第45話 黒猫と少年

(飛んでごらん。外はいいよ)

隣の家の黒猫は、

私と、地面とを交互に見る。

(どうして一生、家の中で過ごさなくてはならないの。飛んでごらんよ。飛べ!)

私は黒猫の目を見た。

ベランダの手すりに飛び乗り、前脚を上手に使って丸い手すりの上に立っていた。


滑ればいいのに。

滑って落ちなよ。

飛べ!

そして、死んでしまいなさい。

私は命じた。


黒猫は地面を見ていた。

そして私を見た。

私は祈るようにうなづいた。

黒猫は飛ぼうとしていた。

一瞬、前に体を伸ばした。


その時、

『クロちゃん』

女が呼んだ。

黒猫は、はっとして、ベランダに降りた。

あと少しだったのに!

あとちょっとだったのに!

女は、黒猫を抱いた。振り向いたときに、ベランダ越しに目が合った。


「あんなところに、乗って大丈夫なの」

朝の挨拶もしないで唐突に聞いた。


自分が不自然に眉を寄せているのを額に感じた。

「だめなのよ」

「あれは、何?飛ぼうとしているの?」


声に変な興奮が含まれてしまう。

「ううん、外が見たいの」

女は言った。

胸で暴れる黒猫を、必死でおさえつけて抱いている。釣られたばかりのまぐろみたいに暴れて、ベランダに降りた。

「そうかぁ、危ないね」

「そうなの、あの子、右の前脚がないのにああいうこと、するの」

「ふぅん、じゃあね」

二人は、愛想笑いをして会釈して、背中を向けた時には、口をゆがめて、苦々しい顔をした。

(馬鹿みたい)

二人は同時にそう思った。


まるで、近くにいると生理がうつるみたいに、二人は同じことを同じ時に考えるようになっていた。


しばらくして、女が洗濯物を干し始めると、隣の家の知的障害の少年がベランダで水を飲んでいた。

少年は休日家にいる時や、仕事から帰った時、三十分に一回くらいベランダに出てくる。そして、ペプシコ―ラのペットボトルに入った水をごくごく飲む。その時には必ず、オレンジ色のベストを着る。ベストの腕の部分から左手の手先を胸元に差し入れ、右手でペットボトルの水を飲む。そして、奥さんが干した洗濯物に水をかける。

そして、そのあとで、ベランダから身を乗り出して下を見る。水を上から残り全部撒く。

(自由になりたいのね。独りで飛びまわってみたいわよね。いつも奥さんが影のようにぴったりくっついていて、自由がないのだもの)

女は心から少年の自由を祈った。

(少年、飛びなさい。そこから飛んでしまいなさい。そして、死んでしまいなさい。あんなうるさい奥さんに一生つきまとわれるくらいなら、そうした方がいいのよ)

少年は、身を乗り出して、片脚をふっ、ふっとあげる。そして、笑う。スリルを楽しむ気持ちは正常みたいだった。

(さあ、あと少し!)

と思ったその時、

「また洗濯物濡らしたの」

奥さんがベランダに出てきた。


「どうも。せいちゃんは、外に出たいのかしら?」

女が興奮した声で聞く。

奥さんは、目を丸くして、へぇ?それはあなたのとこの黒猫でしょう、と思った。


「なんだかね、職場の憧れている職員さんがベランダでタバコを吸うらしくて、その真似なのよ」と言った。

そしてまた二人は

(馬鹿みたい)

と同時に考えた。


(気持ち悪いものを、ベランダに出すなよ)

奥さんは大の猫嫌いでしたし、女は大の障害者嫌いでしたので。


どちらの励ましが早くかなえられるかは、誰にもわかりません。



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