第33話 出立

 ヘレンの書はアーネストの父親が執筆したものだった。アーネストはそれを分かってこの「ヘレンの書」を探していたのである。筆者と彼が親子関係にあることは周も知らなかった。

「なーんか、肩の荷が下りたよ。ありがとうな、お前さんたち」

 その日の夕方、和葉たちは常代たちの家へ帰り、居間で「ヘレンの書」を読んでいた。アーネストの顔つきが、いつも以上に穏やかだ。

「ったく、大事なことは先に言ってろよな。1人ですっきりしたような顔をしやがって。腹立つ」

 周もそうは言っているが、彼もまた穏やかな顔つきである。

「それにしても、『涙が特効薬』って、他人の涙を摂取することじゃなかったんですね。自分が泣かないと意味がないなんて……でも、答えは意外と単純でしたね」

「お前さん、言うようになったなあ……。確かに、俺たちは『涙の成分が人体に影響する』っていう考えに固執しすぎていたようだな。で、でも! 原因が罪悪感であることは結構勘づいていたんだ! なあ、周!」

 突然話を振られた周は、驚いて顔を上げた。

「まあな。工場の従業員は川を汚している罪悪感、杏樹は戦争中に安全に暮らしているという罪悪感、『神様の場所』に住んでいるという罪悪感があった。……でも三雲が分からないんだよな……」

「三雲ちゃんは自分の価値が分からなくなっていたな。やっぱり原因を『罪悪感』に絞るのは早そうだな……『罪悪感など』によって『自分に自信がなくなった』と考えた方がしっくりくるかもしれない。真実が見つかったと思っていても、勉強しているうちにそれが真実ではないことに気づくこともあるからね」

「ちょっと名言っぽいなそれ……。っとまあ、こんな感じで先生と考察してたんだ。確信はなかったから和葉には言ってなかったけどな」

「ひどい! 私だけ仲間外れじゃないですか!」

「てめえに言ったら、舞い上がって喜んで面倒なことになると思ったんだよ! もっと落ち着きを持ちやがれ」

「お前さんもね、周」

 ぎゃあぎゃあと周とアーネストが騒ぎ出したところで、常代が夕飯を持ってきた。玄米ご飯とみそ汁、この土地の綺麗な川で獲れた魚の塩焼きだ。この場所に初めて来たとき、和葉は玄米ご飯に慣れておらずなかなか飲み込むことができなかったが、今ではすっかり玄米ご飯のとりこになってしまった。

「本当に本が見つかってよかったわね! でも、この場所にいるのは本が見つかるまで、と言ってたとはいえ、なんで出発を明日にしちゃうの? もう1週間くらい、ゆっくりしていけばいいのに。川もあるから釣りもできるわよ」

 アーネストは先ほど常代に、明日中央地区へ帰ると伝えていた。

「もう用事は済みましたから。早く仕事に戻らないと、今度こそ教授職をクビになっちゃいますよ。それに、この本に関して発表しないといけませんしね。調査も続けるつもりです。この本に書いてあることすべてが正しい、というわけではないかもしれませんから」

 アーネストは「ヘレンの書」を持った右手をひらひらと降った。常代は頑固な子どもを見るように笑った。

「あと、南部地区の様子も見に行かないとな。ジャンの野郎が気になる。涙を流させないと、あいつヘレニウム病になっちまうからな」

 周は魚の骨を丁寧にとりながら言った。

「うーん、一応南部地区の従業員の人たちへ手紙を送ってみるか。中央地区の住所を書いておけば返事も貰えるしな。落ち着いたら南部地区へ行こう。でもお前さんが必要以上に心配する必要はないよ。周は優しいもんなあ。意外と。ねー」

 アーネストが和葉に目を合わせて同意を促した。小さな子どものような仕草に、和葉は思わず吹き出しそうになった。

「別に優しかねえよ。研究の材料にするだけだ」

 周はそっぽを向いて茶を口に含み、気管のおかしなところに入ったのか、盛大にむせていた。


 翌朝、3人の出発の時が来た。周とアーネストは早くに準備を終えていたが、和葉はリンと話し込んで準備が遅れてしまっていた。

「ごめんね、話しかけちゃって! これでお別れだって言うから……。また遊びに来てね」

 すっかり心を開いたリンは、悲しそうに和葉の手を握った。「また遊びに来てね」と言われて心が痛んだが、曖昧に笑って返事をしようとした。しかし意思とは裏腹に、和葉の目からは涙が止まらない。

「わあ! 和葉ちゃん泣いてる! そんな、一生のお別れじゃないんだからさ、元気出して。次は調査じゃなくてさ、遊びにおいでよ」

 リンは服の袖で和葉の涙を拭った。東部地区は中央地区ほど涙を吸収させるハンカチが普及していない。ただ、もしリンがそのハンカチを持っていたとしても、袖で拭いていただろう。そう感じさせる「何か」が彼女にはあった。

「それに、もしお父さんが厳しくて嫌になったら、この地区に来るといいよ。でもお父さんともう一度話してみて。このまま気持ちがすれ違ってたら後悔しちゃうよ」

「後悔?」

「だって和葉ちゃん、お父さんのこと嫌いじゃないって言ってたじゃない! その時の和葉ちゃん、お父さんのこと好きそうな顔してたよ。きっとお父さんも和葉ちゃんのこと好きだよ。勉強が苦手な和葉ちゃんを心配しすぎて、不器用に怒っちゃったりしてるのかもしれないよ? そうであってほしいな」

 和葉はリンの大人びた発言をポカンとして聞いていた。

 (年齢はさほど変わらないはずなのに……)

「リンさん、本当にすごいなあ……。お医者さんに向いてますよ。カウンセラーとか……」

「そう言われると嬉しいな。でもこれおばあちゃんの受け売りだよ。30年くらい前にニホンって所から来た人も、和葉ちゃんと全く同じこと言ってたんだって。おばあちゃんはその人のおかげで、30年前の戦争で傷ついた心を癒すことができたらしいよ。不器用ながらも慰めてくれて……って話、もう何十回も聞いたな。私の名前もその人の名前と似せてるんだよ。『リンタロウ』さんっていう人から、『リン』をとったの」

「え! そうなんですか? 私のお父さんも『林太郎』ですよ。まあ、漢字が違うかもしれないけど」

「あら! そうなの? 素晴らしい運命だね! なおさらお父さんと仲直りしなくちゃ」


「おーい、和葉! ここに住む気か?」

 玄関から早くするよう急かす声が聞こえ、慌てて荷物を持って廊下を走った。アーネストと周はもう準備万端だ。

「また来てね。執筆、無理しないで頑張るのよ」

「大丈夫ですよ。先生サボるのが得意なんで」

 そう言う周の額を、アーネストが軽く指で弾いた。

「大したおもてなしもできませんでしたが、数日間ありがとうございました。道中お気をつけて」

 賢は珍しくはにかみ、浅く頭を下げた。和葉たちは常代や賢と握手を交わす。リンは少し照れ臭そうだ。普通に生活を送っていて、人と握手する機会はそんなに多くない。和葉もつられて照れたように笑った。

「私、お父さんともう一度話してみます。喧嘩別れなんて、悲しいですから」

 そう言うと、リンは嬉しそうに笑った。やっぱり、笑った顔が常代によく似ている。顔をずっと見ていると泣いてしまいそうで、和葉はリンのえくぼを見つめていた。

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