第15話 見えていなかった優しさ

 突然とフロアに鳴り響く内線音。自分のデスクに置いてあるそれが赤く光って私宛ての電話だと知らせる。そして、画面に映し出された社長室、と言う文字にピリッと緊張が走る。


「お疲れ様です。佐野です」

「お疲れ様。今日どこかで時間もらえないかな? 出来れば早い時間帯だと助かる」

「承知しました。何時でも大丈夫ですが、小野社長のご都合如何でしょうか?」

「そう、じゃ十五分後に来てくれるかい?」

「承知致しました」

「うん、じゃまた後で」

「はい、失礼致します」

 受話器を置いて一気に緊張の糸が切れる。きっと記事のことだろう…

 不思議なことに自宅まで記者が押し寄せているのに会社へ記者達からの問い合わせの電話は一度も着ていない。可笑しい。今回の件は可笑しいことばかりだ。恐らく社長からの話もこの件だろうし、精神的にも辛くなってきた。

「また社長から呼び出し?」

「えっ、あ、うん」

「何かあったの?」

「うーん、色々あった。でも、もうすぐ落ち着く予定」

「そっか。でも何か手伝えることあったら遠慮なく言ってね」

「うん、ありがとう」

 この間のお礼と言いながらそっとデスクに置かれた缶コーヒーに思わず小さく笑ってしまった。

「えっ、なんで笑うの?」

「ふふっ、なんか久しぶりに人の優しさに触れたなーと思って。ありがとう」

「なにそれ、いつだって優しくしてるつもりだけど?」

 その大袈裟に拗ねた表情にまた力が抜けていく。一人で力んで全てを敵だと思っていたのが馬鹿々々しく思えた。

「ありがとう。じゃ、ちょっと社長のところに行ってくる」

「うん」


 上の階にある社長室に向かうエレベーターの中、どんなことを言われようとこの件は自分で決着を付けようと心に決めた。

 重厚感のある扉を三回ノックする。この時の手は、前と違ってもう少しも震えてはいなかった。

「どうぞ」

「失礼します」

「座って」

「はい」

 いつまで経っても新品のように綺麗なこの高級ソファーはきっと此処に座る人にとってはプレッシャーの一つだろう。実際に私も昔はそうだった。だから社長室は凄く苦手だった。

「佐野くん」

 そんなことを考えていれば、社長がゆっくりとこちらに視線を向けて話し始めた。その声を聞き逃してはいけないと自然とスイッチが入れ替わる。

「今朝、君の自宅に記者達が来ていただろう?」

「……はい」

「櫻井さんの恋人かとでも聞かれたかい?」

「はい」

「そうか、それできみはどう答えた?」

「何も。ただ黙って通り過ぎました」

「そうか……」

「今回の件で分からないことがあるんです」

「分からないこと?」

「はい」

「例えば?」

「記事を書いた出版社の記者が私の自宅に来るのは分かります。でも、その他の出版社の記者は、きっとこの件は今回の雑誌記事で知るはずです。何故なら、これはあの出版社の独占スクープとして掲載しています。それなのに雑誌発売日当日の朝に私の自宅に他社の記者達が来るなんて可笑しいです。どこかで情報が洩れているとしか……」

「……」

「それに、事務所に出版社から問合せの電話がこないんです。ファックスで質問用紙が届くこともありません。あれだけ自宅に押し寄せて質問を投げてきたのに、可笑しいです」

「相変わらず勘が良いね」

「えっ……」

「今朝、佐野くんの自宅に来ていた記者達は、僕の知り合いにお願いして用意した人達だよ。本物の記者だけど、まぁフェイクだね」

「…どうしてそんなことを」

「本当のことを言って欲しかったんだ」


 本当のこと。この言葉で心臓が一度大きく跳ねて、その後すぐに痛いくらいにドキドキと動く自分の心臓に焦り、この心音の焦りが社長にも聞こえてしまうんじゃないかと怖くなった。

「君たちは付き合っているんだろう?」

「……それは、」

「いいじゃないか。櫻井さんも凄く綺麗な人だし、真面目に頑張る佐野くんとお似合いだと思うよ」

「えっ…」

「僕はね、此処で働く社員が大事なんだ。家族のように大切で、一人ひとりちゃんと幸せになってもらいたいし、幸せにしてあげたいんだ。その幸せは勿論、仕事でもそうだし、私生活の幸せだって願っているよ。だから、社員の恋人も僕にとっては家族のように大事なんだ」

 そんなに優しい声で、そんなに優しい表情で、そんなことを言わないで――

 今までずっと誰も守ってくれなかった、誰も分かってくれなかった、誰も受け入れてくれなかった、誰も認めてくれなかった。

だから、ずっと理佐と二人だけで生きてきたのに、今更、そんなに大きな優しさに触れてしまったら、もう抑えきれなくなる……

「好きなんだろう? じゃ、それでいいじゃないか。記事のことや面倒なことは僕に任せて佐野くんはちゃんと自分のやるべきことをやればいい」

 この時、何かに胸を押し潰されそうで苦しくてまともに息も出来なくて、頬を伝う涙を拭うことも出来ず、言葉を発することも出来ず、ただ何度も頷き気持ちを伝えることしかできなかった。

「そうだ、これを渡しておくよ。どう使うかは君に任せるよ」

 そう言いながら社長は内ポケットから一枚のメモ用紙を取り出しテーブルに置いた。それを手に取り中身を確認する。

「これは、」

「先方は大変だろうが、少しは櫻井さんの約に立つんじゃないか」

「……酷ですね」

「優しさだけじゃ守れないものもある。本当に大切なものを守りたいなら、それなりの覚悟をしなきゃ守りきれないよ。僕はね、ずっと昔にその覚悟をしたんだ」

 

 いつもみたいな優しい表情のはずなのにどこか冷たさを感じた。

 その後も、僕は打ち合わせでもう事務所を出るから君は涙が落ち着くまで此処で休んでいきなさい。と声を掛けて頂き、それに甘えることにした。少ししてポケットから携帯を取り出してある人に電話を掛ける。

「もしもし、先日はお世話になりました。面白いネタがあるんですが、近々お時間頂けませんか?」

 アポ取りを終えて電話を切る。これで少しは動きが変わるはず。理佐、もうすぐ会えるから。


 社長室から自分のデスクに戻ってきたタイミングで夏目さんもスタッフとの打ち合わせが終わったようで戻ってきていた。

「夏目さん、お疲れ様でした」

「あっ! 佐野さんどこに行ってたんですか? 途中からいませんでしたよね?」

 少し頬を膨らませて見るからに拗ねている夏目さんに社長と打ち合わせをしていたと答えれば、急に真剣な表情に切り替わった。

「まさか、社長とあの件を話したんですか?」

「えぇ」

「佐野さんクビになったりしませんよね? 大丈夫ですよね?」

 焦った声に焦った表情。やっぱりコロコロと表情が変わる夏目さんは面白い。

「クビにはなりませんよ」

「良かった……」

「ふふっ、夏目さんって本当に表情豊かですね」

「人が心配してるのに笑うなんて酷いです!」

「……すみません」

「でも、良かった」

「えっ」

「佐野さん思ってたより元気そうで安心しました」

 そう言った時の彼女の笑顔が凄く綺麗で思わずドキッとした。

「あっ、そろそろ美容院行かなきゃ。じゃ、佐野さんまた明日宜しくお願いします」

「はい、明日も宜しくお願いします。美容院って今日はカラーだけですよね? 終わり次第写真送ってくださいね」

「はーい」

「お疲れ様です」

「お疲れ様です!」

 明るく事務所を出る彼女の後ろ姿を確認して出掛ける準備を始める。そろそろ営業周りに行かないと夜の約束に間に合わない。

「ごめん、今日このまま戻らないから何かあったら携帯に連絡して」

「了解、いってらっしゃい」

「いってきます」

 急ぎ足で営業先を回り幾つか新しい案件を貰えてホッとしつつ、指定されたお店に向かう。六本木駅から徒歩数分の場所にあるこのお店。マンションの一室を改装して店舗にしているらしく、初見ではお店を見つけるには一苦労だった。そんなお店を指定してくるなんてちょっと意地悪だと思いつつ店内に入る。


 一番奥の個室に案内され扉を開けて驚いた。

「佐野さん、お疲れ様です。待ってましたよ」

「遅くなりすみません」

「いえいえ、私たちが早く着いちゃっただけですから気にしないでください」

「……」

 目の前に座る森橋さんに、二人だけでと言う約束を忘れたのかと問いたいところだが、その前にこの子に挨拶をしなくてはと気持ちを切り替える。

「こんばんは。お久しぶりです、永井さん」

「……」

 しっかりと目が合っているのに彼女は一言も言葉を発してくれない。

「すみません。以前、広告撮影のスタジオでお会いしていたので、お久しぶりですと言ってしまいましたが、覚えていませんよね。初めまして――」

「覚えてます」

「えっ」

「ちゃんと覚えてます」

「良かった」

「寧ろ、佐野さんが私のこと覚えててくれたなんて……」

「当たり前ですよ、だってあの時撮った広告、凄く永井さんの表情が良かったから。広告も撮影合間のこともちゃんと覚えてますよ」

「……」

 ありのままを話せば、永井さんは驚いたような表情をしたあとに小さく微笑んでくれた。森橋さんと二人で会って話したかったけど、久しぶりに永井さんに会えたのは嬉しかった。

「飛鳥がずっと佐野さんに会いたいって言ってて」

「美由紀!」

「私にですか?」

「飛鳥は、佐野さんのことが好きなんです」

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