第5話 消滅に歓喜しろ

 轟音が鳴り響いた。鼓膜が破け、肌の水分が蒸発したかのように、体が硬直するほど、けたたましいまでの砲声が頭上で鳴り響いた。とめどなく鳴り響くその轟音は死を隣に連想させ、いつ自分の体がそこらの壁のシミになるのか、とこの場の全員想起させた。


 ロン・イヴェルグはヤシュニナの兵士だ。まだ新兵ではあるが、厳しい練兵の成果により、並大抵のことでは恐怖しない、と自負していた。レベルだって18と新兵にしては高い方だった。


 だが、そんな自負なんてものは何の役にも立たない、と初めて知った。自分の頭上に魔導砲の砲弾が落ちてきたとき、生きた心地がしなかった。幸いにも不発弾だったが、彼のわずか20年ちょっとの人生を走馬灯の中振り返るには十分すぎる一撃だった。


 おびえる彼をよそに、隣の同僚たちはせっせと不発弾の処理を手際よくこなしていく。一寸ばかりも表情が揺れることはなく、職務をこなしていく彼らはまさしくロンが羨望の眼差しを向けるに十分すぎた。


 うわー、とか、ぎゃー、という声が聞こえる中、ゆっくりロンは自分が今置かれている状況を再認識した。自分は今、戦争の最前線にいるのだ、と。


 海上要塞プレシアは四方に砦、そして中央に大砦が置かれた十字型の要塞だ。各砦は魔導砲やバリスタなどの射程を稼ぐために置かれた、いわばお台場であり、中央の大砦とは地上と地下の2つの回廊を通じてつながっている。


 中央の大砦にも無論、魔導砲やバリスタは設置されているが、ここは他の小砦よりも司令塔としての側面が強く、各砦の中でもひときわ防御力に優れている。他の砦とは違い、高硬度の魔導障壁で覆われているため、魔導砲を数百撃とうが墜ちることはない。落とそうとすれば、四方の砦を落としての白兵戦以外に他ないだろう。元のダンジョンとしての機構を利用した護りと言える。


 ロンが今四苦八苦しているのは小砦の一つだ。ここには魔導障壁なんてものは存在しないため、魔導砲が撃ち込まれれば城壁にヒビは入るし、中には城壁を飛び越えて落下してくる砲弾もある。


 城壁の耐久値は高いが、無数の砲撃を防げるほど固いわけではない。反面、攻撃力は非常に高い。いわば槍の穂先のようなもので、その在り方は非情に脆い。


 今も無数の砲撃が鳴り響き、砲手は魔導砲に砲弾を、バリスタに大型の鏃を設置し、遠くのガレオン船を狙い撃つ。魔導砲から砲弾が射出されると同時に熱が余波となって周囲に拡散され、決して小さくはない反動が起きた。


 魔導砲は外見上は大きめのツボだ。大砲のように火薬を使って飛ばすのではなく、そこは魔導砲の名の通り、魔術の力で砲弾を飛ばしている。ツボの底に刻まれた魔導刻印――放出と炸裂――により砲弾を弾き飛ばす。その際、強烈な爆風を巻き起こし、ツボの底から強烈な反動を砲手に与える。飛ばす際は砲手がツボ底に手を置き、魔力MPを消費する。消費する魔力は一定値であり、例えレベル1であっても、まして赤ん坊であっても魔導砲は放たれる。


 そんなものが練度の高い兵士によって放たれる、さぞかし恐ろしいことだ。だから今の小砦のニンゲンが味わっているのは地獄そのものだ。高い命中精度を誇るのはどちらも同じ。幸い、ヤシュニナ側の兵士の方がレベルと練度が高いから被害は重軽傷で済んでいるが、痛みは兵士の心を麻痺させる。


 麻痺した兵士はいくら卓越した技能を持っていても使い物にならない。ベテランだの、新兵だの、そんなものは等しく無意味だ。今、ロンやその他の兵士が目の当たりにしている惨状がその事実を物語っていた。


 「第一、第二砦は引き続き砲撃戦を継続、第三、第四砦に向かった敵船は少なく、現在はほぼ砲火を交えていない、とのことです。」


 そんな今を苦しむ兵士とは打って変わって、極めて平淡かつ冷静な声がやや狭い会議室内にこだました。砲声も絶叫も届かず、時折風で揺れる灯火の音だけが聞こえる簡素な会議室。大砦、中央の砦の最奥に位置している会議室にて、ほぼ三十分ごとに各砦からの報告が舞い込んできていた。


 いくつかのテーブルが乱雑に置かれ、その上には被害報告や武器弾薬の備蓄量、あるいは防壁の破損状況を記したメモなどがファイルごとに区分けされ、いつでも情報を得られるように置かれている。


 テーブル同士の合間に居並ぶのはプレシアを指揮し、防衛する参謀将校らだ。一律にヤシュニナの軍服に袖を通し、階級章たる肩のエンブレーミングがキラキラと輝いている。


 種族に協調性はなく、人種や小人種ドワーフ蜥蜴人リザードマン蛙人フロッグマン、果てはスケルトンやリッチーといったアンデッドまでいる。そのどれもがプレイヤーだったり、煬人だったりする。プレイヤーや煬人の区別なく、また種族の区別なく良く言えば幅広く、悪く言えば貪欲にかき集めた結果、異種混合軍隊と化したヤシュニナ軍の縮図が会議室には収められていた。


 その全員の表情は固く、状況が芳しくないことを物語る。防衛戦、籠城戦はいつものことだが、今回のリストグラキウスの侵攻のペースは例年に比べてかなり早い。今現在上がってきている各砦からの報告だけでも、砦の防壁の一部が破損、また一度ウォールクライミングで白兵戦を挑まれそうになった、とある。


 「第三、第四はそもそも本国に面してるからな。正面の第一、第二砦とくらべて被害は少ないか」

 「ならば、第三、第四から兵を予備兵力に回すか?」


 「いや、ひょっとしたら陽動かもしれない。向こうが兵士を引き抜いたのを察知して一気に兵力を集中する可能性がある」


 「バカか、貴様。そんなことをするわけないだろう。それに、向こうに作戦指揮能力などあるものか!向こうは宗教で戦争をやってる国だぞ」


 「僭越ながら、向こうにはあのアーレス・ドミニカがいるのです。作戦指揮能力がないから、と軽視することは愚行かと」


 「いや、アーレスは結局のところ個の戦力にすぎない。無数の火砲で相対すればいい」

 「楽観視した結果が五年前の惨劇なんだ。これは明確な事実なのだよ」

 

 各参謀将校は各々の意見を言い合う。階級章こそあれ、この会議の場では階級差による遠慮などはない。凝り固まった常識に依らない自由な発想を展開することが今、この場で求められているのだ。


 だが、全員がバラバラの意見を言うばかりでは、ただの烏合の衆。そんな烏共をまとめる調教師が一応、この場にはいる。


 「皆の衆、議論百出を楽しむのも良いが、そろそろ方針をまとめようではないか」


 喉に胃液でも垂らしたかのような、ひどいだみ声が会議室内に響いた。ひどく汚い声、聞くだけで耳が財産すべて背負って逃げ出してしまう。室内の参謀将校らが背筋を正し、声の主に体ごと向けるのは自明だろう。


 彼らの視線は一点に集まる。会議室の最奥に設けられた鉄筋ポールにその肢体を絡ませる一匹の龍に。おぞましく、恐ろしい、醜悪であり、畏れを抱く容姿の巨大な水龍だ。全長はゆうに十メートルを超えているのに、会議室に収まっているのは一重に体をポールにからませて、面積を小さくしているからだろう。


 そんな巨大な体を収める制服など存在せず、階級章だけがアクセサリとして龍の首に付けられていた。


 「まず、大前提として、かんがえてみよ。いかにリストグラキウスの艦船が例年より多かろうと、そのすべてを正面戦力として起用できるわけではないのだ。連中がそんな暴挙に出ようものなら、軽々と我らが愛すべき砲兵共が海洋生物共の餌にしてくれるであろうて。


 そもそも、要塞戦と海戦という2つの体系を無視して、戦力の分散などやっとる愚か者どもぞ?直におとなしくなろうて」


 これが近代戦、現実の世界での戦争ならば、火砲に対して城壁で防御するプレシアのような要塞は一週間も保てばいいだろう。しかし、このソレイユにおいて魔導砲とはあくまでゲームバランスを考慮した兵器でしかなく、出力を弄るには技師系の高位スキルが必要とされる。


 そういった人的資源の関係から、ほとんどのソレイユ内の国家が使用する魔導砲は予めゲームシステムが用意していたものに限られる。一応、ヤシュニナを始めとする軍事国家は独自の魔導砲を製造しているが、それもワンオフ品に近い。


 つまり、ゲームシステムを前提として考えれば、要塞の城壁が崩れるにはまだ全然猶予がある、ということだ。元々、ダンジョンであった、ということもあって要塞の強度は折り紙付きだ。


 「ゆえに、我らは正面戦力の撃滅、ただそれのみに従事することこそ国家への貢献であると知るが良い!まして戦力分散の愚を侵さんとする無知、無能など愚かにもほどがある。要塞の落とし方を知らない、子種の出し方を忘れた連中だ。存分に無駄玉を打ち出すタマコロを潰してしまうがいい!」


 きひゃひゃひゃひゃ、とその龍は喉の奥から気色の悪い声を吐き出した。下品で、卑猥、醜悪な彼女の本性を象徴するかのような言葉遣いだ。居並ぶ参謀将校らは不快感を表さずにはいられない。


 海上要塞プレシアの指揮官、ヴェーザーはこういうニンゲンだ。ソレイユ内では龍種のプレイヤーは珍しいが、その中でもさらに珍しい水龍としての威厳もへったくれもない、下卑た言葉遣い、そして気色の悪い笑い声だ。これが勇者の物語であれば、勇者を侮って殺されるポジションにいるべきキャラクターをしている。


 「ヴェーザー大将軍、しかし正面戦力にはアーレスが……!」


 「バカが、アーレスは我より強いだろうさ。おそらく、単騎でこの要塞も落とせよう。――入れればぁなぁ。結局のところ入れぬ男をそなたらは畏れておるのよ。それこそ、店に入る前に己が勃つかどうか気にするに等しいわ、この奥手共が。まったく、我が軍の将校は揃いも揃って玉無しとは嘆かわしい」


 一言で反論しようものなら、倍になって人格否定もセットになって返される。しかも、反論一つ一つは理にかなっている。戦となればたよりになるヴェーザーだが、いつも一言二言多いため、参謀らからはあまり好かれてはいない。


 それでも戦にはめっぽう強いから従っている、というのがプレシアの現在の統治体制だ。一重に戦争こそがヴェーザーが自身の存在価値を部下に証明できる機会なのだ。


 ヴェーザーも自分の性格は理解している。部下がどう自分を思っているのかも知っている。直そうと思えば直せるだろう。しかし、直さない。


 癪だから、というつまらないプライドのせいだ。元々破綻していた性格が余計にひん曲がって、今の彼女の人格が形成されている。謝る機会、治す機会を逃した不良の末路みたいなものだろう。


 「皆の衆、我らが警戒すべきものは向こう側にはない。相手はただただ自分の人的資源を浪費する無能。海戦を何度したとて理解も、学びもせぬ狂信者。嗚呼、神よ我らを救い給え、とだけ唱えておけば助かる、と本気で信じている弱者だ。こちらは時折死傷者こそ出、戦線を崩壊させしむほどではない。


 向こうのガレオン船は傷つき、そのうち海は紅く染まり、無限の木片が散らばる、と断言しよう。殺せ、殺せ、殺せ。連中の中身のない脳みそに例え千年経とうと、この要塞は落とせぬ、と理解させてやれ。


 哀れ狂信者共。


 死ぬときに初めて己の無力さを知るだろう。いや、神の御下とやらに行きたい自殺志願者共のことだ。ひょっとしたら、喜び勤しんでテクノブレイクするかもしれぬ。ひひ、同情してしまうよ。――さぁ、諸君楽しい戦争を始めようではないか」


 醜い龍は頬を高揚させこれでもか、とばかりに表情筋を釣り上げた。欲情した下衆がごとく、恍惚とした表情で天井を見上げた。獣欲とはかくもおぞましい、と居並ぶ参謀らは背筋を凍らせた。


 目の前のヴェーザーと呼ばれる水龍は大将軍などと呼ばれているが、きっとそんなものは役職だけで呼ばれる価値はない。役職を与えるならば、それは魔王か魔女か。ソーサラー系の職業だから魔女が正しいかもしれない。


 そう、ヴェーザーは魔女だ。『暴飲暴食の魔女』という最低最悪な二つ名のプレイヤーだ。スキルは指揮官系に特化し、素の戦闘力はそこまではない。部下がいなければ大した戦力にはならないだろう。


 だが、部下のいる彼女は強い。


 彼女の無類にして無法、悪意の権化と言ってもいい地獄を何度となく経験してきたプレシアの兵士達は彼女を卑下する。死にはしないけど、見ているだけで気分が悪くなる。


 それはきっと、彼らがニンゲンだから、だろう。感情と呼ばれる機能があって、思考を左右する因子になる。畏怖だとか狂喜だとか、とても可愛いらしい感情は人類が永遠に近い生命の輝きを得た後も、まだ残っている。


 つまり何が言いたいか、と問われればニンゲン、いや人類というものはどれほど充実した生涯を送ろうと、待遇が良かろうと、永遠の命を得ようと、感情の機微一つで凶行に走り、隣人に刃を突き立て、愛すべき存在を他人へ差し出す。


 変わらぬのだ。いつまでも。


 ――ヴェーザーの『正面戦力の徹底的な撃滅』という指令はすぐさま第一、第二砦に伝えられた。あまりにありきたり、しかし現場の兵士が奮起するのにトップの豪気な命令ほど戦争意欲を掻き立てるものはない。


 参謀らと違い、ヴェーザーと会う機会が滅多にない一般兵士らにとって大将軍というのは雲上の存在だからだ。早い話、王が共に剣を取って民と戦うと民の戦意が高揚するがごとく、美女の口づけを欲する騎士がごとく、奮起の二文字が約束された激励だ。


 「撃ちまくれぇ!祖国をその邪悪なる爪痕で汚さんとする愚か者を海の藻屑と化してやれぇ!」

 「ゥラァァァァァ!!!」


 まるでベルトコンベアーの稼働を最大にしたかのように、小砦の兵士達は次々と弾薬庫から砲弾を、大矢を取り出していく。目指すは外敵の撃滅それ一つ、と言わんばかりにヤシュニナ軍は攻め立てた。


 これまでも必死に反撃はしていた。始め、リストグラキウスの大艦隊が現れた時こそ面くらい、その場の勢いに押されて反撃が消極的となっていったが、大将軍直々の命令により、兵士は堰を切ったダムが如く、鬼神となって勇んで砲弾を相手のガレオン船に叩きつけた。


 リストグラキウス軍はいきなりの相手の積極的攻勢に面食らったことだろう。今まで防壁の中からちまちま撃っていた連中がいきなりケツを叩かれた豚か、と疑いたくなる勢いで砲弾を雨あられと言わんばかりに撃ちまくってきたのだから。


 ソレイユ内のほとんどの船は木製だ。船底に穴が空くのを防止するために鉄を敷いているが、大まかな装甲は火を点ければ簡単に燃え上がる木材であり、砲弾一つで船体に穴が空く。


 幸いなのはこの世界ソレイユの砲弾が中に火薬を微量にしか含んでいない点だろう。もし、火薬が大量に詰まっていたら一発で木製の船など沈み、世界は鋼の蒸気船の時代になってしまう。しかし、微量の火薬であれば、弾薬庫にでも紛れ込まない限りは船体へのダメージは軽微だ。


 また、海上の戦いということもあり砲弾内の火薬は湿気やすい。プレシアでは火薬が湿気らないように細心の注意を払っているが、それでも持ってきてすぐ使うならいざしらず、長らく放置すれば、ただの投石行為にほかならない。


 まして、リストグラキウスの使う砲弾はどれもこれも長い航海で火薬が湿りに湿ったものばかり。今、リストグラキウスが撃っている砲弾はただの質量兵器以外の何者でもない。たまに爆発すれば御の字だろう。


 まぁ、唯一の彼らの幸運は弾薬庫に砲弾が命中しても大して炎上しない、という点くらいかもしれない。


 リストグラキウスの指揮官だって砲弾が使い物にならないことは承知している。砲兵をやっている兵士はさらに理解している。


 だが、撃たねばならない。撃てと命令され、撃たねば異端と断ぜられ、処分される。そして自分は誉れ高き神兵だ。自分達が信仰し、敬い、崇め奉る天上の神々がお望みとあらば喜び勇んで戦場へ赴くは道理と言えよう。


 道理が必ずしも正しいとは限らないが、今の自分の行動を憂うことがあろうか、と正面のガレオン船の一隻の船長である指揮官は嫌な汗を流した。眼前にあるのはこれまで何度も見てきた不朽不屈の大要塞。


 こんなものをどうやって落とせというのか、と自分の信じる道理に反し、彼はうめいた。いや、今日ここまでの苦難の航海を乗り越えた神兵全員が思ったことだろう。いかに「神がそれを望まれる」と言っても不可能ごとを可能ごとにするのは人の仕事ではない。


 しかるにこれはまつりごとなのだ。

 自分達に求められているのはこの行軍そのもの。勝利だ、敗北だのは問題ではない。ああ、偉大なる四柱の神々よ、我らを見守りたもれ、と叫声に紛れ、信徒の祈りがこだまする。


 恵みをお与え、慈愛の女神たるプライトンよ、英雄の生みの親であり、勝利の神たるエティよ、哀しみをお慰め下る、憐憫の女神たるオトンヌよ、死と郷愁の境界にたたずまれる、別離の神たるイヴェールよ。


 我らに祝福を、願わくばその御下へ、我らを誘い給え。はるかな天上、いと尊き方々の楽園へ、と祈らずば己の死を無意味なものと自覚してしまう。


 この戦争は神の試練と神兵は聞かされ、神兵長であるアーレスと共に西海の雪国を目指した。神の尖兵たる我らに砕けぬ敵などいない。イヴェール神の世界を支配船とする悪魔の軍勢など粉砕どころか土へと返してやるわ。そう意気込んで彼らはヤシュニナを目指した。


 しかし、待っていたのは勇壮にして苛烈な練度と鉄仮面にして不屈の精神を合わせ持った化物か、と叫び、嘆き、脱兎のごとく逃げ出したい、と思わせる邪悪な悪魔の軍勢だった。


 最初は消極的だった砲火は、いつの間にか千年の眠りから目覚めた火山を連想させるほど容赦のない連撃へと変貌した。


 自分達の寝床であり、壁であり、信頼熱き兵器たるガレオン船は船体に無数の穴が空き、みるみるうちに沈んでいく。天井が落ちてきて動けない。砲弾で足が飛ばされた。手が飛ばされた。即死しているなんて幸運なんだ。おい、早く海へ逃げろ。やめろこの船は俺のだ。お前らは泳いで逃げろ。


 溺れていくニンゲンの末路なんて哀れなものだ。


 その日、つまり開戦した日の夕暮れ頃にはリストグラキウスのガレオン船は三隻も沈んでしまっていた。海に浮かぶのは無数の船の残骸、ただそれのみ。人の死体はひとつも上がらない。皆仲良く海中モンスターの腹の中で同窓会でもしている頃だろう。


 初日の大勝利にして大敗北はヤシュニナ軍を大いに奮起させ、リストグラキウス軍をひどく落胆させた。


 この戦争にリストグラキウスがつぎ込んだ戦力はガレオン船三十隻、補給船二十隻、兵は操舵手や医療員などを含んで全二万人。ガレオン船一隻に三百人が詰め込まれ、残りは補給船に放り込まれている。


 つまり、ガレオン船が三隻沈む、ということは単純に計算して九百人の兵士を失う、ということだ。無論、九百人全員が海の藻屑と消えた、ということはないが、決して少なくはない戦力を失ったことは事実だ。


 二万の中の九百、というのは全体の二%程度だろう。しかし、この二%という数字は大きい。特に海上要塞を攻めよう、などとする場合はなおさらだ。


 近代戦ならいざしらず、攻城戦というのは圧倒的衝撃で攻め落とし、徹底的に内部の防備兵を殲滅し、陥落させる、というのが定石だ。そのためにも物量、つまり数が必要だ。


 ただの攻城戦であれば包囲して、籠城戦を強いる、という手でいいかもしれない。兵站の問題もあるが、理想形だ。しかし海上戦、それも海上要塞を落とそうと思うと、話は別だ。


 攻める側が圧倒的に不利になる。海上輸送、というのは陸路に比べて大いに危険を伴う。ましてガレオン船がはびこる技術水準の世界では、天候というものは航海の成否の決め手になるだろう。


 しかも、ソレイユ内の海には海洋モンスターがうようよいる。大型船であろうと海洋モンスターがぶつかって真っ二つ、なんて話は珍しくない。言ってしまえば地雷がぷかぷか浮かんでいるに等しい。無事に物資を軍へ送るなど、命がけ以外のなにものでもない。


 兵員も同様だ。陸地ならいざしらず、常に緊迫して足元もおぼつかない船の上での航海など目的地に到着する前に兵士の頭髪が抜け落ちてしまう。つまり、援軍は送りたくても送れない。


 そんな状況下で例え二%でも兵士を失う、というのは十分すぎる痛手だ。ともすれば、今回の侵攻の終了を告げる数字かもしれない。


 攻城戦、というのは壁を壊したらおしまい、ではないのだ。壁が壊されても兵士はしつこく反撃するし、窮鼠猫を噛むがごとく、手酷いしっぺ返しを食らう可能性はいくらでもある。


 実際、五年前がそうだった。四方の砦の一つを落とし、アーレス率いる最精鋭部隊が中央の大砦になだれ込み、あと一歩でプレシアが陥落する、というところまで行った。


 しかし、運悪くたまたま当時プレシアにいたヤシュニナの国防長官であり軍総司令官でもあるリドル、そしてプレシア司令官であるヴェーザーに接敵し、敗北。アーレスはヴェーザーによって海へと放り投げられ、残った彼の部下は全員リドルによって殺された。


 五年前のプレシア戦はヤシュニナでは二人の将軍、多くの将兵を失った慰霊祭に、リストグラキウスにとっては国恥記念日としてどちらにも語り継がれている。


 だからこそ、リストグラキウスは汚名を返上したい。なんとしてもプレシアを陥落せしめ、ヤシュニナの余裕のある姿勢を完膚なきまでに砕き、あわよくば自分達の信じる神、イヴェールの土地を奪還したい、と夢想していた。


 またアーレスなどはヴェーザーへのリベンジ、いや復讐に燃えていた。あの自分を小馬鹿にした糞蛇女の皮を削ぎ、眼をえぐり、牙と爪をすべて引っこ抜き剥がした後で無数の毒蛇のるつぼへ放り投げてやる、と切望していた。蛇に侵される気持ちはどうだろう。きっと、反吐がでるんだろうな、と想像しただけで彼の体は細かく痙攣した。


 幸い、リドルがプレシアにいないことはヤシュニナ国内のシンパによって把握している。一応リドルにも勝てる戦力は持ってきたが、やはりあの男の力は未知数だ。いないに越したことはない。


 夜、自身の騎士刻印ナイトクレストが刻まれた帆を仰ぎ見ながら、アーレスはゆっくりと視線をプレシアのさらに奥へと向けた。腰の宝剣を強く握り、その美貌が歪むほど、顔面に力を込めた。


 「……殺してやる……。この私に恥をかかせた異教の蛮族め……」


 彼の静かな殺人告白は誰の耳にも入らなかった。ただの月明かりに反射した、宝剣が煌めいただけだった。

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