「はい?」


 反射的にハーヴェンは疑問符を口にした。主人はこんなひどい神話なんですよ、と言いたかったのではなかったのか。てっきり上辺はそんなところだろうと思っていただけにハーヴェンの頭の中でクエスチョンマークが踊った。


 「すでに実例がありますから例え神という存在が召喚されても実はさしたる問題ではないのですよ。扱いとしてはレイドボスでしょうが、だったら討伐すればいいだけです。


 問題はもっと別のところにある。


 本来なら現れない存在が現れる、これが問題なんです。ほら、クリケットの試合にいきなりフットボール選手が現れたら違和感あるじゃないですか。アレと同じです。


 必ず世界のどこかでバグが生じるはずです」


 プレイヤーであるセナもハーヴェンもこの世界が電子と量子で構築され、高性能なコンピューターによって運営されていることは知っている。しかもそのコンピューターは機関部が電子化されており、例え地球が滅びようとも永遠に運営される。


 そんな永久機関そのものであるコンピューターの中でバグが生じればどうなるだろうか。小さなバグだろうが、それが連鎖的にねずみ算式に広がっていけばどうなるだろうか。


 恐らく世界の終焉すら引き起こす。あるいは他の似たような世界との衝突か。


 「容量限界、システム外のアクション。この世界の守護者だなんて口が裂けても言いませんが……困るんですよね。せっかく積み上げてきた国が滅びるのは」

 「同意、いたします。私も今の生活を手放しとうはございません」


 発言した直後、ハーヴェンはまずい、と思った。従者が主人の許しもないのに発言し、あまつさえ同じ意見だ、と対等あるいは上から目線で話すなど不敬も甚だしい。


 特に吸血種は上下関係に厳しい。現在そしてこれからも頂点たるセナに歯向かえばどうなるかわかったものじゃない。


 だが、


 「ええ、本当にそのとおりです。今の多忙な毎日ですら、私は愛おしく思っていますから」


 主人は月の中で映える涼やかな笑みを浮かべていた。月明かり差し込むリビングで、彼女の柔らかな笑顔はまさしく至宝の輝きだった。ニンゲンを超越し、サキュバスすら魅了する彼女の笑み、いや容貌にハーヴェンは毒に侵されているかのような嗚咽を覚えた。


 ああ、この人もやはり壊れている。

 愛おしくなど思っていない、積み上げたものが壊れることが悲しいとも思っていない。己の保身すらおそらくどうでもいいと思っている。同じプレイヤーしかし精神の差は如何ともしがたい。


 何を考え、何を成し、なんのために国家なんてものを作ったのか。きっとそれは自分では考えが及ばないことなのだろう、とハーヴェンは詮索をやめた。自己保身に走ることになったが、これが正しい。


 百年を軽く超える時間を生きてきた怪物の腹を探ろうなど、勇者ですらやらない行為だろうから。


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