第15話 前進

 気が付けば、もうすっかり夕方になってしまっていた。オレンジ色の夕日が、ゆらゆらとスラム街を照らしている。騒ぎはすっかり治まり、夕方特有の賑やかさだけがそこにはあった。

 筒音はずっと三雲の傍を離れなかったが、疲れてしまったのか寝てしまい、ユリウスに抱きかかえられている。

 前を歩くユリウスと三雲を見て、和葉は思わず「夫婦みたい」と呟き、二人を赤面させた。三雲は思っていたよりも感情が表に出やすく、和葉はそんな彼女を可愛いと思った。火傷の痕は大きいが、夕日に照らされる三雲の顔は美しかった。

 家に帰る途中、「そういえば」と突然三雲は後ろを振り返った。まだ人に顔を見せるのに抵抗があるのか、少し手で顔を隠している。

「ごめんね。和葉ちゃん。あんたにも迷惑かけちゃって。今までも、今日のことも。本当に私って駄目だな……」

「いや、そんな! 三雲さんが元気になってよかったです! もうヘレニウム病みたいなのは治ったんじゃないですか? 家から出てるし、表情もこんなに豊かだし!」

 三雲とユリウス、周は互いに目を合わせた。

「あ、周……この病気が治ることってあるのか? 治療薬もまだ開発されてないだろ? もしかして、三雲は元からヘレニウム病じゃなかったのか?」

「いや、でも確かにあの症状はヘレニウム病だった。それに、この病気は別に絶対治らないってわけじゃねえ。時々治ることもあるんだ。何が原因かは分からないが、徐々に治ることもある。三雲も、これから完璧に治っていくかもしれねえぞ。まだ油断はできねえけどな」

 周がそう言うと、ユリウスは瞳を輝かせた。顔いっぱいに笑顔が広がる。いつも穏やかで大人っぽい表情が多い彼には珍しい、無邪気な笑顔だった。

「やったな三雲! これからもきっと、いや絶対大丈夫だ!」

 彼の大声で、眠っていた筒音が起きてしまった。目が半分しか開いておらず、口も半分くらい開けている。

「絶対大丈夫?」 

 まだ意識の半分は夢の中にいるような状態で問いかけた。

「ああ、そうだ。絶対大丈夫だ」

 それを聞くと、筒音は安心したようにまた眠りに入った。


 ユリウスたちの家に帰ると、ドアの前に背の高い男が座っていた。和葉が「まさか、さっきの不良たちの仲間か?」と思い用心しながら近づくと、数日前に見た髭面だった。

「せ、先生! 警察に通報したの先生だろ! なんで俺に言ってくれなかったんだよ! 俺が証拠を集めた意味ねえじゃねえか……」

 周は憤怒の形相で男に近づいた。どうやら警察に証拠を突き出したのは彼のようだ。周は数週間前の夕食時に、「スラム街で出所した不良がはびこっているらしく、金を集めているユリウスが危ない目に遭わないか心配だ」ということを彼に話した。

 周にとっては軽い世間話のつもりだったが、先生と呼ばれる男は嫌な予感がして、不良グループについて調査をしていたのだ。

「お前さんは何もする必要はないって、最初に言っただろ? それなのに無理したりするから……。でもみんな無事そうでよかった! これで安心して旅に出られるよ」

「アーネスト先生、お久しぶりです。お宅の周君には随分迷惑をかけてしまって……」

 髭面の男はアーネストということを和葉は知った。そういえば、初めて会ったとき女から「アーニー」と呼ばれていた。あれは愛称だったのか、と初めて和葉は気づいた。彼らの様子を見ると、ユリウスたちとも知り合いのようだ。

「『お宅の周君』ってなんだよ。子どもじゃあるめえし。だいたい、そんな迷惑かけられた覚えもねえよ。強いて言うなら、もう三雲や筒音を不安にさせんなよ」

 周が不満そうに言った。周りからは笑みがこぼれる。和葉はそっと横を見て、三雲がちゃんとそこにいることを確認した。


 しばらく談笑した後、夕飯を全員で食べることになった。屋台で売ってたおにぎりとミネストローネだ。あまり豪華とは言えない食事だが、ここ数日で食べた中で一番豪勢な食事だった。

「すみません、アーネスト先生。こんなに豪華な食事をご馳走になっちゃって……」

「まあそう気にしなさんな。出世払いしてもらう予定だからさ。倍にして返してくれよ。んじゃあ、皆の無事を祝って乾杯!」

 アーネストの掛け声で、一斉にグラスを合わせた。屋台の傍にあるイートインスペースは人通りの少ない場所にあり、ポツリポツリとしか人はいない。まだ他人と顔を合わせたり人ごみの中に入ることができない三雲への配慮だ。和葉はユリウスたちの家も人口密度の高い街の中でも、人通りの少ない場所に建っていたのを思い出した。

 この街に来たばかりの頃、和葉はマイナスのイメージしか持っていなかった。暗い表情の者、何もないところに向かって喚く者……しかし、今改めて見てみると、思いのほか活気があることに気づいた。街で一番の不良グループが逮捕されたから、というのも理由にあるかもしれない。そもそもそんなに悲しい街ではなかったのかもしれない。

 それでもまだ、この街には悲し気に俯く子どもがたくさんいる。そんな子どもたちと目を合わせないようにしながら、和葉は塩がきいたおにぎりをかじった。何もできないのに目を合わせては、余計な期待をさせてしまうと思ったのだ。

 周とユリウスはアーネストとの会話に没頭している。話題は「ヘレンの書」の続きを探しに行くことだ。筒音はよく内容が理解できていないようで、退屈そうに足を揺らしている。そんな様子を見た三雲は静かに微笑んだ。

「あんたにはまだ難しいよね。和葉ちゃんもあんまりあの病気には詳しくない?」

「えーっと、まあ……症状がなんか漠然としていて、よく分かんないです。でも、三雲さんが元気になってよかったです!」

「へへ、ありがとう。確かに人によって症状が違うって言うもんね……私もよく分かんないや。私の場合、顔がこんな風になっちゃった上にヘレニウム病になったんだよね。まあ、本当にあの病気に自分が罹ってたのかなんて確かじゃないけど。戦地の兵隊さんたちのために歌を歌いに行って、そこで敵の空襲に遭ってこのざまだよ。私って元々よく美人って言われてて、調子に乗ってたから罰が当たったのかも。顔が綺麗じゃない私になんて、価値あんのかなって思っちゃってさ、よく分かんないけど毎日死にたくなった。でも筒音とユリウスがいたから、何とか生きてきたんだ。働きもせず、食って寝るだけの私をよく見捨てなかったよね。あんたも、私なんかと話してくれてありがとう」

 三雲は目と頬を赤く染めて笑った。

「お姉ちゃん、『私なんか』って言わないでよ! 昔みたいに、自信満々のお姉ちゃんの方がいいよ!」

「そうですよ三雲さん。顔以外にもいいところあるじゃないですか。会ったばかりの私ですら三雲さんのいいところ見つけたんだから、長い付き合いの筒音ちゃんたちはもっと知ってますよ! 例えばほら、この間の歌声、すごく素敵だった……。身一つで人を感動させることができるって、すごいことですよ!」

 和葉は興奮気味に、息継ぎもせず言った。筒音も激しく頷いている。すると、いつの間にか男同士での会話を終え、周たちが会話に入ってきた。

「え? 和葉お前、三雲の歌聞いたのかよ! ずるいじゃねえか!」

「ずっと一緒にいる俺でさえも最近聞いてないのになあ……。俺も聞きたかった……」

 周は悔しそうに憤り、ユリウスは悲しそうに肩を落としている。彼女の歌に惹かれる人は、和葉だけではないようだ。

「俺は聞いたことないんだよなあ。どうだい、三雲ちゃん。ここで一発歌ってみるってのは」

 安い酒を飲みほしたアーネストは、上気した顔で三雲に頼んだ。三雲は和葉やユリウスたちの方へと目を彷徨わせ、迷う素振りをした。そして、周が「無理はしなくていい」と言い切る前に、息を大きく吸い込んだ。

 

 三雲の歌声は、夜の暗闇を明るく照らした。電灯もあまりなく、互いの顔がはっきりとは見えない状況の中で、彼女の顔は美しく輝いていた。周は以前「太陽のように」と言っていたが、和葉は月の光のようだと思った。

 その場にいる皆が歌声に聴き入っている。そしてあっという間に、辺りに見知らぬ人々が集まっていた。多くの人々が集まっているわりにとても静かである。

 歌い終わった瞬間、一斉に拍手が起こった。歓声もいたるところから聞こえる。さっきまで悲し気に俯いていた子どもたちも、目を輝かせている。三雲は顔を隠すことなく、驚いた表情のまま笑った。少し前まで閉じこもっていた人間の顔とは思えない。

 空の月にかかっていた雲は風に流され、美しい満月が姿を見せている。その満月の光は、混沌としたこの街を温かく照らした。

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