夕映

楠本完全

逆光のあの子

 信号の向こうが逆光になってよく見えなかった。「じゃー!」という光の先からの声に「あー! またー!」と返すという暗号のやり取りみたいなことをして今までとは逆方向に歩き出す。途端にまただ、と思う。最近よくあるのだが、一人になった途端に変な感覚に陥る。誰かと喋っているときは大丈夫なんだ。でも今みたいに学校からの帰り道で同級生と別れたり、夕飯を終えて自分の部屋でぼーっとする時、得体のしれない気持ちでいっぱいになる。とても大事な物を忘れたままでいるような。何か大変な失敗を今自分はしてしまっているような気がして落ち着かない。だがいくら考えてみても何一つそんなものは思い当たらないのだ。なんとなく気持ち悪いが何か実害がある訳ではないので、俺は特別気にしないようにしていた。

 今また沸き起こったいやな感覚について考えていると、音楽がどこからか聞こえてきた。古いゲームの効果音のようだが、不規則なリズムを刻む破壊的な電子音も加わっており、とても暴力的な音像を成していた。無意識に下を向いてしまっていた顔を上げる。自分の家から五分ほどの距離にあるレコードショップの扉が開けっ放しになっていた。そこから漏れてきている音らしい。なんとなく危ない場所のような雰囲気があり存在は知っていたが入ろうと思ったことは無かった。だがドアが開いていたことと、今のこのおかしな気分に背中を押され、俺はつい中へ足を踏み入れてしまった。

 まともな髪の色の人など一人もいない、二人に一人はタトゥーが入っている、隅の方では金銭と何かの袋の授受が行われている、そんな危険地帯が広がっていることも覚悟したが、意外にもあったのは少しこだわりの強い本屋というか、個人経営の喫茶店のような世界だった。よく分からない黒人が苦々しく笑いながらギターを抱えている写真や、大昔のニューハーフのようなメイクで、キャバクラ嬢かと思うほどのボリュームのあり過ぎる髪型をした男たちがぞろぞろと集っている写真など、外国に来てしまったのではないかと一瞬考えてしまうような装飾が沢山あった。どうやら壁に貼られたそれらの写真は全てレコードらしかった。実物を見るのは初めてだった。こんなに大きいものなのかと驚いた。レコードしか置いていないのかと思えばそんなこともなく、ちゃんとCDも、さらにはカセットテープや何故か映画のVHSやTシャツに靴まで売っていた。おまけに不気味な絵柄の漫画すらあった。最近クラスメイトに教わって聴くようになったバンドのCDを探してみたが、何処にも見当たらなかったので店の人に訊いてみることにした。入口のちょうど対角線上の隅にあるレジ、といっても長テーブルにレジスターやパソコンや雑多な物がめちゃくちゃに散らかされて置いてある場所に居るのは、自分とそう年は離れていなそうな女の子だった。見覚えがあるような気がしたが、気のせいだと特に考えることもせず、目当てのバンドの名前を出してみた。

「あー、あの四つ打ちとメロコアの悪いところだけ抽出した絞りカスにセカイ系ラノベのなり損ないで味付けしたようなクソバンドか。残念だけどウチには無いよ。ネットで買えば?」

「……別にどうしても欲しいわけじゃない」

「そっか」

 対応悪すぎないか? と思ったが文句を言うのも気分が良くないので帰ることにした。しっかり扉も閉め、看板を見上げて気が付いた。いつか友達に連れて行かれたサブカルチャーとかいうものの聖地らしい場所の一角、宇宙船のような内装の店で見た昭和の看板の中に紛れていても違和感は無さそうな古さの看板には「タジマレコード」と書かれていた。タジマ、その名前、というより苗字で初めて分かった。タジマ。タジマ、アスミ。あれは修学旅行でのことだ。班を組む際、一人だけ余ってしまった女子がいた。彼女は結局、教師の目を逃れて極秘裏に行われたじゃんけんによって自分たちの班にあてがわれることになった。全く喋ったことは無かったが、むしろいい機会だ、旅の中で彼女と話してみようと思った。特に元々興味があったわけではないが、せっかく同じクラスなのだから、何も知らないまま卒業するのは、なんというか単純に勿体ないと思ったのだ。ゲームのやりこみ要素を放置してメインストーリーを完遂したら終わりにしてしまうような勿体なさを感じた。だが驚くべきことに彼女は修学旅行中ただの一言も言葉を発さず、どころか一度として表情を変えることもしなかった。友達がいない人間というのはやはりそれなりの理由があるのだということがよく分かった。

 そのタジマアスミだった。たった今俺が話して、好きなバンドをボロクソに貶してきた相手はよく考えて見ればタジマアスミなのだった。だがどうしても自分の中のイメージと、さっきのふてぶてしい彼女は一致しなかった。怪しい奴に思われてしまうだろうが、もう一度、確認の為に戻ってみることにした。

「いらっしゃー……ん?」

「あの、タジマアスミ、だよな」

「は?」

「同じクラスの、タジマアスミだよな、お前」

「お前、か……そういうオマエはキタザワユウゴくんさんだよな?」

「ああ、ああそうだよ……やっぱタジマだ、あのさ……」

 あのさ? あのさ、何だ? 俺はこいつに何が言いたいんだ? 考えているうちに間がかなり空いてしまったせいで凍り付いた空気を溶かしたのは、奥から現れた髭面の男だった。

「よーっす、アス、これやっといてー」

 客がいるのにいらっしゃいませも何もなく、指示だけを残して消えていった。そしてタジマも特に返事もせずに渡されたCDの山とパソコンの画面を見比べ始めた。何かを調べているようだった。

「あのー」

「……あっ、え?」

「そうじっと観てられると仕事やりにくいんだけど」

「あ、わっ、悪い!」

 やっぱり別人か? お姉さんか誰かか? とも思うが、俺の名前を知っていたことからもタジマアスミ本人であることは間違いない。何か、分からないが何かを話したかった。最近のこの変な気分を解決するための糸口が、ここでならつかめるのではないか、根拠もなくそう思ったのだ。学校とも家とも、自分の生活している空間とはまるきり違うここでなら、きっと思いもしなかったような考え方に出会える、そんな気がした。

「今それ、何してるんだ?」

「何ってまあ、独断での価格設定と世間的な評価がズレ過ぎないようにすり合わせてるっていうか、要は値付けだけど」

「へー、え、独断ってことはお前これここにあるの全部知ってるの?」

「だー……そのお前っていうのやめてくんないかな。イラっとする」

「悪い。タジマは、知ってんの、これ」

「うーん……あ、でもこれは分かんないな。えー……ジャケ的にゴス系か? あーやっぱり。ふーん」

「すげえ……」

「そう? まあ家業だからね。生まれてからずっとこんな所に居て詳しくならない方が逆にムズいって」

「だとしてもすげえよ。ウチの学校で一番詳しいんじゃね」

「あっははは、ナメてもらっちゃ困る。あんなノーミソからっぽな連中と比べるのは双方に失礼だよ」

「ノーミソからっぽ……確かに」

「うえっ、そこ同意すんの?」

「あ、マズかったか」

「マズかねーですけど、怒るかと思った」

 言われてみればかなりの暴言であるにも関わらず全く怒る気にはならなかった。あのクラスメイト達がノーミソからっぽだなんて、そんなことを自分は思っているのだろうか。否定しようにも彼らはどこまでも「クラスメイト」であり「友達」と呼ぶのは違和感があることに気が付いた。待て、じゃあ友達ってものが自分には一人でもいるだろうか。友達と、呼びたい相手が。休みの日に遊びに行くのだって、自分から誘って出かけたことが一度でもあったか。いつも必ず誰かに連れていかれるようにして行っていなかったか。漫画や映画で見るようなあの、友達、ってやつが、俺には居るのか? 答えは明白だった。早速、予想より十倍くらい早くモヤモヤの正体がつかめそうになっていることに戸惑いながらも少しだけ俺は興奮してもいた。

「あのさ、タジマは、友達っている?」

「ホント失礼極まりないよね、キタザワくん」

「ゴメン、でも、いるか? 友達。俺はもしかしするといないかもしれない、ってことに今気づいた」

 タジマはパソコンから顔を上げた。なんというか、それこそ値打ちを見定めているような表情をしばらくして、また画面に目を落とした。見間違いかもしれないが、少し微笑んだような気がした。

「嫌なの?」

「えっ」

「友達いないの、嫌?」

「嫌、かな? どうだろう……えっと」

「ふふふふふ」

「……なんだよその笑いは」

「いーや? 何でも? 多分ね、即答できない時点で別に大して嫌だと思ってないんだよ。私も、いないよ、友達なんて。要らないし。学生の言う友達なんて物は、なんていうかさ、寂しさを紛らわせてくれたり、自分は一人ぼっちの可哀想な奴じゃありませんとか、こんなイケてる人達と同じ人種ですってアピールしたいがための、飾りみたいなものでしかないじゃん。それは私、欲しくない」

「友達ってそんなもんなのか?」

「違うよ」

「違う!? 何なんだよ! 何が言いたいんだおま、タジマは」

「キタザワくんの言ってる友達とやらは多分そういう物のことだろうな、と思ったからそう言っただけ。本当の友達っていうのは、何だろうね、切っても切れない腐れ縁のある相手のことだと思う。友達になる、とか友達じゃなくなる、とかそういう概念自体が存在しえない人のこと」

「悪い……ちょっと混乱してきたから今日は帰るわ。また別の日に、良かったらまた話さないか」

「いいよー。ただし、そうね、在庫処分に付き合ってくれたら」

 そう言ってタジマはパッケージがボロボロの、いつの時代のどこの国の、どんな音楽なのか見当もつかないようなCDを差し出した。

「出血大サービスで今だけ百円」

 いやらしく笑いながら言うタジマを見て俺はつい友達になりたいと思ってしまったが、なったりそうじゃなくなったりするものではないという他でもない彼女の意見を思い出し、黙って百円玉を渡した。

 それからというもの、タジマの家もといタジマレコードを放課後に訪れるのが俺の楽しみになった。今まで大して面白いともつまらないとも思わず、将来のための文字通り勉強の場としか捉えていなかった学校という空間がハッキリとつまらない施設に感じ始めるという弊害はあったが、タジマにそれを話すと「ようこそコチラの世界へ」とまたいやらしく笑った。

 彼女の棘のある物言いによって、最近の俺はあの不気味な憂鬱を相殺出来ている。逆に学校生活は空しさが増すばかりではあったが、もう卒業が間近であることを思えばどことなく愛おしくも感じ始めていた。ふと気になってタジマに卒業後のことを訊いてみると、進路調査票には「就職」と書き三者面談も家業を継ぐ方向で全員の意見が一致し、五分足らずで終わった、という信じがたくはあるがあり得ない話ではない答えが返ってきた。

「ま、もうこの店つぶれるけど」

「はっ!?」

「当ったり前って話だけど、今の時代こんなクソ田舎で音楽CDなんか売ってたって儲かる訳ないよ。私の親、黒字なんてここ数年で一度も見てないらしいし。だからここ近々潰して違う所で今の時代に合ったビジネス始める、とか言ってた。どーすんのか詳しくは知らないけど、とりあえず他にやれることがある訳でもないから、私はそれに従うだけなんだけどね」

「本当かそれ、じゃあ、卒業したら引っ越すのか」

「たぶん。というかほぼ間違いなく。……アエナクナッテモ、ワタシノコト、ワスレナイデネー」

「すげー棒読み……でも、忘れないとは思う」

「あはっ、なんだかんだ私もキタザワくんのことは忘れないと思うよ。ヒエラルキーの頂点に君臨する帝王みたいなやつかと思ったらしょーもねークソガキだった男の子が毎日のように私とおしゃべりしに来てたなんて変な思い出、忘れようとしても無理そう」

 俗に言う「いい雰囲気」というものが醸し出されてもおかしくない会話内容ではあった。だが気持ち悪い電子音楽が結構な音量で流れていたので、どうしても昔何かの映画で見た物騒な場末の路地裏での会話のようになってしまうのが可笑しかった。こんな風に、心に何のひっかかりもなく全てを開いて誰かと喋っていられることがこんなにも幸せなことだとは知らなかった。クラスのやつらとはやはりどこかで打算や、恐れのような物を抱えながら付き合っていたのだということが彼女のおかげで分かった。友達とか、恋人とか、そういう物で無くてもいい、むしろそんな物では無い方がいい。彼女とはもっと特別な、表現する言葉の存在しないこの関係でありたかった。そんな変な仲間として、最後に、会えなくなってしまう前に、一度彼女と二人で一日を過ごしてみたい。そう思って俺はある提案をした。 


 ネズミ色のパッとしない空が「おはよう……」とダルそうにこちらに疲れた笑顔を向ける朝に、あくまでも気分だけでも明るくしておこうとタジマから買ったCDの中でも一番元気のあるやつを選んでかけた。歌詞カードがついていなかったので内容はよくわからないが、戦いの中で雄たけびを上げているようなボーカルの歌い方は聴いていると泣きたいような笑ってしまうような不思議な気分に陥る。将来はスタイリストになると息巻いている遊び仲間の一人が選んでくれた自分では果たしてこれがおしゃれなのかどうかよくわからない格好に全身を包み、玄関の戸を開ける前に大きく深呼吸して気合いを入れてから外へ出た。薄く雨が降り出していたのですぐに戻って傘を持ちまた出た。

 気のせいかもしれないが、通りすがる人がいちいちこちらをじっと見ているような感覚があった。普段はこんなことはないのにどうしてだろうと考えても、思い当たるのは今日の服装くらいだった。もしかしたらこれめちゃくちゃダサいんじゃないだろうかと、人とすれ違うたびに不安が増した。カーブミラーがあるたびに自分の姿を映して眺めてみた。たぶん予感は的中しているように思った。だが今更戻れない。遅刻するくらいならダサい服を着て行った方がまだ笑い話になるだろう。彼女と遊びに行くときもこんなに色々気を使ったことがないのにな。そう思って、もしかしたら今から自分がしようとしていることは浮気なのかも知れないという考えが浮かんだ。そういえばもうずっと彼女とは学校外で話をしていない。怒っているだろうか。というか、怒っていたな。毎週の誘いを毎週断っているうちに最初は繕ってニコニコとしていたが最近ではもう完全に怒りをあらわにするようになっていた。それでも最近の俺には恋人よりタジマの方が重要なのだった。じゃあ何故別れないのかといえば、小学生以前からの幼馴染で、ごくごく自然な流れで付き合いだした彼女との関係が壊れるのはやはり怖いからだろう。彼女は彼女として好きだ。たぶんちゃんと恋愛感情も抱いている。だけどタジマはタジマでとても好きなんだ。必要なんだ。なんだか不倫男みたいな論理を振りかざしているようで、だんだん気分が重くなり始めたので、とにかく今日は今日という日を楽しもう、それだけを考えようと思考をストップした。

 歩き始めてちょうど五分ほど経った頃、近くを歩く人達が傘を閉じ始めたので試しに自分も傘を傾けてみた。雨は止んでいた。急いで傘を持ってくることも無かったなと空を見上げながら薄く笑っていると、後ろから声を掛けられた。

「おーい」

「え……え?」

「おはよう、キタザワくん」

「おはよう……まさか外で待ってるとは」

「あっはは……まさかだよね。なんかさ、変なんだけど、部屋に居ても落ち着かなくて」

「そっか、そっかそっか」

 ……可愛くね?

 今日のタジマ心なしか、いや間違いなく可愛い。長袖の白黒ボーダーシャツに下は黒いロングスカートという服装がそう見えさせるのも大きいだろうけど、それだけではなく、放課後や土日にタジマの家で会う時とは確実に何かが違っているように見えた。

「……いいね」

「え、あ? 何が?」

「その服、似合ってる」

「マジか、ありがとう」

 良かった、俺の服装も悪くはないらしい。じゃああの道行く人の視線はもしや称賛の目だったのか。冷や汗かいて損した。

「で、今日はどうしたの? 何企んでるわけ」

「企んでる? いや、なんつーか、純粋にちょっとタジマとゆっくり一日一緒にいてみたくて」

「ほー、試験的にデートしてみようってことか」

「デート、まあ、デートか。うん、確かに試験的だし、うん、そうだな。そんなところ」

「キタザワくんは、しっかし、私の言うことを否定しないね。怒っていいんだよ、割と今酷いこと言ってる自覚あるし」

「いや、タジマが正しいのに否定するのは意味わからないだろ」

「はーん? そ。んじゃ行きますかねー、つっても、どこに?」

「ははは、んー、そうだな、どこ行こうか」

「決めてないの!? あらー、この子無計画だわー、将来結婚できるのかしらー」

「結婚、いや、まだそこまでの覚悟は俺には無いぞ」

「そういう意味じゃないよ……そういう意味じゃないよ!?」

「なんで二回言う」

「あっの、ねー。まーいーや。とりあえず駅まで行きますか。で、適当な電車に乗って適当なとこで降りようじゃない。私、キタザワくんとなら結構どんなとこでも退屈しない気がするわ」

「そっか、じゃあそうしよう」

 一瞬、タジマはなぜかムスッとした顔をしたが、すぐにいつもの悪い微笑を浮かべて歩き出した。二人で歩いていると一人の時より余計に人の視線を浴びているような気がした。しかしタジマの今のこのルックスならそれも納得がいくというもので、あまりさっきまでのような落ち着かなさは無かった。

「なーんか、変な感じだねー、カーストのトップと最下層が休日に出かけてるなんて」

「前も言ったけど、別に俺はそんな偉いやつじゃないって」

「いーや、君はねー、自分で気づいてないだけで実際すごいやつだよ。言ってあげよっか、どこがすごいか」

「いいよ別に。あんまりうれしくないから」

「キタザワくん、マジで誰にも分け隔てなくまっっったく同じ対応するじゃない? かといってじゃあ誰にでも優しいのかっていうとそうでもなくて、誰にでも、なんつーか、普通よね。すごくフラットに話す。フランクじゃなくてフラット。だから善人面してるなっていう嫌悪感もなくて、単純にカラッとしてんな、いいな、って思う。そこかなりすごいと思うよ」

「結局言っちゃうのかよ」

「はは。別に私だってキタザワくんを喜ばせるために言ったわけじゃないし。ただ言いたかったから言っただけ」

「そうですか……」

 駅に着くとタジマは一直線に都市部へ向かう路線の改札へ向かった。「足が向いただけ」と何食わぬ顔で言う。俺は拒む理由もないので当然のようにただついていった。ホームを下りると既に電車は来ていたので真っ直ぐ乗り込む。車内には人がほとんどいなくて、ほぼ貸し切り状態だった。ドアの横の優先席でうとうとする老人が昼の光を浴びて輝く様が今まさに昇天中のように見えて少し面白い。正直なところ、もうどこかへ無理に行かなくてもいいとすら俺は思っていた。このままこの穏やかな時間を楽しんでいたいという思いが芽生えていた。だがそんな俺の気持ちを逆張りしたかのように、タジマは窓外の景色が賑々しくなってきた辺りで「そろそろ降りようか」と言って立ち上がった。


「なんだこの大都会!? すごいな!?」

 見慣れぬ駅に着くなり大声をあげたタジマから俺あの人とは無関係ですという顔をしてこっそり離れようとした。でも「おい」と後ろから肩をつかまれた。悪びれつつ笑うとタジマは楽しそうに笑顔を返してくれた。やけに長いエスカレーターを上り、改札を抜けようとした時、タジマはしたたか阻まれてしまった。ピンポーン! という音がしたので見ると、彼女のIC乗車券の残高はかなり不足しているようだった。乗り越し精算機にカードを投入して出てきた数字にタジマは面食らう。

「せ、千円? ねえ、これなんかの間違いじゃない?」

「そう思うなら駅員に訊いてみればいいんじゃないか」

「いや、いいよ……片道千円、千円……」

 狼狽えるタジマを横目に見つつ隣の改札機を抜けると彼女は親の仇でも見るような目で俺を見てきた。今更ながら思う。彼女はとてもよく笑い、怒り、時にひどく寂しげな表情をする。俺が知っている人のうちの誰よりも感情表現が豊かだ。なら……と、なら何故という疑問が湧く。何故修学旅行ではあんなにも黙りこくっていたのか。そしてそもそもどうして学校では誰とも話そうとせず、ずっと暗い顔をしているのだろう。さすがにそれは触れてはいけないことのような気がして、訊くに訊けなかった。

 駅を出てからは、目の前に鎮座ましましていた超大型ショッピングモールの魅力に抗いようもなく俺達はふらふらと誘い込まれるように入った。色々見てみたい店はあったがタジマは入場無料のギャラリーで開催中の展示が気になって仕方ないようだったのでまずはそこに向かうことになった。その手の物にはうとい自分でも知っているような名前の画家たちの作品がいくつかと、特集として妙におどろおどろしい雰囲気の絵ばかりが大量に並んでいる空間があった。サラリーマンの生涯賃金ほどの額の絵は一瞥するにとどめて、タジマは特集コーナーに吸い寄せられるように向かった。ここへ来るまでの変な騒がしさはなりを潜めて、ひどく真面目な表情でじっくり一枚一枚隅々まで逃すまいとするように眺めていた。その顔つきは学校での物と同じであるような気がした。彼女の本来の姿はこれなのだろうか。あのおかしいほどの元気さはかりそめの物なのか。絵よりもそればかりが気になってついタジマのことを凝視してしまっていた。それに気づいた彼女は一瞬、心から怯えた顔をした。それからいつものように軽口を叩いて笑った。その時、俺はタジマのことをもっと知りたいと思った。踏み込んではいけない場所の防護柵に手を伸ばすきっかけはそこで生まれてしまっていたのだ。

 それぞれ自分の見たい物をじっくり見た後、時間もちょうど良かったので食事をすることになった。フードコートというのも味気ないので別の場所へ行こうと提案するも、別に構わないと言うタジマの言葉の中に「むしろここがいい。ぜひここにしろ」という言外の圧力を感じ取り、騒がしい人の隙間をぬってテーブルについた。何を話したものかと決めあぐねているうちに呼び鈴が鳴り、また互いに別々の方向へ歩き出した。戻ってくると席には家族連れが陣取っていた。先にこの状態を見ていたらしいタジマは俺を見ると不安そうにどうすべきか無言で訴えた。なんとか目で方向を示し、俺はラーメンを、タジマは焼き魚の定食を抱え、重さでプルプル震える腕を酷使してやっとの思いで席にありついた。アイスクリームショップの目の前だった。甘い香りがする中しょっぱいスープを味わうのはなかなか不思議な体験だった。行列の大部分を成す、制服姿でやたらめったら大声を張り上げて喋る少年少女たちがどうしてかひどく幼く見えた。自分達とそう年は変わらないはずなのに。

「キタザワくんは卒業したらどこの大学行くの」

「そーなあ、って、大学行くことは確実だと思ってるのか」

「確実でしょ」

「確実だけど」

「やっぱ関東? っていうか、東京、とか行きたいと思う?」

「それは思う。漠然とだけど、東京はいつか必ず行くことになる場所なんだと昔から思ってる。タジマはそういう感覚ないのか?」

「あー……あれ、私が東京出身だって話キタザワくんにしてませんでしたっけえ?」

「し、てない。え、タジマってそうなの!?」

「うん、そーおなんすよおー。わったっしいー……まあ、そんな自慢できるようなことでは全く無いけど実際。中学までは向こうにいたんだよね。……いいと思うよ。東京の大学行って、オッシャレな彼女作っておきながらサークルの女子片っ端からゴチになれば……ごめん何言っちゃってるんだろ」

 今日のタジマは良い意味でもいつもと違うが悪い意味でもやはりいつもと違っている。達観した少女という顔と学校での何を考えているのか分からない不気味な女の顔が入り乱れる。助けたいと思ってしまう。どちらが真実にせよ、どんな時も演じてしまわずに、そのままのタジマでいられるようになってほしい。エゴでしかないことには気付いていた。それでも俺はもう言わずにはいられない。

「タジマ」

「……何でしょう」

「タジマはもっと自分を出していいと思う。今みたいに喋ってる途中で謝ったり、あと学校でもあんなに縮こまる必要ないんだぞ? こう言っちゃなんだけど誰もタジマのことなんてあんまり気にしてないんだから。ノーミソからっぽ連中の中じゃあ浮いてしまうことを怖がってるのかもしれないけど……」

「ちょっと! ごめん、ちょっと一回黙ってもらっていい? ごめんね……あ、ごめん……」

 突然タジマが大声を出したことでアイスクリーム屋の行列のうち数人がこちらを注視した。気まずい空気が解けぬまま俺たちはそれぞれの料理を食べ進めた。味がしないとか喉を通らないとかそんなこともなく、いりこダシの良く効いた醤油ラーメンはとてもおいしく腹に溜まっていった。食べ終えてさりげなく見ると、一足先に食事を終えていたタジマはいじけた子供のように俯いたまま固まっていた。

 片付けるか、と俺がタジマへ言うともなしに言うと彼女は俺の後に続いて席を立ち、和食屋へ食器を置きに行った。このまま後味悪く別れ別れになってしまうのが怖くて、人込みをかき分けてタジマの下へ急ぐも、本格的に混みだした中ではなかなか思うように進めない。そんなとき、思いもよらぬ相手が目の前へ立ちはだかった。

「……ユウゴ。なにしてんの」

「あっ? あ、ユウナ……」

 今このタイミングでは会いたくない人物の中でも頂点に君臨する存在だった。最近疎遠になっている、というか自分から疎遠にしている恋人が俺を見ている。

「だ、誰かと来てんの?」

「うん、リンとか、みんなと……え、ユウゴひとり?」

「あ、や、あー……」

 どうする? ひとりだと言ってしまったら彼女等と合流することになるだろうし、タジマと一緒だと言えば瞬く間に噂は広まるだろう。いやそれ以前にユウナがブチギレる。きょろきょろと周囲を見回しながら考えていると、背を向けて足早に去ろうとしているタジマの姿が見えた。

「ちょ、ちょっと!」

 ちょっとなんなんだ、とユウナに対して我ながら下手すぎる保留をして走った。このまま別れたらタジマとはもう二度と話せないような気がした。心なしかいかり肩になっている彼女を後ろから呼ぶ。足は止まったが、振り返ることはせずタジマは吹き抜けから見下ろせるようになっている一階を眺めていた。

「じゃあ、また」

 急に振り向いたかと思うとタジマは泣き笑いのような顔でそれだけ言って走り去った。それはかなり本気のダッシュだった。来るな、と言われているようだった。この拒絶感。修学旅行の時と同じ。あの頃のタジマが俺に、そして学校での彼女が全ての人間に向けている明確な敵意と同じものが感じられた。

 放心したようになってフードコートを彷徨っていると、またユウナが眼前に立ち現れた。

「ちょっとこっち来て」

 そう言って腕をつかんでぐいぐいと引っ張り「みんな」が待つテーブルへ連れていかれた。彼女等はまるで陪審員のように見えた。今から俺は裁かれるのだろうか。一体何の罪で。ユウナへの背信か、それとも……。

「今見てたけど、あれタジマさんだよね。ユウゴ、タジマさんと一緒だったの。好きなの、タジマさんのこと」

 彼女の声をちゃんと聞こうと思うのだがなぜか集中しようとすればするほど何を言っているのか聞き取れなくなっていった。喧騒のボリュームばかり上がっていき、ユウナの声はどんどん絞られていった。どれくらい経ってからだろうか。「分かった!?」という泣きながらユウナが放った声が突然耳に入ってきた。なんのことかさっぱり分かっていなかったが「分かった」と俺は言った。念を押すように何度も確かめる彼女に何度も同意を示し、クラスメイト達と別れてユウナと二人で帰った。彼女はその日、久しぶりに俺の家に泊まった。ベッドを狭いと感じるのもかなり久しぶりだった。懐かしい寝苦しさに真夜中目が覚めてしまった。異常なほどすぐ近くにあるユウナの顔が目を開くと飛び込んできた。それを見て、かわいい、と思う。記憶の中のタジマと比べてみても断然かわいい。だが次第にユウナは年齢にそぐわないほど老けて見えだした。おばさんと言っていい年にさしかかっている、しかもあまりきれいとは言えないくらいまで劣化した顔に見えた。ぞっとして飛び起きると、彼女も驚いたように目覚め、こちらを見た。

「どうしたの」

「や……」

 どうしたのだろう。どうかしてしまったのだろうか。「外国の映画みたいにしたい」という彼女の希望により裸で寝ていたせいで、ベッドから出ると途端に寒くなってきた。一糸まとわぬユウナはひどく美しかった。彫像のような体を無造作に見せびらかすようにしている彼女のことを俺は好きだ、と思う。これは愛というやつなのか。それともただの性欲か。良く分からない。またタジマの顔を思い出そうとしてみたが、なぜかひどくぼんやりとして、系統が似ている芸能人の顔に置き換えられてしまった。


 それが起こったのは冬休み前最後の授業中だった。教室内の生徒のうち約半数がストーブの暖かさと世界史を担当する教師の催眠術師のような声に誘われて快眠に耽っていた静寂を打ち破るように、空から降ってでも来たかのような爆音の笑い声が轟いた。その場の誰もが耳を疑い、次の瞬間には後ろを振り向いていた。窓際最後尾の席で、見たこともないような満面の笑顔を炸裂させて大声を立てていたのは、タジマだった。あまりの異様さに教師も注意したものか決めかねて少し恐れてすらいるように見えた。

「馬鹿馬鹿しいな! 馬鹿みたいだなこれ! あはははははっ!」

 SFスリラーで異星人が大口を開けているときのような怖さがあった。今にもそのぽっかり空いた暗闇から新たなクリーチャーが飛び出してくるのではないかと思ってしまえるほどの不気味なまでの口の開け方で彼女は笑っていた。何とかしなければいけないと感じた。そして何とか出来るのは自分しかいないという確信があった。無言で立ち上がり、タジマを無理やり立たせて教室を出た。茶化す声もどやしつける声も何も無かった。ただただ教室は静まり返っていた。

 大丈夫、休みが明ければ皆忘れてる、だとか、あとほんと少しの辛抱だ、とかいろいろ頭に言葉が浮かんでは消えていった。そのどれもが特別言う必要もないものに思えて、ひとつとして声にはならなかった。むしろ逆にさっきのタジマの声が脳内で反響した。馬鹿馬鹿しいな、馬鹿みたいだなこれ。彼女の下へ行ったとき、タジマの机には今どき古い手法だがありとあらゆる侮辱の言葉が色とりどりに刻まれていたのが見えてしまったのだ。

 旧校舎に続く渡り廊下で足が止まった。あの夏の日、苦々しい後味だけが残ったあの別れ以来、久しぶりにタジマと二人になった。天井も壁もないここは上着も何もなしでいるには寒すぎるが、あまり気にならなかった。この世の終わりみたいに夕陽は燃えていた。

 いまだかつてそんなことは考えたこともなかったけれど、ここ、この高さから落ちたら死んでしまうのだろうかと思って下を覗いてみた。たぶん死ぬだろうなと思った。だが別に死にたいわけではなかった。ふっと、気になっただけ。

「キタザワくん!!」

 タジマが呼ぶ声が聞こえたし、驚く表情が見えた。ハッキリと。死にたいわけではなかったんだ本当に、ただふっと、気になっただけ。

 一旦木に引っかかったのを覚えている。あれ? と思った一瞬の後すぐ思い切り地面に叩きつけられたのもちゃんと覚えている。でもそれからの記憶が全くない。気が付いたら真っ白い部屋のベッドで寝ていた。起き上がろうとして全身に激痛が走ったのにびっくりした。体のあちこちに包帯が巻かれギプスで固定されている上、点滴が刺されているのを見て自分がいるのが病院らしいことが分かった。贅沢にも一人部屋なのがありがたかった。そんなに大変な状態だったのだろうか。最後の記憶と全く変わらない夕陽は遠く窓の向こうで煌々と照っていた。

 ドアが開いても誰が入って来たのか確かめようとは思えず、外を眺め続けた。やがて視界をふさぐようにその人は俺の前に立った。電気のついていない部屋で、目が覚めてすぐで、朦朧とした頭で、逆光になって顔が見えない相手に語り掛ける。

「ひとりじゃないんだって教えたかったんだよ。なんにも喋らないでいたくて、周りが馬鹿に思えて、皆大嫌いで皆も自分のこと大嫌いだと思ってる、って、思ってるのはおま、君だけじゃないって教えたかったけど、分かんなくて、やり方。一緒に嫌われ者になることもできないから俺は。それで……」

 人違いしてないことだけを祈って、見覚えのあるシルエットに、光の手前へ話し続けた。

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