十二通目 『イヴ』さんからのお便り

 少し前まで、私は入院していました。

 予備校帰りに、自動車との衝突事故に遭ったせいです。

 奇跡的に一命は取り留めましたが、左目の視力を失い、両足も骨折していて、救急車で運び込まれた時はそれはもうひどい有様だったと、担当の先生から聞きました。

 臨死体験って、本当にあるんですね。車にはねられて意識が飛んだ後、私は宙に浮かんでいたんです。他人事ヒトゴトみたいに事故現場を見下ろしながら。

 病院で緊急手術が始まってからは、さすがに自分の身体に強制的に戻されて、意識が回復するまで眠りっ放しだったんですけど。

 大学受験に失敗して二浪中でしたし、このまま死んでもまぁいいか、なんて考えていました。

 入院数日後、私の病室に、警察の人たちが事情聴取しに来ました。運転手の男性は、あの時飲酒運転していたそうです。

 男性の奥さんと小さい息子さんも、謝罪とお見舞いに来てくれました。私の両親も、こんなふうに優しい人たちだったらよかったのに。そう残念に思いましたけど。いろんな手続きは、私に顔も見せずに着々と進めていたんでしょう。私を個室で療養させたのも、世間体を気にしたからでしょうし。

 事故の慰謝料にも興味はなくて、ぼーっと病室で過ごすだけの日常が続きました。

 ――なんで生きてるんだろう。早く人生が終わればいいのに。

 死に切れなかったことを悔やんだまま、私は病院食も惰性で食べていました。右側の視界しかない生活でも、特に不自由さは感じませんでした。だって、私は元々人間として生きることに向いていない出来損ないですから。こうなって、むしろよかったんです。自分がだと証明できている気もして。

 入院して二週間が経とうとしていた頃でしょうか。ベッドの正面の壁に、黒い染みがあることに気がつきました。ちょうど、私がベッドに上半身を起こした状態での、目線の高さと同じくらいの位置に。

 毎日同じ景色ばかり見ていましたし、その染みも最初からあったのかもしれないんですけど、なぜかよく憶えていませんでした。

 次の日、染みが前日より少し大きくなっているような気がしました。検温や診察に来る先生や看護師さんたちも、染みのことは特に気にしていないのか、私にその話をすることはありませんでした。

 次の日も、そのまた次の日も、染みはじわじわと広がっていくようでした。最初はスーパーボールくらいの大きさだったのに、私の手がすっぽり収まりそうにもなっていました。

 さすがに、ただの汚れじゃないんじゃないかと疑い始めました。検温時間に、若い看護師さんにさりげなく聞いてみました。

「あの……あそこの染みって、前からあるんですか?」

「え?」

 彼女はきょとんとして、壁のほうを見ました。


「染みなんてないけど。虫でもとまってたのかな」


 そうですか、と私は平静を装って答えましたけど、内心驚きました。その時も、私の目には確かに映っていたのに。先生やほかの看護師さんに聞いてみても、結果は同じでした。

 交通事故に遭ったことで、見えなかったものが見えるようになってしまったんでしょうか。

 このまま染みがどこまで大きくなるのか、見届けたくなりました。

 そして、ある夜のことです。消灯時間が来て、部屋も廊下も真っ暗になっても、私はなかなか寝つけませんでした。窓のカーテン越しに射す夜の青い光を、ぼんやりと眺めていました。

 そんな時、視界の左側で何かがゆらりと動いた気がしました。

 左目にはガーゼと包帯が巻かれたままでしたし、どの道失明したので、首を動かして確かめたんですけど。


 黒い染みの奥から、同じ色をした一本の細い腕が生えてきていたんです。


 少し驚きはしましたけど、怖くはありませんでした。むしろ、迎えが来たんだとさえ思いました。私をあの世へ連れていくための。

 ゆらりゆらりと波打ちながら、腕は私の顔まで近づいてきました。指先には鋭い爪が生えているようで、私の右目をつかもうとするように、ぴたりとまぶたに押し当ててきました。何の温度も感じませんでした。


〈綺麗ナ眼、チョウダイ〉


 どこからか、女の人の声がしました。小さい女の子にも、三十代くらいの女性にも、おばあさんにも聞こえる、不思議な声色でした。

「いいよ」

 私は、淡々と許可しました。

「どうせ、私は使い物にならない役立たずだし。なんなら、目だけじゃなくて全部持ってっていいよ。命もね」

 これでやっと死ねる――そう安心してさえいました。

 もう親の期待に応える必要もない。幼稚園時代から続いていた勉強漬けの生活が終わる。

 身を任せてじっとしていましたが、黒い手はなぜか動こうとしませんでした。それどころか、またゆらゆらと染みの中へ戻っていったんです。

 がっかりしました。てっきり、私を殺してくれるものだと期待していたのに。まだこので生きなければいけないのかと、憂鬱になりました。


 ふて寝をして次の朝が来ると、壁の染みはすっかり消えていました。

 あの腕は、私が退院した今でも、病院で患者さんたちの目を奪おうとしているのかもしれません。

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