第27話 雪解け

 周と杏樹は、同時に有人の部屋の前に到着したものの、先に部屋に通されたのは周だった。杏樹は「なぜ」と小さい声で呟き、目に涙の膜を張った。

「安心しな。死に際には会えるさ」

 そう言って周は重いドアを開けた。「相変わらず年寄りには厳しい家だな」と杏樹に笑いかけるのも忘れなかった。


「よお、久しぶりだな。まあでも、どうせもうすぐサヨナラするんだけどな」

「周、すまない。ここにお前を呼んだのは私の我が儘だ。アーネストに手紙を書いてな」

「何か用でもあったのかよ。まさか、この家を継げとでも言うんじゃねえだろうな」

「まさか、今更そんなこと頼まんさ。でももし、土地が欲しければいくらでもやろう。ただ私は、お前に謝りたかったんだ。本当にすまない。許さなくたっていい。許されるなんて思ってない」

「別にもう怒ってねえよ。興味もねえ。俺はもうスラム街から抜けてるし、だから、別に自分を責めなくていい。ったく、どうしてこうも自分を責めるのかねえ……杏樹も、父上も」

 周はため息をついて、有人の掛布団を胸まで引き上げた。

「こんなに優しい子に育つなんて、よっぽど母上とアーネストの教育が良かったんだな。俺は杏樹に何もしてやれなかったよ。……そうそう、お前を呼んだのはな、杏樹に会わせたいと思っていたということも理由の一つなんだ。でもやっぱり、お前の成長した姿を見れたのが一番嬉しい。母上そっくりだな……。女の子にさぞや好かれるだろう」

「全然モテねえよ。先生の方がよっぽど女にモテる。人たらしだからな」

 有人は嬉しそうに声を上げて笑った。そのせいで咳き込み、周が慌てて背を擦った。

「はは、きっとお前の美貌に嫉妬しているのさ。なんだかいいなあ。お前とこんな話ができるなんて、思ってもみなかった。これが親子なのか……」

 有人は遠い目をして窓を見つめる。曇っていた空はいつの間にか晴れ、木の枝がそよ風に揺れている。彼の死期が迫っていることを悟った周は、彼の瞳が自分に向くように、カサカサの手を自身の滑らかな手で包んだ。

「なあ、実は俺、あんたが俺と母さんをスラム街に追いやったこと、そんなに恨んでないんだ。あれがきっと最善の方法だった。ああでもしないと、俺はきっとあの正室に殺されてただろうよ」

 有人は目を見開いた。しかしすぐに下へ目線を向けた。

「お前、事情を知っていたのか……。そうかそうか、でもあれは俺の力不足のせいなんだ。もっと俺に力があれば、お前の母上を正室にすることができていたし、政略結婚をする必要なんてなかったんだ」

「だから、自分を責めんなっつってんだろ。スラム街もなかなか悪くなかった。大事なダチにも出会えたし、あんたが寄越した、あのクソだせえ井戸もあったしな」

 周はごてごてした井戸を思い出していた。豪奢な鯉の彫りものがされており、住民からは「なんで龍でもユニコーンでもなく鯉なんだよ」と不評だった。

「そろそろあいつに代わらねえと。杏樹と会えてよかったよ。一応妹だし、心配してたんだ」

「杏樹はお前が実の兄であることをことを知らない。苦しくはなかったか?」

「全然。むしろ知ってた方がスムーズに話ができねえよ。……そうそう、ヘレニウム病の原因が少し分かった気がするんだ。本当かどうかはまだ確かじゃねえが、これに気づいたのも杏樹と話したからだな。でも原因が若干分かったからと言って、治すにはどうすればいいのかは分からねえ。悪いな」

「いいんだ。杏樹が死ぬ前に、お前と会わせることができただけでも十分だ。本当にお前は優しい、できた子だよ」

 有人は周の手を取り、涙を流した。

「泣いたのは久しぶりだ。お前の母上と別れて以来だ。さあ、私の涙を採ってくれ。高く売れるのだろう?」

 周は少しも躊躇うことなく、2つのハンカチで有人の涙を拭いた。じわじわと涙が布地に吸い込まれていく。

「じゃあ、ありがたく。そうだ、冥途の土産に教えてやるよ。和葉はこの国の人間じゃない。ニホンって所から来たんだ。国に帰るには、涙が必要らしい」

「ニホン……聞いたことがあるな。……そうだ、30年くらい前にこの地区に来た旅人がそんな国から来たと言っていた。2人で行動していて、そのうちの1人の男の子がニホン人だった。昔は今ほど他国に厳しくなかったから、皆で彼らのために宴を開いた記憶がある。自分の国の歌を教え合ったりしたよ。そうそう、彼は歌が下手だった。知らない歌なのに、調子っぱずれであることが分かるくらいにね。彼は自分の作った歌だと言って聞かなかったよ。結局、その調子っぱずれの歌は中央地区にまで広まったらしいけどな。戦場でもよく歌われたらしい」

 有人は懐かしむような顔をして笑った。30年も前のことをそんなに覚えているなんて、よっぽど異国の少年との交流が新鮮だったようだと周は微笑ましく思った。父親の少年のような顔を見るのは初めてだ。この顔を自分の記憶に焼き付けるように、周は力強く有人を見つめた。

「じゃあな、父上。ちゃんと杏樹とお別れしろよ。寂しいからって、あいつをあの世に連れていったりしたら駄目だからな。……それと、ありがとう」

 涙が高く売れようが、和葉が帰国するのに必要だろうが、泣いているところは誰にも見られたくなかった。その理由は自分でも分からない。この国では日本ほど「泣くこと」は恥とされていないはずなのに。周は有人に背を向け、手の甲で乱暴に目を擦った。

 扉を開けたら杏樹がいた。ずっと立ちっぱなしだったのか、足が震えている。緊張からかもしれない。唇も震えている。

「父上とお別れしてこい。ちゃんと向き合えよ。最後に自分の思いを伝えるんだ」

 杏樹は濡れた瞳を揺らして頷いた。父親の部屋に入る彼女は、心なしか背筋が伸びているように見える。彼女の歩き方は、幼い周がかつて見た父の歩き方に少しだけ似ていた。

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