第30話 伝説(2)

 次の日、手分けをしてヘレンの書を探していたものの、一向に見つからない。東部地区は面積自体は広いものの人口は少ないため、1日で7割の世帯への調査が終わってしまった。

 7割のうちほとんどが農家であり、誰しもが首を横に振った。僅かにいた農家以外の人物は役人や詩人だったが、特に情報は得られなかった。

 調査した人々の中には「調査を……」と言った瞬間、ドアをピシャリと閉めてしまう者もいた。和葉は思わず涙ぐんだが、アーネストはけろっとして「余裕がないんだろうな」と言った。


「残りの3割は多分、あの『神様の場所』って所にいる連中だな。下り坂が多くて行くのは楽だろうけど、山の麓でちっと遠いから明日にするか」

 合流した周は岩に腰かけて汗を拭った。ジメジメとした空気が辺りを生ぬるく包み込む。べたべたする体は、汗によるものなのか、湿気によるものなのか分からないくらいだ。

「はあ、明日もするんですよね……なんか雨が降りそうですけど、大丈夫ですか?」

 和葉は岩に座る周の前に立ち、右足を軸にして、左足のつま先で円を描いた。湿気は十分あるはずなのに、地面だけはやけにサラサラとしている。

「まあ、そうだな。でも雨が降っても傘があるし、いいだろ。この辺りは強い雨が降らないらしいし。なんだ、さてはお前やる気ねえな? お前がニホンに帰るにも必要な本だろうが。せっかく涙もお前以外で3人分貯まったんだ。あと1人分貯めねえといけないし。調査中にポロっと泣く奴がいるかもしれねえよ?」

「そんなに簡単に泣く人なんて見つかりませんよ……特にここはなんか平和そうですし」

「よく泣くのはお前ぐらいだよなあ……」

 和葉はキッと周を睨み、足で地面を蹴って砂を舞い上がらせた。周は慌てて岩から立ち上がり、目を手で覆った。

「すみませーん。足が滑っちゃって」

「いって! なんだよ! 図星指されたからって! 別に泣くことは悪いことじゃねえだろうがよ!」

「そうだよ、この国ではむしろ重宝されるからね」

 和葉と周が騒いでいると、アーネストが歩み寄ってきた。周は砂が入った目をパチパチとさせた。幸いにもそこまで多量の砂は入ってなかったが、和葉は一時の感情に身を任せてしまったことを後悔し、申し訳ない気持ちになった。

「周は時々デリカシーがないよなあ……。だからモテないんじゃないか?」

「うるせえ! 女ったらしの先生よりかはマシだろ。それと、デリカシーはある」

「はいはい、ありますあります。あと、俺、女ったらしじゃないからな? ……そういや和葉ちゃん、ニホンでは泣くことが恥とされているのかい? この国でもヘレニウム病に涙が効くと分かる前は、泣くことが恥ずかしいことって認識だったらしいが……。まあ、今も泣くのを恥ずかしがる奴もいるけどな?」

 アーネストはちらりと横目で周を見た。

「そうですね……。大きくなってから泣くと、周りから変な目で見られるかも……。私もこの国に来る前に泣いてばかりいたから、お父さんに怒られちゃったし。この国では泣くことは恥ずかしくないんですか? ウザがられたりしないんですか?」

 ここ最近父親のことを忘れていたものの、やはり少しは引きずっている。早く日本に帰りたいという気持ちと、父親と違って自分を必要としてくれる人がいるこの国にいることが心地よいという気持ちが、心の中でせめぎ合っている。

「恥ずかしいには恥ずかしいが、それよりも涙が金になるからな。恥ずかしがる暇なんてないさ。お前さんがこの国に来たばかりの頃少し話したのを覚えてるか? この国の住民は、戦争になると涙が出にくくなるという性質があるんだ。おそらく遺伝子上の問題だがな。普通、悲しいと涙が出るだろ? この国では逆なんだ。耐えられるレベルで悲しい時は涙が出るが、自分が耐えられないほど悲しい出来事が起こると、涙が出なくなると言われている。だから、涙が貴重になる。よく泣く子どもの傍にいるときは、ハンカチ必須だな」

「戦争中に流行るヘレニウム病に必要なのが、戦争中に枯渇する涙なんてね。難儀なもんだ」

 もし自分がこの国の住民だったら、きっと母親が死んだときに涙が出なかっただろうと和葉は思った。あれは耐えられないほどの悲しみだったから。そしたら父親に怒られることはなかっただろう。しかしそれはそれで恐ろしい気がした。悲しいのに涙が出ないなんて、悲しい気持ちは一体どこに流れていくのだろう……。

「南部地区のジャンさんも、最後会ったときは泣いていなかっただろう? あの人も気の毒なことだったなあ……っと! なんだ雨か?」

 話し込んでいるうちに、いつの間にか空は灰色の雲で覆われていた。ポツリポツリと地面に染みができる。

 慌てて民泊の家に入ると、常代がタオルを用意していた。賢と常代は普段簡単な菜園で作業をしているが、今日は早めに帰ってきたらしい。リンも学校から帰ってきたようで、部屋の隅の方で頭を拭いている。

「雲行きが怪しくなってきたから、心配していたのよ。無事でよかったわ」

「ご心配おかけしました。ところで、この辺りに傘を売っている店はありませんか? 明日もきっと雨でしょうから、調査の時に傘を差したいと思いまして……」

 アーネストがそう言った瞬間、常代は顔を曇らせた。

「雨の日くらい休んだら? 近くなら心配ないけど、遠くまで調査に行くなら不安よ。どこに調査に行くの?」

「あの『神様の場所』って所に住む人たちの家です。あと調査してない所はそこくらいなんで」

「なおさら駄目よ! あそこには、特に雨が降っている時には近づいちゃいけないって言われているの。私はあんまり信心深くはないけど、行かないに越したことはないわ。雨の日は神様の気が高ぶるんですって!」

 常代は少し興奮したように言った。昔からこの辺りでは、大雨が降ったときに多くの人が「あの世」に引きづりこまれた、と言われてるらしい。ここは大雨が降らないため、常代も賢も詳しいことは知らなかった。

 結局、和葉たち3人は明日の調査を諦めた。賢が倉庫から大量の本を持ってきたため、それらを読んで過ごすことになった。



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