ケルビン

真花

ケルビン

 世界最高齢の何が嬉しいのかテレビが取材に来た。

 普通の一日を撮りたいと言うからその通りに朝食を食べ、アトリエに行って絵を描く。昼食を摂ったらしばらく読書をしてまた絵を描く。その段になって焦れたように、質問してもいいですか、と訊くから、キリがいいところまでやったら、と待たせた。

「どうしてこのお年になっても絵を描くのですか?」

 悪意はないのだろうけど、レポーターの固定概念が老人はボーッと一日を潰すもの、そう透けて見える。

「絵描きだから」

 もうこの生活を百年続けている。もちろん外で描くこともある。

 なるほど、の薄っぺらいこと。お前は自分の選んだ道を死ぬまで続ける意志はないのか。

「世界最高齢の百二十歳と言うのは、どんなお気持ちですか?」

「たまたま生きてる、それだけかな。まぁ、その分やりたいことが出来るのは嬉しい」

 ほぅ、と言う顔はさっきよりは素直に見える。

「長生きの秘訣ってありますか?」

「どうだろう。私が三十代の頃に人生百年とか言われてたけど、結局男は八十代、女は九十代でバタバタ死んで、ああ百年生きるってのは為政者が、そうなったら社会保障がやばいぞってリスク管理で言ってたんだって思った。でもそれ以上に認知症になって、その人の人格が死んでしまった姿をたくさん見て来たよ。じゃあ、彼女らと私で違いがあるかと言ったら、思い付くのはずっと絵を描いているってことぐらい」

「つまり、好きなことをずっと続けていると言うことですか?」

 それだけなのかな。あー、そうだ。

「好きなことってだけじゃなくて、それが仕事レベルのものじゃなきゃいけないってことかも知れない」

 レポーターの目がキラリと光る。

「つまり、仕事からのリタイヤが人生からのリタイヤを生む、と」

 思わず吹き出してしまった。その相関が本当なら私は描くのをやめたら死ぬってことになる。

「面白いこと言うね」

「ありがとうございます。次にお聞きしたいのが、三世紀を股にかけて生きているからこその面白いエピソードってありますか?」

 何だそりゃ。長く生きてればそれだけ色々はあるけど、何だろう、あ、そうだ。

「世紀末を二回通過してること。一回目は思春期後半だったから私自身もかなり不安になって右往左往したけど結局何も起きずに次の二十一世紀は来た。それを知ってる状態で二十一世紀末のわさわさ感を見るのはちょっと面白かったよ」

 おー、なるほど。

 徐々に私が浸透し始めたようだ。

「若い頃はどんなことをされていたのですか?」

「……コギャル」

 レボーターはポカンとした顔になる。そうか、知らないか。百年前ってやっぱり昔なんだ。

「え、とすいません、コギャルって何ですか?」

「イケイケの特定のファッションをする女子高生、かな」

「女子高生だった頃があったんですね」

「あるに決まってるでしょ! 赤ちゃんだった頃だってあるし!」

 突然声を荒げたせいか、レポーターは頭を亀のように引っ込める。何歳の人間だって最初は赤ちゃんだし、大人なら学生時代は大抵ある。人を何だと思ってるんだ。

「すいません。そりゃそうですよね」

 気を取り直します、と言うかのようにレボーターが姿勢を正す。

「最後の質問です。恋ってされますか?」

 質問の意図が分からない。でも偶然なのか下調べをしてあるのか、私は恋からずっと離れている。それとも老人は恋をしないと言うことの確認作業なのか。いずれにせよ、私は恋をしていない。ずっとしていない。

「恋なんてここ百年してねーよ」

 苛立ちがもろに声に乗った。

 にも関わらず、レポーターだけでなく他のスタッフも一斉にガッツポーズをしたかに思えた。

 取材はそこで終わり、私はまたいつものように夕食を食べ、テレビを見て、日記を書いて、風呂に入り、寝た。


 テレビ番組の放映の日はちょっと楽しみだった。

 朝からソワソワとして、何となく今描いている絵のトーンと違うなと思っていつもと別の絵を描く。夕食後に待ってましたとテレビを点ける。

「世界最高齢、水口桃花さん、百二十歳のインタビューと生活の様です」

 番組は高齢者を労わる視線を保ちながらも桃花の喋りを印象的に切り取って進んでいく。

 まあ、悪くはない。こんなもんだろう。

 番組のラストに、桃花が確かに自分で吐いた「恋なんてここ百年してねーよ」がどどーん、とフューチャーされた。

 ふぅん、まあ決め台詞としては悪くはないかも。自分が主役の番組というのはこそばゆいけど悪くないな。

 しかしその後、牧歌的な視聴感を裏切るようにその一言が一人歩きをし始める。芸人が真似をするようになり、お茶の間に毎日そのセリフが流れるようになり、何と流行語大賞まで取ってしまった。有名になり過ぎたその一言に釣られて、ポツリポツリと桃花のところに、会ってみたい、と言う人が訪ねて来るようになった。桃花は自分の生活が乱されるのが嫌だと、長寿見物目当ての客は全員門前払いした。その甲斐あってか、流行語大賞の受賞をピークにその後は徐々に来客は減ってゆき、また元の日常に戻った。

 もう興味本位の呼び鈴は鳴らないと思えた頃、またチャイムが鳴る。

 これが最後の一回と思おう、桃花は追い払おうとインターホーンに出る。

「はい?」

「あの、僕、篠原康平と言います」

「老婆を見たいのだったら帰って」

「違います。僕、先生の絵に感銘を受けたんです。それで、ここに来ればもっと先生の絵を見られるかなって、創作についても先生に伺いたいし、それで、アポもなしに来てしまったんです」

 私の歳じゃなくて絵、か。最後の個展をしたのが十年くらい前だから、確かに未発表の新作はたくさんある。

 絵描きの性の一つに、描いたものを誰かに見て欲しいと言うものがある。桃花にもそれは当然あるが、その性は描くこと自体への没頭の間は忘れ去られる、何年であっても。桃花のアトリエには描きっ放しで誰にもまだ会っていない作品、もし作品が鑑賞者に出会うことで初めて作品になるのだとしたら、最後の目が入っていない作品達がうじゃうじゃある。そいつらが呼んでもいる。

「その要件なら、どうぞ」

「ありがとうございます」

 篠原康平と対面して最初に思ったのは姿勢がいいこと。物腰が柔らかいこと。丁寧に応対が出来ること。背は私より頭一つくらい高くて、肩幅は普通で肉付きも普通。男性らしさと女性らしさの中間地点より五歩くらい男寄り。つまり礼節ある凡庸の印象。

「ここが私のアトリエ」

 康平は目をキラキラさせながらアトリエの中を歩き回る。

 いい顔するじゃん。ふーん、本当に私の絵が好きなんだ。視線の動きと止まる場所からして、康平君も絵を描いてるっぽい。じゃあもうちょっとサービスしてみるか。

 倉庫の絵を出すのをやらせて、小さな展覧会を始める。

 あー、とか、わー、とか言いながら絵を見る康平。ここは自由にさせて私は絵でも描くか、いや、訊くべきことがある。

「康平君はどうして私の絵を知ったの?」

「『恋なんてここ百年してねーよ』で絵描きさんだって言ってたじゃないですか。そのときに映り込んでた絵を見て、ドカンと来ちゃて、先生の絵が展示してある美術館、しらみつぶしに行ったんですよ。それで、やっぱりいいなー、って思って、今日に至ります」

「ふーん」

 口ではそう言ったが、嬉しい。自分の絵に対してそこまでしてくれると言う事実が嬉しい。描いたものに価値と意味が与えられたような気がした。いや、そんな経験は何回だってしている、なのに何だか深いところがジンとしている。家にまで来てくれたからなのだろうか。

「先生はどうして絵描きになったんですか?」

 どうしようかな、ずっとはぐらかして百年やって来た質問。随分前に時効を迎えている筈のエピソード。でも彼には話してもいいかも。

「私ね、恋をしたんだ。十六のとき。その頃シブヤでたむろするくらいしかしてなかった私に起きた出会いは今思っても夢のようで、その人は美大の学生さんだったのね、仲間のお兄さんで、その縁が最初だったんだけど直ぐに二人で会うようになって、ちょっとずつ絵とか習うようになって、描くのがどんどん楽しくなって、一緒に居られるのもどんどん幸せで、私も美大に行くって決めた。たくさん努力したら受かって、よかったねとか言ってたのに、入学して暫くして彼、死んじゃった。取り残された私には絵しか残ってなくて、その頃にはもう絵を描いて生きていくことは決めていたし、どのみち同じだったのだと思うけどやっぱり、ずっと続けた理由の一つに彼のことを挙げない訳にはいかない」

「それで今まで」

「そう」

「やめようと思ったことは?」

「ない」

 康平は黙る。考えているようだ。太陽が少し傾いてきている。

「僕も絵描きになれるでしょうか」

「さあ。絵描きだと名乗ったらもう絵描きだけど、それで人生組み立てられるかは別だから」

「僕は」

 泣きそうな声、それを打ち据えるように桃花が声を重ねる。

「君がしなきゃいけないことは、なれるなれないじゃなくて、なるかならないか、の宣言。それを私にしに来たんでしょ?」

「先生」

「ん?」

「ハグします」

 康平はタタタと駆け寄って来て、桃花をぎゅっとした。

 そういうのは断定形じゃなくて疑問形から始まるんじゃないのか。

 しょうがないな、桃花は康平をぐっと抱き寄せる。若い男の匂い。

 抱かれた胸から顔を上げて私の目を見る。涙目。

 かわいい。

 桃花に好感以上の柔らかで色付くものが、硬い蕾がいつか綻ぶように、密かに咲いた。

 康平が腕を外して立ち上がる。

 もう少しあのままでよかったのに。

「先生、僕は絵描きになります」

 桃花はゆっくりと、深く頷く。康平の証人になることが彼との最初だと言うことに運命的なものを感じる。

「聞いたよ。私が聞いた」

 笑いかけたら、康平も笑った。

 入って来たときにはどうってことなかった笑顔が胸をキュンとさせる。

「長居してもお邪魔だろうから、僕、帰ります」

 さっさと用意を始める康平、胸の内に生れた気持ちが、必死でいい、引き止めたがっている。でも上手い言い訳が手元にない。彼は通りすがりに人生のイニシエーションをして次の道へ進む者。それは分かってる。分かってるけど、もっと一緒に居たい。もっと会いたい。出来るなら触れたい。

「康平君、あのさ、モデルやってみない?」

「先生の絵のですか? 喜んで!」

「今日はまだアイデアが出来てないから、明日から、来れそう?」

「今大学は夏季休業なので大丈夫です」

 大学?

「康平君、今何歳?」

「二十歳になりました」

 百歳下か。ピカソは六十歳下の奥さんが居たけど、それより大幅に記録更新。

「じゃあ明日から、朝九時でどう?」

「分かりました。服装はどうしましょうか。」

「ヌードいける?」

 康平は石のようになり、そこから思索の色を出す。

「いけます」

「じゃあ服は何でもいい」

 康平が帰った後、桃花は今の康平、明日の康平、未来の康平と自分、と康平のことばかりを考える。上の空と上の空の間に彼への想いのために新しく絵を描き始める。

 次の朝、康平は予定通りにやって来た。満面の笑みで迎える。

 予告通りヌードになってもらう。別に裸が見たい訳ではない。前の晩に考えた結果、それが一番描きたいと思った。

「胸の中の絵描きへの温度は上がった?」

 準備をしながら声を掛ける。

「昨日の一件で、ぐっと熱くなりました。これまでが五百ケルビンくらいだったら、今は二千ケルビンくらいです」

「ケルビン?」

 聞き慣れない単位だ。でも遥か昔に高校で習ったような気もする。

「温度の単位ですよ。絶対零度を〇度として、温度が高くなるにつれて値が大きくなるんです。マイナスがないのが好きで、使ってます」

「そっか。じゃあ私の絵描きケルビンは、百万くらいかな」

 あはは、と康平が笑う。

「僕もそれくらいまでにならないと、先生のレベルに追いつけないのかも知れないですね」

 私の中の康平への温度はまだ二千ケルビンくらいだ。絵描きとして始まった康平と同じ温度。この熱は絵を描くことを超えるのだろうか。もしそうだとしも、絵は描き続けるが。

 絵を描いている間は喋らない。

 終わって、服を着る康平。情事の後のよう。

「絵を見てってもいいですか?」

「もちろん」

 期待した程には会話はない。でも、そこに康平が居ると言うことだけで、胸がときめく。一日、絵のモデルになってもらっただけで、八千ケルビンくらいになってしまった。今日も泣いて、ハグをしに来てはくれないか。私からしてもいいけど、恐ろしがられるかも知れない。それは嫌だ。康平に拒絶されるのは嫌だ。

「ではまた明日」

 康平は爽やかに帰ってゆく。

 一人取り残されて、ずっと康平の痕跡をなぞって、それでも足りなくて家の中で一人で「コーヘー」とか言ってみる。でも返事はない。康平が私のものになったらいいのに。ここで一緒に暮らせばいいのに。彼女とか居るのかな、どうなんだろう、居たらやだな。絶対にやだな。

 お風呂もトイレも康平のことばかり。絵は想いをぶつける場所。桃花は康平で染め上げられて来ている。日記だって康平のことだ。それでも夜には寝て、朝には起きる。

「おはようございます」

 朝が来れば康平が来る。その顔を見たら否が応にも華やぐ。

 桃花は康平の絵を描き、それが終わると康平は桃花の絵を見る。まるでそれが睦みごとであるように感じる。

 日一日、ときに締め付け、ときに高鳴り、胸は次第に忙しく、桃花の頭の中は康平で溢れてゆく。

 十日が経った、唐突に康平が切り出す。

「来週から学校が始まるので、モデルとして通えるのは今日含めてあと三日です。また長期休みのときにはモデルをさせてもらってもいいですか?」

 え、あと三日でこの熱い日々が終わるの? 会えなくなる? 嫌だ。でも学校。……だったらそれとは関係なく康平に来て貰えるようにしなくちゃ。

「いや、モデルは今日まででいいよ。ちょうどキリがいいから。それでね、モデルを体験しておくのは絵描きにとって価値があるとは思うんだけど、そればっかしてもしょうがない。絵描きは絵を描かなきゃ。だから、次に来るときは一緒に絵を描こう」

 康平の胸に言葉が届いたのが分かる。ぐっと握り締めた両手、潤んだ目。康平は桃花に急に抱き着いた。いや、抱き締めた。待ってました、これですよ、桃花は康平をそっと抱き留める。

 胸が高鳴る。

 キスしてもいいかな。

 いいかな。

 いいかな。

 前回と同じように康平が顔を上げる。

「先生、僕、絵、描きます。……描きます」

 泣きながら真剣というのもあるのだ。彼がハグを最初にしたからって、私まで同じように手順を踏まずに行為に及ぶということはしてはならない。私は私の順番をちゃんと守らなくてはならない。それが彼を大切にすると言うことだ。

 静かに熱い覚悟を決める。

 予備動作のように心臓が早鐘を打つ。

「康平君、真面目な話していい?」

「もちろんです」

 真っ直ぐに私を見る目。失いたくない。だけど、前に進むには言わなくてはならない。

 私も真っ直ぐに彼の目を見つめる。

 あと少しの勇気。康平がちょうだい。

「康平」

「はい」

「私、康平が好きだ。恋としての好きだ。一緒に暮らそう」

 康平は混乱、理解、困惑、覚悟の順に表情を捲っていって、私と抱き締め合う形から抜け出す。

 私の前に直立する、九十度になるまで頭を下げる。

「すいません。先生とはそう言う関係にはなれません」

 あれ? え? 嘘。

 衝撃が深く貫く。貫通した場所から徐々に蝕むように彼の言葉の意味が全身に広がってゆく。

 ……ダメか。……ダメなんだ。そうなんだ。……そうなんだ。

 育っていた気持ちの分、虚空が生まれる。その穴に感情が落ちてゆく。

「でも、先生のところに通いたいです。可能なら弟子になりたいです」

 待って、今私いっぱいいっぱい。泣きそう。でも泣いたら負けだ。

 私のところに通いたいって、傷心の原因とそう言う形で関係継続って、出来るのか。……いや、やってみよう。全ての関係は特別だ。

「いいよ。おいで」

「ありがとうございます」

「でも今日は帰って。私が泣いたって抱き締めちゃいけないんだよ、今は」

「はい」

 康平が帰るまで、桃花は泣かなかった。その背中を見送った後完成したばかりの康平の絵に向き合って、大声で泣いた。こころが零れる涙だった。


 今年も死ななかったので最高齢更新と言うことで、例のテレビ局が来た。また色々質問して来たが、一番最後に「恋ってされますか?」と、流行語を言わせたい意図がミエミエの質問をして来た。

 桃花はふふっと微笑む。

「失恋しちゃった。でも、その恋は百万ケルビンの恋だったよ」



(了)


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ケルビン 真花 @kawapsyc

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