第38話 歯車
「心なんて重要じゃないわ。もっと言うのなら人間なんて碌なものじゃない。くだらない価値観で自分と他人を区別して、自分が傷つかないようにするばかり。他人が傷つこうがお構いなしで、いとも簡単に差別する。そんな存在は滅ぼすべきなのに、『アヤメ』は優しすぎるから誰も殺せない」
宮下アヤメは苦悶の表情を浮かべながらも、どこか、うすら寒い笑みを見せている。
誰にだって彼女の気持ちはわかる。彼女はFAが嫌いなのではなく、それを差別する人間が嫌いなのだ。だけどそんな人間を殺すことは出来ないから、その代わりにFAを規制する……それが彼女の妥協というやつらしい。
しかしそれはあまりにも自分勝手だ。
「僕たちは差別にも耐えて生きてきた……」
思ってもいないことを口にする僕自身に一番驚いたのは僕だろう。だからこそ、彼女にも僕の嘘は簡単に見破られた。
「嘘。あなたは逃げただけだよ。恐ろしいことやつらいことから逃げ、今までなあなあでやってきたというだけ」
「そうだ。僕は家族から逃げた。逃げることで耐え忍いで来たんだ」
今度は開き直ってみる。逃げることで耐えしのいだとはよく言ったものだ。逃げるという言葉と、耐え忍ぶと言う言葉は全くもって正反対だろう。逃げている時点で耐え忍んではいないのだが、それが僕に言える唯一の強がりだった。それだけ余裕がなかったということなのだが、自分でも呆れるほどに矛盾している。
しかし彼女、宮下にとってはそれこそどうでもいいことなのだろう。
「あっそ、だけどそれは私には関係ないでしょ。あなたの自己満足に過ぎないのだから」
宮下は悪態をつきつつ、なんとなく険しい表情をした。いやもしかしたらそれは僕の勘違いだったのかもしれないが、彼女は自分の言葉に違和感があったのだろう。
当たり前だ。人間はすべて自己満足で行動する生物なのだから、僕の行動だって、宮下アヤメの行動だって自己満足にすぎない。そこにどのような崇高な理由があったとしても、根底は自己を構成する最も重要なことなのだから。
だから僕は思い切って口にした。
「お前だってそうだろう」
「そう、これは『宮下アヤメ』が自己満足で始めたことで、自己保身のために終わらせようとしていること。だけど『良心』が抜けた今は、やめるつもりもないし、それ以上だって考えている」
彼女は先程僕に言った言葉をわすれてか否か、開き直るように笑ってみせた。
「それ以上?」
不気味に笑う宮下アヤメは、何を考えているのかわからない。
『それ以上』とは一体なんのことを言っているのか、それは彼女の口からすぐに伝えられることとなった。
「FA以外の人間が優遇されるなんておかしいでしょう? だから代わりに私たちがすべてを支配する。これからはFAが恐怖することも、耐え忍ぶ必要もない。私たちの時代が始まるのだから」
彼女は明らかに自意識過剰だ。そんな『時代』が始まるわけがない。
僕にとっても、彼女にとっても、先輩にとっても耐え忍ぶ時代は終わらない。だがそれは人類全体にとってもそうだ。それを何とかするよう動けばあるいはどうにかなるかもしれないが、自分たちだけのために動くや奴らに誰がついてくるだろう。そんなことは誰にでも理解できることだろうが、それを言葉にするには僕のボキャブラリーは多くない。
ここは僕よりも適任である先輩に任せるとしよう。
「それは違います。FAがすべてを支配する時代なんて、今もこれからも一生訪れません。私たちが人間の一員として世界を良い方向に進めていくのですから!」
いつになく先輩は熱く語る。
だがそんな演説すら、宮下アヤメにとっては心打つものではないらしい。彼女は先輩を馬鹿にしたようにわらい、論破してかかる。
「今のこの状況でどうやったらそんなことができる。あたしたちともわかりあえないのにどうやって人間とわかりあうっていうんだ?」
「わかりません。ですが答えはこれからいくらでも見つかるでしょう」
「残念だけど、あなた達にこれからなんてないわ。だけど、そうね、私たちが代わりに答えを見つけてあげるから大丈夫よ」
僕や一之瀬を無視して、二人の言い争いはヒートアップしていく。
「そうはなりません!!」
「今の状況を見て、どこから自信がわいてくるんでしょうね……能力で勝てない相手に、自分の意見が通るなんて学生だけよ」
ようやく僕が口を挟めるようなミスを宮下が犯した。
「僕たちは学生らしくなくても学生だ」
こんな揚げ足を取ったところで状況が変わるわけでもないが、これ以上二人を放置してもお互いの主張は変わらないだろう。とはいえ、心の昂ぶりに任せて言いたいことを口にしただけだとも言える。
そんな僕の心の内部をのぞいて、宮下は僕を文字通り見下して蔑む。
「だからなに? 学生は制服を脱げば一人の人間よ。高校に行かなかった人たちと何も変わりもない、ただ単なる社会の一員に過ぎない。いえ今は私に踏まれているただの男ね」
「くそっ……!」
残念だが、何も言い返せそうにない。
僕たちはどのような状況でも守られると甘えている。だが現実は違うだろう。
中身がいくら甘い学生のままだといっても、見た目は子供から大人へと変わり制服を脱げば大人と見分けがつかない。いや実際のところ、精神が成長していない僕たちが大人に見られているなんて思い上がりかもしれないが、それでも大人か、子供かわからない人はいるだろう。
何も言い返せない僕とは違い、先輩は大きく息を吸って言葉を吐き出した。
「誠君はそこいらの男とは違いますよ。誠君は勉強は全くできないし、いたずらばかりするし、頼りないです。当たり前ですが人を導いていくようなリーダシップも持ち合わせてはいないでしょう……だけど違う。あなたとも私とも、他の誰とも違うんです。人間はみんな同じにはなれないし、『ただの男』なんて存在しません。社会に歯車なんてありませんし、それを回すための潤滑油なんてものもありません。そんなものがあるとしたらそれは社会ではなく、その状況を作り出した人にとって都合のいいだけの『会社』です」
「当たり前のことをいう……私たちは誰かの歯車として生きている。だからこそ心なんてものは邪魔でしかないでしょ? でも私たちは自分の心を持たない。つまり歯車なんてものにとらわれることもなく、歯車を演じることが出来る唯一の存在だ」
宮下の思想はだんだんおかしくなっているように思える。言っている言葉の意味は分からないし、支離滅裂というべきだろう。
それというのも、彼女に心なんていうものがないからとでも言うのだろうか? いやきっとそうではない。
心というものは不自由なように見えるが、この上なく自由だ。だからこそ、多種多様な考え方の人間がいるし、その考え方だって柔軟に変えることができる。
僕と最初に話した時に宮下アヤメは言った『心ってどこにあると思う?』と、それこそ人によって考え方は変わってくるし、実際に僕とあの時の宮下アヤメはまるで別の見解を持った。その時こそ、僕は心なんてものに興味すらなかったが、今となっては考えさせられる題材だろう。漫然として生きてきた僕にとっては、彼女との最初の会話は人生の分岐点となった。
しかし今ではどうだ? 目の前に立つ宮下アヤメは彼女の言う主人格『アヤメ』の心における悪い部分でしかないと言う。全く持って支離滅裂だ。
思わず僕は大きくため息を吐いた。
「心はどこにあるんだっけ?」
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