第10話 カーテンの向こう(2)

 この家に来てからすでに3日が過ぎようとしていた。捻った右足は随分良くなり、完治したと言っていいだろう。だが相変わらず三雲は和葉の話に応じず、さすがにだんだん話す内容がなくなってきた。

 この日もしばらく一方的に話した後、手持ち無沙汰になった和葉は鼻歌を歌った。彼女の調子はずれの鼻歌は、昔から友達に散々からかわれてきた。しかしこの国には日本の歌を知っている人なんているはずがないので、心おきなく歌った。和葉は繊細なくせに、変なところで図太いとよく言われる。

「へったくそ! なんじゃそりゃ」

 靴磨きから帰ってきた三雲の妹が、馬鹿にしたような笑みを浮かべて言った。どうやら歌が分からなくても音痴は分かるみたいだ、と和葉は赤面しながら気づいた。

「だいたい何の歌なのそれ。聞いたことないし」

「オ、オリジナルソングだよ。私が作ったの。だからへたくそも何もないんだよ」

「その音程で合ってんの? じゃああんたは歌を歌うのが下手なんじゃなくて、歌を作るのが下手なんだね」

 オリジナルソングだというのは、もちろん嘘である。最近流行りのドラマの主題歌だ。しかしそんなことを言えるはずもなく、ああだこうだと少女と言い争っている。我ながら大人げないと、和葉は思った。まだ大人ではないけれど。

 他にもっと上手く歌える歌はないかと、記憶をたどった。和葉は昔、母親がよく風呂で歌っていた曲を思い出した。幼い和葉を抱きかかえて、夫である和葉の父親にもらったネックレスをうっとりと眺めながら、気持ちよさそうに歌っていた。その歌はよくテレビで「懐かしソング特集」と題して、よく流れていた。和葉はその曲が大好きだった。父もこの歌が好きで、よく調子っぱずれに歌っていた。

 母の温かい膝。曇った鏡に書いた絵。浴槽に浮いたおもちゃのような温度計。母と一緒のお風呂はとっくの昔に卒業してしまったけれど、今でもその暖かな記憶は和葉の心の中に残っている。

 悲しみに暮れそうな気持ちを振り切るように、和葉は歌った。歌いながら自分でも下手だな、と分かったが、どうせこの曲を知っていることはない。またオリジナルソングと言ってしまおうと思っていた。

「私、その歌知ってる」

 カーテンの向こうから、声が聞こえた。三雲の声だった。話してくれたことの喜びで、なぜこの歌を知っているのかという疑問は吹き飛んでしまった。

「し、知ってるんですか! 歌えますか?」

 そう言うと、三雲は歌いだした。本当に小さな声で、カーテンに耳をつけなければいけないほどだった。

 神聖な雰囲気が部屋中に漂った。和葉は神様のお告げを聞いている気分になった。

 彼女の歌う歌はメロディーや音程が少し違う。それでも全く馬鹿にできないのは、あまりに美しい声と、彼女の歌に込める力のせいだろう。アレンジした別の歌として存在していた。

「お姉ちゃん、すごい! やっぱりあたし、お姉ちゃんの歌大好き!」

 筒音が興奮しながら言った。顔は紅潮し、目は潤んでいる。カーテンを掴み、今にも三雲のところに行きそうな勢いだった。

 一方、三雲の方はどんな表情をしているのか分からない。カーテンを開けて手を引っ張るのは簡単だ。しかしそうすると精神的な壁がさらに厚くなってしまう。このことは和葉も筒音も分かっているのだろう。無遠慮に三雲の方に行くことはなかった。

 その一件以来、三雲は少しだけ返事を返すようになった。それらは簡単な返事で、「ああ」や「うん」といったものばかりだった。それでも一歩前進したと、和葉は喜んだ。

 そしていつの間にか筒音ともよく話すようになった。いまだにお互い信頼しきっているとは言えないが、三雲との会話を通して、不思議な団結のようなものが生まれていた。


 まず、食事を一緒にとるようになった。この辺りはパンの屋台が多く、食事はパンが多かった。ユリウスに最初に出会ったとき、彼に貰ったのもパンだった。あの時はあまりのおいしさに感動したのを、和葉は今でもよく覚えている。

 しかしこの辺りのパンは、日本にいたときに食べていたパンよりもとにかく水分量が足りない。過剰に焼きすぎていることもあれば、中があまり焼けておらず水っぽくなっていることもあった。

 この場所の生活に慣れてしまった和葉は今、あまりおいしさを感じられなくなってしまった。

 少量ずつ顔をしかめてモシャモシャと食べていると、筒音から「嫌なら食べなくていい」とパンを取り上げられてしまったことがある。その一件以来、和葉は食べた感想を顔に出さないように努めた。そうすると心なしかあまり不味いと思わなくなり、むしろ癖になりつつある。

 そうした和葉の姿を見て、筒音が彼女に話しかける頻度は高くなった。1人っ子の和葉は妹ができたみたいで、なんだかくすぐったいような気持になった。

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