第四章 約束の地

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 暗く冷たい石の床が尻から身体を冷やしていく。

 荷物を全て取り上げられた。食料も水もない。女だろうと子供だろうと関係なく押し込められた石造りの一室は狭かった。砂漠にいた時はあんなに求めて止まなかった水が、湿気となって、じっとりと肌に纏わりついてくるから、不快極まりない。

 ゴラン・ゴゾールの脳内は、未だ見ぬ荒れ狂った海の如く、混乱していた。止まらぬ思考の渦が襲い掛かってくるのだ――ジン・タオモというのはラモ翁の言っていたタオモ族の男だろう。レミが父と呼んだのだから間違いはない筈だ。だがしかし、さらったにもかかわらず、あの少女は彼を優しかったと評した。おまけに、レミは、さらわれたわけではないと言った。燭台の谷では、放して、と言っていたのに。

「ゴラン、今自由にしてあげるからね、待ってて」

 ルパの声が聞こえた。少年は器用な身体を駆使して、あっという間に縛めから抜け出したらしい。だが、ゴラン・ゴゾールはルパのことよりも、宰相と二人の王子のことを考えていた。宰相の胸元にあった小さな白い塊。既に砂漠の秘宝が献上されていると言った、冷たい顔。マローノ王子になっているカストーノ王子。行方が分からないマローノ王子。

 だが、このままでは埒があかない。考えるのは己らを取り巻く状況が好転してからなのではないか、と、ゴラン・ゴゾールは最終的に気付いた。

「できたよ、ゴラン」

 ルパの手によって、背中で縛られた手がふっと軽くなるのがわかった。少年はそのままリタの縛めを解く作業に移った。だが、こうやって皆が四肢を自由にしている間も、替え玉のカールは傍で俯いたまま動かず、何も言わない。ゴラン・ゴゾールは、青年の腕を拘束している縄を解いてやろうと近寄った。

「何か逃げる策はあるか、カール」

 カールはのろのろと視線を上げ、首を振った。瞳に覇気がない。

「最悪、砂漠へ放逐かと思っていましたが……宰相は既に砂漠の秘宝を所持していると明言しましたから、砂漠でラモ翁に保護して貰うことは難しいかもしれません。伐採場送りの可能性も、ないに等しいと思います。ラモ翁から頂いたあのチーズが入っている背嚢は取り上げられましたよね、ゴランどの……そうなれば、タオモ族のあの男とレミに再び接触することも困難でしょう」

 ゴラン・ゴゾールは何かを言おうとして、何も言えずに口をつぐんだ。青年が言っていることは全て納得ができるものだった。取り敢えずカールの腕を固く縛っている縄を上手く引っ張って緩めようとした時だ。

「……誰だろう」

 ルパが言った。全員、息をひそめる。

 程なくして、何か硬いものが石の床に打ち付けられる、コツ、コツという音が小さく聞こえてきた。それはだんだん近づいてくる。ゴラン・ゴゾールは急いでカールを縛めから解放してやった。

 やがて現れたのは、共を連れた宰相ネーロ・ヴォプロその人であった。

「ごきげんよう、諸君」

「……宰相どの」

 顎を上げた居丈高な姿勢のまま、宰相は眉だけでそれに応えた。金刺繍が豪奢な深紅の衣装を身に纏い、黒の分厚いマントが流れるように細身の背を覆っている。官位が高くなるにつれて上に長くなっていく箱のような形の帽子は、顔の縦の長さを優に超していた。

 その胸元には、ぴょんぴょん跳ねる小さな白い塊の入った、透明な小瓶の首飾り。

「早速近衛の仕事を台無しにしてくれたようだ。縄を結ぶのはすぐにできるようなことではないというのに。まあいい、また今から仕事をさせるだけだ」

「……何かする気か?」

 ゴラン・ゴゾールが訊くと、宰相ネーロは薄く笑った。

「そこの子供だけを出す」

 その視線が真っ直ぐにルパを見ていた。レミが大声を上げる。

「どうしてルパだけなの? 他のみんなはどうするの?」

「後はそのまま、今から打ち首だ」

「――何だって?」

 ゴラン・ゴゾールは鉄格子の向こう側を素早く見た。

 宰相の他に、共は九名いる。そのうちの二人は、何と、ジン・タオモという名の者と、レミだった。残りの者が来ている衣装と分厚い装備は、伐採場でもお目に掛かった警邏のものだ。ルパに一人、リタに一人、カールに二人、己に三人を当たらせるつもりなのだろうか。元近衛騎士の腕力で七名を蹴散らせるだろうか、一人を持ち上げて丸太代わりにしてしまえば、などと考えていたら、鉄格子に取り付けられた錠前がガシャンと音を立て、七名の警邏が全員、牢の中に入ってきた。

「連れていけ」

「ねえ、ちょっと――」

 身じろいだリタが悲鳴を上げた。振り返れば、彼女の腕に再び縄が掛けられようとしている。

 ゴラン・ゴゾールは助けに入ろうと一歩を踏み出したが、その途中で腕を一本ずつ捕らえられた。力任せに振り解こうと力を入れたが、警邏の者の腕力は相当強く、足を使おうかともがいた時、痛みが喉に走った。

 きらりと光るのは剣の切っ先。

 三人目の持っていた武器が喉に突き付けられたのだ。これにはひとたまりもなかった。

「大人しくしていれば寿命は伸びる……ここから王宮前広場まで歩く程度の長さだが」

「……ここで殺せばいいだろう」

 ゴラン・ゴゾールは、宰相の胸元から目を離さずに答えた。

「お前は、カストーノ王子殺しの大罪人だ、ゴラン・ゴゾール。民の前で死なねばならん」

「おれはやっていない、カストーノ王子殿下は生きている!」

 剣先が、更に喉に食い込んできた。ゴラン・ゴゾールはそれ以上喋るのをやめた。

「……戯言を」

 宰相は一瞬だけ何か考えたようだが、ゴラン・ゴゾールの言葉を愉快な思い付きだと判断したらしい。爪の先ほどしかない小さなチーズが、小瓶の中で激しく暴れまわっている。それは外に出してくれと言わんばかりに何度も何度も特定の方向へ飛ぼうとした――ちょうど、昼間の太陽の方向を知っているかのように。

「これが気になるか、ゴラン・ゴゾール」

 と、節の目立つ細長い指が、小瓶をつまむ。見上げれば、宰相ネーロは薄く笑いを湛えた唇を動かした。

「私は寛大であるから、お前たちが、辛気臭い打ち首の時に少しでも楽しい気持ちになれるよう、昔話をしてやろう。先代の王が存命の折……先代は三年前に崩御されたが、あれは三十年以上前であったな……とても珍しい格好をした女が訪ねてきたのだ、王宮にな」

 ゴラン・ゴゾールは、宰相の後ろでレミの腕をつかんで離さないようにしているジン・タオモを見つめた。苦々しい表情をしているのは、珍しい格好をした女のことを知っているからなのだろうか?

「私は幼い子供であったから、女がどういう名前だったかは忘れたが、濃い色をした肌に透き通るような銀色の髪をしたその姿を一目だけ見たことがある。時を同じくして、王宮の宝物庫に、非常に珍しい宝が納められたという噂を聞いて、どのようなものなのか興味がわいた」

 今ここで言及されているのは、間違いなくレシテの民、アルタン族の特徴である。レミやルパ、ジン・タオモは、皆、褐色の肌に銀髪である。宰相は愉快そうににやりと笑った。

「訊けば、女が、チーズを献上したというではないか。私は父に尋ねた覚えがある……そのチーズとはどういうものなのか、と。すると、父は幼い私にこんなことを教えてくれた。砂漠に住んでいる人の不思議な力が宿った、伝説のチーズだ、と。ひとたび口にすれば、絶大な力を手に入れられる、と。そうだ、そこのジン・タオモは、その女の息子らしいな。事情に明るく、何でも教えてくれた」

 カールが弾かれたように顔を上げた。

「まさか、己の母が預けたものを取り戻そうとしている……?」

 一縷の希望が、その唇から零れる。

 その時だった。

 声で何かに気付いて眉を顰め、視界に青年を入れた宰相の、目の色が変わった。

「フードを被ったままであったからわからなかったぞ……そうか、こんなところにいたのか。お前はカールという名ではないだろう……そのフードの下を捲れ、目の色がマローノだ。違うか、第一王子殿下?」

 息を呑む音が幾つも聞こえた。警邏の者が、青年の頭からフードを引き剥がす。長めの金髪が乱れて、ぱさぱさと首筋や耳に掛かった。

 碧の双眸と視線が合った。

「第一王子殿下……?」

 ゴラン・ゴゾールは驚いたが、同時に、己の中で、何かがぴったりと嵌ったような気がした。カールがカストーノのことを、敬称をつけずに呼び捨てていたことに対する疑問も、氷解した。それと同時に、己は一刻の王子を岩に縛り、尻を丸出しにさせて下の世話をしていたのか、ということに気付いて、これは後でしっかり謝罪をせねばならない、とも思った。己がまだちゃんと生きる気でいて、諦めが悪いのが、少し可笑しかった。

「やっていないと正直に言うのは感心しないな、ゴラン・ゴゾール。全く、砂漠に放逐したと思ったカストーノの方が残っていたのは計算外だった。まあ、私とマローノの政策に必ず反対するカストーノにしては大人しくしていてくれたから助かったがね……今考えれば、不気味なことこの上ない。もっと早くにマローノがどこに行ったのか、気付いて然るべきであったな」

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