第8話 幼馴染(2)

 賑やかな人の声と、金属の音で和葉は目が覚めた。今までのことは夢ではないのか、と少し落胆してのろのろと立ち上がった。捻った右足はまだ痛むが、昨日ほどじゃない。捻挫の中でも軽い方だったのだろう。

 キョロキョロと辺りを見回していると、一階から階段を上る周を見つけた。

「おはようございます。どっか行ってたんですか?」

「おはよう。朝飯買ってきた。屋外でぐっすり眠れるなんて、案外図太い神経してるじゃねえか」

 そう言うと、小さいフランスパンを和葉に手渡し、ユリウスの家の質素なドアをノックした。すると中から小さい女の子の声が聞こえる。和葉は嫌な予感がした。

「はあい。あ、周ちゃんだ! どうしたの?  この辺で仕事?なわけないよね」

「落ち着け落ち着け。ちょっと用事があってな。ほら、朝飯買ってきたから三雲とユリウスと分けて食え。ユリウスは? まだ寝てんのか」

「やったあ! ありがとう! ユリウスはもう仕事行ったよ。最近新しい仕事始めたんだって」

「新しい仕事? あいつ、レストランで働いてなかったか? 給料いいって言ってただろ」

「スラム街出身だってばれちゃって、店長に辞めろって言われたんだって。でももう新しい仕事見つけたから大丈夫だって言ってたよ。あたしも靴磨きの仕事やってるし。最近は稼げてないけど……昨日なんか、ひどい女に騙されたんだよ。あんな奴がいるから、あたしたちの暮らしはいつまで経っても楽にならな……ああっ!」

 少女はまくしたてるように周に話しかけていたが、外にいる和葉に気づいて指をさし、叫んだ。

「あの女だ! あいつは泥棒だよ。昨日サンダル磨いてやったのに、金も払わず逃げやがった」

 激しい憎悪の眼差しを向けて和葉の方に行こうとする少女ーーー筒音を、周が手で制した。和葉は彼女のあまりの剣幕に恐れ慄いてしまい、足どころか手の指先までも動かすことができなかった。

「あいつにはあとで言っとくから。お前はさっさと朝飯食え。三雲が腹減らして待ってんだろ」

 筒音は周の言葉にうっと詰まり、何か言いたげな顔を見せてしぶしぶ家の中に入って行った。周に何と言われるだろうか。怒られるだろうか。突き放すだろうか。様々な可能性を考えていたら、予想と反して彼は冷静な口調で和葉を諭した。

「お前、断らなかったのかよ。生半可な同情はかえって迷惑になるんだ。覚えとけよ」

 彼女は消え入りそうな声で返事をし、頷いた。言い返す言葉もない。泣きそうにはなったものの、とりあえず突き放されなかったことに安堵した。周はすぐに朝食を食べるよう促した。

 彼が朝食用に買ってきたフランスパンは、昨日のコッぺパンよりも新鮮だったが、とにかく硬かった。和葉が食べるのに苦戦していると、周が「大学生のお嬢様の口には合わなかったか」と右口角を上げて鼻で笑った。周は和葉が年齢詐称していることを知っていて、わざと煽るように言った。悔しかったので、何が何でも食べきってやると彼女は意気込んだ。

 和葉が完食した頃、ユリウスが家に帰ってきた。そして早速三雲と話してほしいと頼み、彼女は少しだけ痛む足を引きずって中に入った。中は案外整理整頓されていたが、所々に穴や切り傷がある。

 家の中には二つ部屋があった。一つ目の部屋には古びた茶色の机と、畳むのを途中で放棄された衣服類が散らばっている。

「ねえねえ! ユリウス! この女、泥棒だよ? 金目の物とられちゃうよー」

「だーかーら、この子は泥棒じゃないんだって。大体、この家に金目の物なんてないだろ」

 筒音は和葉が家の中に入ってくることに不満げで、いつまでも文句を言っていた。

 もう一つの部屋は奥にあった。部屋と言ってもドアはなく、カーテンが壁の役割を果たしていた。カーテンは青空のような色だったが、そこに雨雲がかかっているように見える、いくつかの灰色の染みがあった。

 カーテンの向こうからは日光が差し込んでおり、黒い人影が見える。

「三雲! 今日遠くから客人が来てるんだ。話してみないか? 壁越しでいいからさ。お前のきれいな声を聴かせてやりたいんだ」

 ユリウスは優し気な声でカーテンに向かって話しかけた。しかし返事は帰ってこない。

「なあ、このお客さんは昔のお前のことを知らない。大丈夫だ」

 ユリウスはそう言って、和葉に目配せした。

「あの、初めまして。私、和葉って言います。その、具合はいかがですか?」

 そう言っても、なかなか返事がない。その後何を話そうかと迷っていたら、カーテンの向こうから透き通るような声が聞こえた。

「帰って。話すことは何もない」

 その声が三雲のものだと理解するのには時間がかかった。ユリウスの言っていた通り、美しい声。突き放すように言われたが、和葉はあまりショックを受けなかった。それは彼女の高すぎないがよく通る、鈴のような声に聞き惚れていたからだろう。


 結局この日は彼女とそれ以上話すことはなかった。何もできなかった悔しさに、一同の間の空気はどんよりと濁っている。

「すみません。何もできなくて。明日も三雲さんと話してもいいですか?」

 周もユリウスも、驚いた表情をした。甘ったれたただの小娘のことだから、もうすっかり心が折れてしまっていると思っていたのだ。

「え? 結構あんた拒絶されてたよ? 大丈夫なの?」

「おい、罪悪感のせいでそんなこと言ってるなら、やめたほうがいい。幼馴染の俺でさえも、ずっと顔を見て話してないんだ。会話も続いてない。一方的に話し続けることのしんどさは、俺たちもすっかり分かってるつもりだ」

「それに、こんなこと言いたくないけど、この病気はうつる可能性だってあるんだ。証拠はないけど大半の人がそう思ってる。三雲がこの病気になったのも、戦地に行って帰ってきてからだ。きっと戦場でもらってきたんだろうな。だから、本当に無理しなくていい。昨日のこと申し訳なく思ってるんなら、もうこれから気を付けるって約束するだけでいい。俺、そんな心狭くないよ」

 周とユリウスは呆れ半分、驚き半分でまくしたてた。

「そんなんじゃありません。罪悪感ももちろんあるけど、そのせいでこんなこと言ってるわけじゃありません。ただ、私は、彼女の綺麗な声をもう一度聞きたいんです。あんな綺麗な声なのに、一人でいるのはもったいないと思いました。それに、あのヘレニウム病っていうのも、治る可能性がないわけではないんでしょう? 病は気からっていうし、話していたら苦しみも和らぐかも」

 男2人は互いに目を合わせて、あんぐりと口を開けた。周はそんな気構えでいいのかと納得いかない様子だったが、ユリウスは一理あるかもしれないと言って笑った。


 結局、周と和葉はしばらくこの家に滞在することになった。寝るところは相変わらず家の外だったが、人通りが少ない場所だったのであまり気にならなくなっていた。

「本当にこんな所に寝泊まりさせて悪いね。夕飯は奮発するからさ」

「いや、いい。飯は俺が買ってくる。お前は手術代貯めてんだろ。そっちに集中しろ。でも無理すんなよ」

 周がそう言うと、ユリウスは申し訳ないような顔をして「ありがとう」と一言だけ言った。2人の会話は、そのまま手術についての話題になった。あとどのくらいの金がかかるか、病院に入院するにはどうすればいいか、完璧に治る可能性はあるのか。和葉は聞いているうちに、1つの疑問が頭の中に浮かんだ。

「あの、ヘレニウム病って、手術すれば治るんですか? 涙が特効薬になるかもしれないっていうのは聞いたことがあるんですけど」

 和葉がそう言った瞬間、場の空気が凍った。これは聞いてはいけない質問だったのではないかと、彼女はすぐに察知した。

 しどろもどろになる和葉を見てユリウスは苦笑した。何かをごまかしていると思った。

「あんたは知らなくていいよ。知らないほうが、三雲と話しやすいと思うんだ」

 ユリウスの言葉はあまり腑に落ちなかったが、これ以上聞いてはいけない気がしたので、和葉はそっと口を噤んだ。


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