上流の民

第17話 工場の町

 朝日が山々の間から顔を出し、街を暖かな光で包む。街と言っても昨日までいたスラム街ではなく、周とアーネストが住んでいる街だ。この街はスラム街と同じく、「中央地区」の中にある。

 道路は整備され、並び立つ建物は決して豪華ではないが、造りがしっかりしている。大学や官庁の多い街らしく、スーツ姿や学生服姿の人々が通りを堂々と歩いているのが見える。スーツはともかく、学生服は学ランと袴の者が混在し、現代の日本とは異なる様相である。

 和葉は最初タイムスリップしたのかとも思ったが、それにしては現代的なものが多い。ユリウスたちの家には冷蔵庫があったし、周とアーネストの家には冷蔵庫はもちろん、オーブントースターまでもあった。しかし完全に現代日本のようかと言われれば、それは違う。

 そんな世界の街の中にある2LDKのアパートに彼らは住んでいた。緑色に塗られた外壁には小さな窓がいくつもついており、そこから色とりどりの花が咲き乱れているのが見える。一見ヨーロッパの家のようだが、部屋の中には和室もあり、何とも言えないミスマッチさを醸し出していた。そのちぐはぐな雰囲気は、周とアーネストという、立場も容姿も性格も全く違う2人を表しているようだ。

 その2人は今まさに、和葉とともに出発しようとしている。荷物を持っていない和葉の分の着替えなどは、昨日ユリウスたちが住む町から帰る途中でアーネストに購入してもらった。

 ごくごく普通の薄いオレンジのブラウスと、ジーンズ生地のズボンである。年齢詐称をして旅をするため、少しでも大人っぽい服の方がいいだろうというアーネストの意見が取り入れられた。流石に大学生には見えなかったが、和葉は大人になったような気がして心なしか背筋が伸びた。

 和葉はこれから「周と同じくアーネストの研究室に所属している学生」として旅をしていくことになる。鏡の前でどの角度が大人っぽいか顔を動かしていたら、周がじっとりとした目で見ていた。

「おい、もうそろそろ出発するぞ。まず『ヘレンの書』がある可能性があるのは南部地区だ。そこにたくさん本が送られたという記録があるからな。そこに向かう」

「そうだなあ。ちょっと遠いから電車にするか。俺もうおじさんだし、歩く気力がないからなあ」

「しっかりしてくれよ先生……。まだ34歳だろうが。和葉は? もう準備できたよな。鏡ばっか見ててもお前の顔は変わんねえよ。童顔な大学生として上手く誤魔化すしかねえな」

「本当にいけますか? 私まだ15歳なんですけど……」

「だいじょーぶだいじょーぶ! 1人だったら大学生には見えないかもしれないけど、周と同い年には見えるからさ!」

「ああ? どういう意味だよそれ! ほら、さっさと行くぞ」


 酒も持っていきたかったと後ろでグズグズ言っていたアーネストを無理やり外に出し、一行は出発した。天気は晴れ。心なしか街の人々の足取りも軽やかだ。

 規模が大きくシックなデザインの駅で切符を購入し、新幹線ほど大きくはない電車に乗車した。中は満員で、3人とも押しつぶされそうになりながら必死に立っていた。車内は冷房が備わっておらず、外よりも温度が高い状態だ。そのうえ速さは路面電車より少し早いくらいで、和葉はひどくもどかしい気持ちになった。


 1時間が経過し、ようやく電車から降りた。最初に比べて人は減っていたが、それでもかなり多かった。電車から降りて辺りを見渡すと、いくつもの工場が広がっている。夏の日差しが地面に反射し、和葉の無防備な足元を焼く。

「着いたぞ。そうそう、この国は『中央地区』『南部地区』『西部地区』『北部地区』『東部地区』で分かれているが、ここが南部地方だ。工業地帯だが、人口はさっきまでいた中央地区の次に多い。きっと有力な情報が得られるに違いねえ」

「こんなにたくさんの人がこの地区に住んでるんですね。だからあんなに電車混んでたんだ」

「皆中央地区に出稼ぎに出てるんだよ。にしても多すぎやしないか? ここは工業地帯なんだから、本来はそんなに出稼ぎをしないはずなんだが……。何かがおかしい」

 アーネストはそう言って辺りをキョロキョロと観察した。彼と周は以前この場所に来たことがあるらしく、二人ともこの状況に違和感を持っているようだ。ピンと来ていないのは和葉くらいだ。


 違和感は一旦置いておいて、彼らは駅から少し歩いたところにある食堂に入った。和葉は川魚の塩焼きを注文しようとしたが、周に静かに止められた。

「南部地方の川はあんまり綺麗じゃないから、ここの川魚は食べないほうがいい。肉でも頼んでろ」

 和葉はそっと頷き、唐揚げを注文した。

「ここの川、そんなに汚いんですか?」

「ああ、最近工場からの排水をそのまま垂れ流しにしているって噂だ。ここで一時期妙な病気が流行って死亡者が出たのも、きっと排水の中の魚を食べたせいだろうと言われている。この地区の政府や工場側の人間はその説を否定しているけど、もう噂はかなり広まっているからこの地区の住民で魚を食べる人はいないんじゃないか? おそらく、この魚のメニューは噂を知らない、他方から来た人向けだろうな」

 和葉は絶句し、顔が青ざめた。日本にいた頃は、衛生面や栄養バランスに気を遣う母親の作った、安全な食事ばかりを摂取していたので、健康を害する食事というものにあまり縁がなかった。そんなことは学校の授業で習う、ある意味現実離れした出来事であった。

 しかし食事を終えて川の傍を歩くと、嫌でもその現実を目の当たりにする。川の傍を歩かずとも、強烈な匂いで、川の汚染を知ることができた。生き物の体からだけでは到底出せないような匂いだ。同じ独特な匂いである、スラム街の匂いとも違う。あの場所は人々が生きている匂いがしたが、この川は死んでいると言わざるを得ない匂いだ。この川で魚が生きていけるのが不思議なくらいである。

 川に汚水を流しているのは誰なのか、という疑問が浮かんだ3人は、川の上流まで歩くことにした。するとそこにあったのは、いたって普通の質素な工場である。悪の居城を想像していた和葉は、拍子抜けしてしまった。

「確かこの工場、昔はもっと小さかったよな。細々と衣服類作っているような……。戦争中、そんなに服が売れたのか?」

 周は首を傾げ、アーネストに尋ねた。しかし尋ねられた彼もいまいちよく分からないようで、困惑していた。

 

 しばらく工場の前で立ち尽くしていると、一人の男が声をかけてきた。

「どうかしたのかな、皆さん。うちの会社に何か用でも?」

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