シガーレス・ハピレス

狛犬えるす

シガーレス・ハピレス

 煙草をんで、美味しいと思ったことは一度もない。

 それでもかれこれ、三年はずっと吸みっぱなしだなと、私はまた絡まったタイプライターのハンマーを直しながら思う。

 なぜそんなことを思ったのかと自分に問いかけてみるが、自分と言う奴はいつもなにを考えているのか分からないものだ。


 必然的に、なんでそんなことを思ったのかについても、なぜどうしてそんな考えが浮かんだのかも、なにも分からない。

 ただ、その原因についてなら、自分という奴も私もよく知っている。よく知っているから、まあ、思い出したくないのかもしれない。

 絡まったハンマーを直し終えて、私は再びこの旧式の良い所の小型タイプライターのキーを叩き、ベル音を聞き、改行する。


 紫煙をすぅっと肺まで染み込ませ、薄くなった煙をふぅっと吐く。

 タイプの手を止めて煙草の灰を落とし、再びそれを口の端に咥えては、紫煙を吸い込み、吐き、ベルが鳴る。

 改行、タイプ、吸って、吐き、タイプ、灰を落とし、ベル、ここで改行は気に入らない、タイプ、改行。


 頭に浮かんだ情景を文字に変換し、そこに人物を落としこんで、失敗し、用紙を捨て、新たにセットする。

 そうこうしている内にまた灰を落とさなければならなくて、面倒だからと新しい煙草に火をつけて、口に咥えながら作業に戻る。

 右手にはお気に入りのマグカップがすっかり冷えた珈琲をなみなみに湛えており、湯気が出るくらいの温度が好きな私を幻滅させる。


 ずれ落ち気味の眼鏡を中指で押し上げて、ポケットから懐中時計を取り出し、時間を確認すると、さらに現実までもが私を幻滅させた。

 あれほど書けない書けないとベッドの中で眠れず、眠れても筆不精を呪われる悪夢にうなされていたのに、かれこれ四時間も作業に没頭していた。

 その四時間のために失ったものは大きい。なにせ|また(・・)禁煙に失敗したのだ。



「………ああ、くっそ」



 苛立たしくて腹立たしくて、つい癖で頭をがりがりとかくと、今度は前髪が目に入ってちくりとした。

 まったく、いったい誰のために伸ばした髪なんだかと、自分がくすりと笑うのを感じて、私は紫煙を思い切り吸い込み、



「ごぉっふぇっ……げは、ぉぇっふ……」



 盛大に咽る。

 吸い慣れたとは言っても、タール一八ミリグラム、ニコチン一.二ミリグラムはライトやミントが幅を利かせる現代ではかなり重い部類に入る。

 たしかに、古い銘柄はこれくらいの重さがあるが、それでもそんなにパカパカと吸っていられるものじゃないと思う。


 少しばかりくらくらしてきたかもしれない、と、私は煙草を灰皿において、一息つく。

 タイプに集中した身体は自然と猫背になっていたのか、肩が非常に硬くなっていて、腰も石になったような感じがした。

 一瞬だけ、筆不精が極まって不摂生になって、寝不足と喫煙飲酒と破綻した食生活で死ぬ未来が見えた気がする。


 さて、なぜそんなになってまで煙草を吸んでいるのやら。

 原因は私の元彼だ。元彼というのは結婚まで至らず、付き合い交際していたという意味での彼だ。

 彼の吸っている煙草の匂いが私は好きだった。匂いフェチとは違うと思いたい。


 煙草の名前は【アークロイヤル】と言って、バニラの匂いのする煙草だった。

 私はその匂いが好きで、一本貰って吸ってみたこともあったのだが、そのときも思いっきり咽てしまったいた。

 この煙草はパイプ用の煙草を使っていて、他の煙草よりもバニラの香りがかなり強い。


 他にも紅茶や珈琲といったフレーバーがあるのだが、やはり私はバニラの香りが好きなのだ。

 だから、だからまあ、彼がいなくなった後も、私はその香りを自分に染み付けるように、煙草を吸っている。

 それがおそらく、もっとも強く記憶に残っている彼の匂いだから、なのかもしれない。


 天井まで昇っていく紫煙をぼんやりと眺めながら、私は髪を書き上げて、物語を考える。

 それは私ではない。私以外の女が旅をしていて、旅先で男と出合って、恋に落ち、関係を持って、なんだかんだで結ばれる。

 男は煙草も吸わないし、酒もきっと嗜む程度だろう。今の時代はそういう方が理想とされているのだろうし。


 でも、私は。

 煙草を燻らせて、ダブルのロックグラスにミストでアイリッシュ・ウィスキーを飲む男が。

 古臭いものが大好きで、なかなかエンジンが掛からないとバイクのキックスターターを何度も踏み込む男が。


 寡黙で、なにを考えているのか分からなくて、老け顔の男が。

 時代がなんと言おうとも、誰がなんと言おうとも、変わらず、絶対に変わらず、私はその男を愛していたんだ。

 だから、後悔している。


 結婚してしまえば、一生、それこそ書類上であっても、彼との痕跡を残せたのにと。

 酷い女だなと、私自身も思っている。

 これじゃまるで、愛しているから一生の傷跡を残そうとするようで。



「………ウィスキーが飲みたいよ、ダブルの、ミストで」



 溜息を吐いて、私は煙草を灰皿に置き、タイプライターを打ち込む。

 いくつかのハンマーの文字が歪んでいたり、ある特定の順番で打ち込むとハンマーが絡まりやすかったりするが、これも彼のものだ。

 愛着がある。愛がある。使っているだけで私は満たされる。


 改行、タイプ、吸って、吐き、タイプ。

 灰を落とし、ベル、ここで改行は気に入らない。

 タイプ。


 改行。

 タイプ。

 吸って、吐き、タイプ。


 紙面に踊る文字の人物は、やっぱり、私でも、彼でもない。

 煙草の優しいバニラの香りに包まれながら、私は世界を描いていく。

 そうして、幸せな世界を、終わりENDの三文字とピリオドを打つまで、タイプするのだ。


 ベル。

 改行。

 タイプ。


 私は煙草を吸って、吐く。

 心地よい香りと匂いの中で。

 美味しいと思うことはなく。

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シガーレス・ハピレス 狛犬えるす @Komainu1911

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