記憶を踏みつけて愛に近づく

野森ちえこ

遠い記憶、いつかの未来

 あの日。


 彼女は笑っていた。なのに、どうしてだろう。

 ぼくには、泣いているように見えた。


 まわりを明るくする、彼女のやさしい笑顔が。

 ぼくには、泣き顔に見えたんだ。



 ◇◇◇



 自分の顔やスタイルが平均以下だと自覚したのは、いつだったろう。


 中学時代、はじめて好きになった女の子に勇気をふりしぼって告白したのに、冗談はやめてと大笑いされたときだろうか。それとも、女の子たちのあいだで、ぼくへの告白が『罰ゲーム』にされていると知ったときだろうか。

 わからないけれど、それなりに謙虚な心を持っていたぼくは、高校を卒業するころにはもう、恋愛や結婚というものをあきらめていた。

 それを『よかった』といっていいのかどうか複雑なものがあるけれど、欲を捨てたぼくは、ある意味モテるようになった。人畜無害な友人として。あるいは意中の相手に近づくための橋渡し役として。恋に悩む女の子に引きあわされることもよくあったし、女子グループの中で男はぼくひとり――なんて状況もめずらしいことではなかった。



 ◇◇◇



 はじめて三角愛みすみあいさんと会ったのも、やっぱり女子会のような集まりに呼ばれていったときのことだ。けれど、その集まりがどのようなものだったのか。愛さんのほかに誰がいたのか。そんなことすら、よくおぼえていない。


 ぼくの心には、それくらい鮮烈に彼女の存在が刻みこまれていた。


 笑っているのに、泣いているように見えた。まわりを明るくする、彼女のやさしい笑顔が、はじけるような笑顔が、ぼくには泣き顔に見えたのだ。


 愛さんとは大学はべつだったけれど、おない年の一年生で、話しやすい雰囲気の人だった。だから、まわりに気づかれないよう、すきを見て聞いた。聞かずには、いられなかった。


「なにか悲しいことがあったの?」と。


 愛さんは目をまんまるくして、とても驚いていた。これまで誰にも気づかれたことなかったのにと。それから、「ちょっとね。ひきずってるだけ。失恋」と、息みたいなちいさな声でささやいて。恋バナ聞くのは、じつはまだちょっとつらいのだと、やっぱり泣きそうな顔でくしゃりと笑った。



 ◇◇◇



 それからぼくたちは、ときどき食事に行ったりするようになった。もちろん、友だちとして。


 くわしいことは話してくれなかったけれど、きっと愛さんは、その元カレのことがほんとうに好きだったのだと思う。だって、高校を卒業する直前に別れたというのだから、ぼくたちが出会った時点ですでに半年以上たっている。

 ぼくは、まともに恋愛したことがないから、ちゃんとはわからなかったけれど、想像なら少しはできた。とても、とても、好きだったのだ。そうでなければ、半年以上たっても、まだ昨日のことみたいに思って悲しくなってしまうようなことはないはずだから。


 愛さんは、明るくてやさしくて、男女問わず人気者だ。彼女さえその気になれば、いつだって『つぎの恋』をはじめられるのに。愛さんはそうしない。まだ、遠くの昨日にいる。



 ◇◇◇



 ぼくたちはいろんな話をした。ゆで卵は固ゆでと半熟どっちが好きとか、あんこは粒あん派かこしあん派かとか。そんなどうでもいいような話から、将来の話まで。


 愛さんはデザイン系の仕事がしたいのだと目を輝かせていた。洋服とかではなく、インテリアデザインの道に進みたいらしい。


 ぼくはといえば、夢という夢は特になかった。できるだけ平和に、人と争わずに生きていければそれでいいと思っている。愛さんは、否定も肯定もしなかった。ただ「なんで、そんなにいろいろあきらめちゃってるの?」と、少しさみしそうな顔をしていた。けれどぼくは、なんでかな――と、するりとはぐらかした。


 そんなある日。


君竹きみたけくんは、腹立たないの?」


 なんの脈絡もなく、とうとつにそんなことを聞かれて驚いてしまった。


 どうやら、中学時代に告白したこととか、罰ゲームで告白されたこととか。ぼくの噂をいろいろと聞いたらしかった。ぼく自身、女子たちのあいだでおもしろおかしく脚色されて広まっているということは知っていたし、もう今さら気にすることもない。だけど、大学進学のために遠くから引っ越してきた愛さんは初耳だったようで、ぼくのほうがびっくりしてしまうくらい心を痛めていた。


 それどころか。


 ぼくなんかのために、怒っていた。

 ぼくなんかのために、泣いていた。


 そして最後には、なんで怒らないのと怒られた。



 ◇◇◇



 こんなにそばにいて、いろんな話をして。ぼくのために怒ってくれる人を、好きにならない方法があるのなら、教えてほしい。


 ぼくは、どうすればいいのだろう。


 彼女には、忘れられない恋があって。

 ぼくは、恋をあきらめていて。


 それでも好きになってしまったら。

 いったいどうすればいいのだろう。


 悩んで悩んで。悩みすぎて熱を出して、ぼくは寝こんでしまった。子どもみたいだ。


 お酒の勢いというのは聞いたことあるけれど、熱の勢いというのもあるのだろうか。お見舞いにきてくれた彼女に、「愛さんのことを好きになってしまって困ってる」と、ぼくはほとんど無意識に告げていた。そうしたら。


「なんで困るの?」


 熱でぼんやりする視界のなかで、愛さんはきょとんと首をかしげていた。


 ぼくはそのとき、はじめて気がついた。いつからか、彼女があの悲しい笑顔を見せなくなっていたことに。笑顔がちゃんと、笑顔になっていたことに。



 ◇◇◇



 熱がさがってから、ぼくはあらためて、愛さんに交際を申しこんだ。


 十年は寿命が縮んだのではないかと思うくらい、心臓はせわしなく暴れていた。


 怖くて怖くて泣きそうだったぼくに、愛さんはひとつだけ条件を出した。


 もう『ぼくなんか』といわないこと。


 約束した。指切りした。愛さんはうれしそうに笑った。ちゃんと、笑顔だった。



 ◇◇◇



 ぼくはもう、ぼくなんか――とはいわない。女子会にもいかない。かわいい彼女ができたから。大切な恋人ができたから。



 悲しい記憶を踏みつけて。

 つらい記憶を踏みつぶして。


 思いっきり蹴飛ばした。


 悲しい記憶が。

 つらい記憶が。


 いつか――


 いつか、遠い未来の栄養になればいい。


 そのときまで愛さんのとなりにいられたら。

 ぼくはきっと、それだけで幸せだ。



     (おしまい)


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