最終話 世界でただ一人の愛おしいライバル

 この扉の向こう側がとても優しく穏やかな空間だと言うことは、そこから聞こえる二人の声で十分に伝わってきた。そして、お互いを優しい眼差しで見つめ合っている姿までも容易に想像が出来てしまう。

 本当なら今、二人が話している内容に対して私は、個人的にもマネージャーとしても反論しなければいけない立場にいるはずなのに、純粋に二人がどこまでやれるのか知りたいと思ってしまい、小さく胸の奥に夢見ていたそれを佐野さんがどうやって叶えていくのかを自分でも気付かないうちに見てみたいと望んでいた。

 それでも、あなたの隣にいるのが私ではない事に憤りを感じながら、どこかもう諦めにも近い何かが込み上げてきて、少しの切なさに苦しくなった。やっぱり私はこんな選択をしてしまうんだ。昔からそうだった、家庭環境から地元の北海道を離れて家族との生活を諦め、世間一般で言う楽しいキャンパスライフを諦めて大学とバイトの苦しい生活の中で生きて、やっと見つけた大切な仲間と大切な居場所も自分自身の体の所為で離れる決断をするしかなく、世界で一番愛していた居場所までも諦めた。

 いつもこうだった。大切なものほど私は手に入れることができなくて、いつも自らそれを諦める選択をしてきた。だから、また理佐のことも理佐と叶えたい夢も諦めることを選んでしまうのかと私は私に失望しながら、いつもと同じ結末、いつもと同じだと納得させるように小さく深呼吸を一つ。

 冷静な思考を取り戻し、今では遠くに聞こえる二人の声をBGMにきっと私が理佐と見たいと思っている景色は、佐野さんと理佐じゃないと見る事ができないものなんだと少しだけ下唇を噛みしめた。諦めることに慣れているはずなのに、諦めることを諦めることだけは出来なくて、早く諦めることを諦めたいのになとく小さく今度は、ため息を一つ。

 描いていたあの子との夢はもう自分の中で上手く消化しなければ。これで全部、もうそろそろ私も、いい人にならなきゃだめだよね……


 せめて最後は、いい人になりたい――


 後ろから微かにふわりと甘い香りがして、その香りから背後に誰がいるのかすぐに分かってしまい、思わず笑みが零れた。

「美由紀」

 香りに負けないくらいの甘い声で呼ばれ、振り向けばそこには予想通りの人が立っていた。

「由香、どうしたの?」

「美由紀こそどうしたの?」

「理佐が倒れちゃってね……」

「忙しそうだったもんね。中に入らないの?」

「あなたのマネージャーさんがちょっとね」

「なるほど。ねぇ、美由紀」

「ん? なに?」

「二人がどこまでやれるか見てみたくない?」

 そう言った彼女の表情はとても柔らかくて、あぁ、由香はもう全部知ったうえで、それを受け入れ、私よりも先に諦めたんだと分かった。そんな彼女の表情を見て、私もきっと彼女と似た表情をしているんだろうなと見えない自分の表情を想像してみる。

「見たいし、見たくない」

「ふふっ、何それ。素直じゃないね」

「そんな簡単に素直にはなれないよ。それにやられっぱなしは嫌」

「やられっぱなし?」

「そう。ねぇ、由香――」

 あの二人のようにはなれないけれど、私にもマネージャーとして目指すものがある。それを達成する為に私がいま由香にした提案はとても現実味があり、いくらか佐野さんたちよりも目標達成への道のりは険しくないと思う。

 そして、最終的に目指すものはもちろん佐野さんと同じはず。だから、これからもあなたは世界でただ一人、私のライバルであり続けることになる。そう思うと何故かクスっとしてしまうほど清々しくて擽ったい気持ちだった。

「美由紀って敵に回すと怖いよね」

「そう? でも、敵は強い方が良いじゃない。弱いとつまらないでしょ?」

「こわーい。でも、私はそれでいいけど、あの子は大丈夫なの?」

「大丈夫。私がなんとかするから」

「そっか。美由紀がそう言うならきっと大丈夫だね」

 大人たちとちゃんと話さないとね、そう二人で決心して由香と並んで歩き出す。

 これは新しい目標に向けた私たちだけのけじめの一歩。


「君は何とも茨な道を進むね」

 一面の白がより緊張感を演出する中、この部屋に響く落ち着きのある声。その声の主に認めてもらわないことには何も始まらないのに予想していたものとなんら変わらない言葉が返ってきた。

「無謀でしょうか……」

「うーん、君は自分で無謀だと思いながらやろうとしているの?」

「いえ、ただ――」

「人の人生を預かるんだ。そんな生半可な気持ちならやめるべきだよ。相手にも失礼だ」

 社長の言葉が頭の中のずっと深い部分に響き渡り、決めたはずの覚悟だけでは足りなかったと痛くなる。まだ私には早いと自分でも分かっているにも関わらず、それで社長を納得させるなんてやはり無謀だったかもしれない。もう二度と弱気にはならないと決めたはずなのに偉大過ぎる人を前に自分の小ささを痛感する。

 でも、ここで引く訳にはいなかい。理佐との約束の為にここで引く訳にはいかない。

「今のままでは、自分でも無謀だと思います。でもそれは、今のままならの話です。私はこれから自分の一生をかけて櫻井理佐を大女優にしてみせます。今まで以上に担当に自分の全てを捧げて、彼女の為だけに生きていきます」

「……そうか。そこまで言えるなら良いんじゃないかな」

「えっ?」

「前に社員は家族だと言ったことを覚えているかい?」

「はい」

「家族が一生をかけて叶えたい夢があると言って、それに相応しい覚悟を決めたなら応援するしかないと思わないかい? それにね、僕は見てみたいんだ。佐野くんと櫻井さんが二人でこの芸能界と言う大きな舞台でどう輝き、どうやって上り詰めていくのかを」

 その時の社長の微笑みはとても優しく、とてもあたたかいものだった。

 その後、私は勤めていた事務所を退社した。そして、理佐も所属している事務所の社長に契約期間満了のタイミングで退所させて欲しいと何度も頭を下げ説得した。しかし、モデルとしても女優としても人気のある理佐をそう簡単に手離す訳は無く、話し合いは難航し時間だけが過ぎていた。

「櫻井さんの件は、なかなか難しそうだね」

「はい、あの事務所でトップレベルに売れてますからね。そう簡単には辞めさせてもらえなくて……」

「うーん、じゃ、この件、僕に任せてくれる?」

 どう言う意味ですか?と尋ねる前に忙しい社長はあっという間に部屋を出て行ってしまった。そして、それから三時間後に理佐の事務所社長から連絡があり理佐の退所を許可してくれると言う内容に思考が追い付けず、暫く動けなかった。

 その後、小野社長からは何も連絡が無く、理佐と理佐の事務所社長に話を訊いたところ、あんなに難航していた問題は何とも簡単に解決していた。

 理佐の退所と個人事務所の設立を許可する代わりに夏目由香を移籍させ、永井飛鳥の所属権利を譲る。トレードだ。元々、私のいた事務所と理佐の事務所は同じグループ会社に属していることもあり、グループ間の移籍に関しては、他事務所に比べて寛容だが、あまりにも急な解決にどこか後味が悪い。主にその原因は夏目さんだ。彼女が移籍を承諾するなんていまいちこの話を信用できない。そんな考えが顔に出ていたのか、隣にいる理佐が独り言を話すような声で教えてくれた。

「実はね、由香の移籍と飛鳥の所属の話は、本人たちからうちの社長宛てに連絡があったの」 

 そして、二人とも担当マネージャーに森橋さんを指名しているとのこと。

「なんだかね、未来のことを考えると凄く楽しみなの」

「楽しみ?」

「うん。だって、私はなおと一緒で美由紀と由香と飛鳥が一緒なんだよ? あっちは強力なライバルになるでしょ? 美由紀のことだから由香と飛鳥にどんどん広告やドラマの仕事取ってくるだろうし、私たちも負けてられないなーって思ったらなんだかわくわくしちゃった!」

 キラキラと瞳を輝かせながらそう呟く理佐を見て、そうだねと私は微笑んだ。

 夏目さんや永井さんの真意は分からないけど、本人たちが望んでしたことなら私はマネージャーとしてそれを応援しよう。そして、これから先、その強力なライバルたちに負けないように頑張らなければ。

 理佐の個人事務所の立ち上げと理佐のマネージメントを担当すると言う当初の目的を無事に果たすことが出来たので、これでやっと公私ともにパートナーになれる。

 新事務所の立ち上げをマスコミに発表し、今後のスケジュール引継ぎが終わればまた雑誌やドラマの撮影で忙しい日々に戻ってしまうので、マスコミへの発表は少し遅らせて、つかの間の休暇を理佐と二人で取ることにした。



「スウェーデン楽しみだね」

 隣に座り終始ニコニコと窓の外とこちらを交互に眺める理佐にやっと君の夢を叶えてあげられると実感がわいてくる。それはとても嬉しく、不意に目頭が熱くなる。

 飛行機の離陸時にそっと手を繋ぎ、これからもずっとこの手を離さないと君に誓う。


「ねぇ、美由紀」

「なに?」

「スケジュールの相談なんだけど」

「あぁ、そうだ。私もスケジュールで確認したいことがあったの」

「えっ? いつのスケジュール?」

「十一月十二日から十四日まで空ければいいよね? 少しタイトだけど、これ以上は撮影日動かせないからいいでしょ?」

「私も丁度その日程は空けて欲しいって話すつもりだったから、その日程で大丈夫だよ。飛鳥は? スケジュール大丈夫そう?」

「もちろん。飛鳥は既にこの日程確保済みだから大丈夫」

「さすが。仕事が早いね」

「当たり前でしょ? あの二人の特別な日なんだから。絶対三人で行かなきゃ。航空券とホテルはこっちで手配しておくから詳細決まったらまた連絡するね」

「うん、ありがとう。それにしてもスウェーデンで挙式だなんて凄いよね」

「……理佐の夢だったからね。叶って良かったじゃない」

「そうだね。好きな人の結婚式かー」

「感傷的になってる暇はないからね?」

「分かってるって、私も美由紀のところに移籍して今が大事な時期だし」

「そうよ。飛鳥と由香の二人がうちの事務所に来たんだから、あの二人に負ける訳にはいかないでしょ。今度の日本アカデミー賞だってうちが貰うんだから」

「美由紀さー、最近楽しそうだよね」

「そう?」

「うん、すっごく楽しそう」


 そう言われてみれば、どこか今までよりも仕事を楽しんでいる気もする。

 理佐への気持ちが完全に消えたかと訊かれたら答えに困るけど、それでも前よりずっといい人になったと思う。オーディション会場や局で佐野さんを見つけるとわくわくして、あなたより一つでも多くの仕事を取りたいとやる気になる。恋のそれとは違うけれど、もしかしたら私は自分で思っているよりも佐野さんを気に入っているのかもしれない、と届いた招待状を眺めながら思う。理佐を幸せにしてくれるなら、そろそろ仲直りしてあげてもいいかな。


「あ、そうだ。ねぇ、由香。今度のオーディションのことだけど――」

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Half truth 雪乃 直 @HM-FM-yukino

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