第14話 デパートを駆ける女 S39才

息子の障害について吹っ切れたのは、あの時からなのでは、と思うひとつの出来事があります。


今から八年ほど前、息子が十歳の頃だと思います。

夫は社会人野球の現役を退き、仕事に専念するようになって、五キロも太ってしまいました。


「腹がきつくてイライラしてくるんだ」

と夫があんまり言うので、身体の修正はあきらめて、新しいスーツを作ることにしました。


冬のボーナスが入った最初の日曜日、家族三人でデパートに行きました。

手足が長く、既製品では合わないため、独身の頃からずっと義母がそこで作っていたのです。

紳士服売り場に着くと、夫は革のジャケットを私に持たせ、採寸に向かいました。


若い女性店員が慣れた手つきで夫の腕や背中を測り始めました。息子は商談用のソファに座って夫を眺めていました。


息子はその頃から、新陳代謝がよくなったのか、とても暑がりになり真冬でもTシャツと短パンで過ごすようになっていました。


しかし、その日はちゃんとトレーナーとジーパンを着せてきましたし、おとなしくしている様子に安心して、私はワイシャツやスーツの生地を選んでいました。


ほんの何分間か息子の存在を忘れ、夫をより良い男に見せるアイデアを考えていました。


「やめなさい」


夫の棘のある声に我に返りました。

振り向くと、驚いたことに息子は上半身裸になって、脱いだTシャツをタオル代わりにして、乾布摩擦みたいに背中を拭いていました。


「あー、(あ)つい」とせいせいとした顔をしています。


トレーナーはぐちゃっとソファに脱ぎ捨ててありました。


「こらこら、だめよ」


私はすぐそばに行ってTシャツを着せようとしましたが、「やだ!(あ)つい」と言って逃げます。「これだけは着ようね」と言っても、首を振るばかり。ごちゃごちゃやっていると、人々の視線が刺さりました。


多少のパフォーマンスも加わって、「いけません!」と私は息子のお尻を叩きました。息子の動きは止まり、泣きべそをかいて、いじけた顔で今度は股間を触り始めたのです。

それは私が息子に一番やってほしくない行為でした。息子が股間を触るのは、精神的な安心を求めたものだと思うのですが、周囲はそうは思いません。


さすがに私は顔が熱くなってきました。上半身裸で股間を触る息子に、私は腫れ物に触るように今度は懇願していました。


「わかった。着なくてもいいからおいで」と手をとりましたが、振り払われました。頑としてそこを動かず、触ることもやめないのです。

私は喉がカラカラになってしまいました。


ふわっと風が起きて、夫のつけているスパイシーなオーデコロンが香りました。横に来てくれた夫に、藁にもすがる思いでした。

ところが夫は他人みたいな顔で、息子の手を思い切り叩くと、荒っぽくTシャツをひったくり、無理矢理に着せました。


そして私に「屋上にでも行ってなさい」と早口で言ったのです。目線は完全に泳いでいました。こんなに恥ずかしそうな夫を見たのは初めてでした。自分の恥ずかしさなど、吹き飛びました。夫が哀れになって何かを言いかけた私の視線を捨て、夫は向き直り、店員のところに戻ると「失礼」とそれは優しく微笑んだのです。

店員はまあまあ、お気の毒に、という顔をして夫を見ました。


私は見棄てられ、支えが全部折れたようになって、もう自分が風船みたいにふわふわと飛んでいくような感じがしました。息子は顔を真っ赤にして、声も出さずに涙をこぼしていました。

何よ。自分ばかり良いかっこうをして。

何よ。これは、あなたの真似じゃない。朝起きるとテレビの前にボーッと立って、パジャマのズボンのおなかのところから手を入れて触っているじゃない。落ち着くのでしょう?

「別に・・・、別に自分のものなんだから、触ったっていいじゃない」。

気がついたら、そばにいた女性客がはっとして、指先で口を押さえるくらいの声を出していました。

夫がその女性店員に優しく微笑むことさえしないでくれたなら、私は黙って立ち去ることができたのですが。

「おいで」

息子の手を強くひっぱると、今度は意外なほど素直についてきて、その勢いのまま私たちは運動会の親子競技みたいに、チョコチョコと走りました。スーツ、ワイシャツ、ネクタイ、カバン、靴などの売り場を、ブーツのかかとを鳴らして抜けていきました。


みんながなにごとか、と見ました。


いつも動きやすいスポーティなものばかり着ているけれど、夫と出かける時には、女らしいかっこうをしようと心がけていました。でも、今日こそ、体操着でも着てくるべきでした。走りながら息子を見ると、笑っていました。

私も何かが吹っ切れて、とても楽しい気分でした。


デパートを駆けるって、楽しいですよ。

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