第37話 心

――数時間後


「誠君、気を付けてください!」

 先輩の声が僕の耳に入るよりも早く、一之瀬の見えない拳は容赦なく僕のみぞおちに入り込む。

 逆流しそうな胃の中身を何とか抑えながら、僕は相手の動きをできるだけとらえられるように努める。しかし、痛みの中で集中力も絶え絶えなただの学生にとって、それはとてつもなく難しいことのように感じられた。

 彼女はあれ以降、刃物を使わなくはなった。だが、僕の反応速度を上回る攻撃に少しずつ辟易している僕がいる。

「……こうなると思い知らされますね。いかに自分が普通の人間であるかということを」

「冗談言ってる場合じゃありませんよ! このままじゃ、私たちだって被害者になりかねません」

 あれから幾度となく繰り返された攻撃を、なんと耐えながらも、反撃の機会をうかがってきた。それが出来たのだって、相手が華奢な少女だからだ。攻撃に重みがないから出来たことなのだ。だけど、それもついには限界の時を迎えようとしていた。

 たとえ、非力な少女の拳であったとしても、僕は鍛えているわけでもないし、物理的攻撃に耐性があるなんてこともないからかなり効く。だがしかし、いま彼女の拳が僕だけに向いている今だけなら反撃のチャンスがある。なぜなら、僕は彼女の攻撃の違和感に気がついていたからだ。

 僕が気づくようなことに、先輩が気づかないわけがない。これは先輩のことを信頼しているから言えることではない。僕が僕のことを信頼していないからこそ言えることだ。――僕ごときがわかるぐらいだから誰にでもわかると。

 だけどもしも先輩が再起不能になれば、僕だけで立ち向かうことは不可能だろう。僕なんて戦闘面においてはかなり非力で、もやしだと言われても反論することすら出来ないだろう。

 だからこそ、先輩の言うとおりだ。反撃するならいましかない。


「先輩、そろそろいいですよね?」

 

 宮下の相手で忙しそうにしていた先輩に声をかける。 

 先輩は少しだけ宮下から距離をあけ、僕の目に映るぐらいの位置で小さくうなずいた。

 反撃の狼煙だ。今こそ、僕たちの本領が発揮される時だ。僕は目にも留まらない速さで撃ち込まれる一之瀬の拳を止める。やはりスピードが速いというわけではないらしい。通常目に見えないほどの攻撃を受け続けていたら、僕の体は粉々だろう。耐えられるはずもない。

 そんな僕を見て宮下が笑い始める。


「『無駄』って言う言葉を知っている? 一之瀬の力を何度も味わったあなたならわかるでしょう? 彼女はこんな力だけで、誰にも見つかることなく罪を犯し続けてきた」

 宮下の言葉に真実身を加えるために、一之瀬が続ける。

「あたしが知る限りはそうだね。精神破綻者が何を考えて、何のために人に暴力を浴びせ続けたのかはわからないけど、この女は壊れた心のままで、それでも誰にも気がつかれなかった。そんな中に健全な心の私が入ったんだ。誰にも止められるわけない」


 僕が見るに、二人は慢心しているというわけではないようだ。一之瀬という少女の力を信頼している……と言った方が幾分か納得できるだろう。

 しかし、それにしては宮下はあまり嬉しそうではない。

 やはり僕の考えは当たっているみたいだ。僕は自分にそう言い聞かせて、一之瀬に問いかける。


「弱点があるんだろう?」


 一之瀬は僕に攻撃するたびに距離をとるが、それはなぜだろうか。考えれば簡単なことだろう。彼女は助走をつけていたのだ。誰が見たって僕が致命傷を負わなかったことは不自然だ。

「弱点……それは違う。それだって利点の一つに過ぎないということだ」

 彼女は隠すつもりなどないと言った風にあっけらかんとしている。

「そうかな? だったらもう一度やってみるといい」


 僕の子供じみた挑発に乗った一之瀬が、面倒くさそうにため息を吐きながら自身の能力を披露して見せた――はずだった。

「……やられたね」

 一之瀬はいつの間にか背後に回って自分の腕をつかんでいた先輩の方をちらりと見る。それを見た宮下は面倒くさそうにつぶやいた。

「なるほど、私の意識を自分に集めて先輩から視線を外させたってわけね。何かするならあなたの方だと思わせるために……まあ、いいんだけど……めんどうくさいな。彼女はちゃんと言ったはずなんだけどね……それも利点に過ぎないって!! 同じことを何度も言わせないでほしいな……」

 先輩が知りえた情報から推察するに、一之瀬の力は高速移動でも、時間停止でも、ましてや瞬間移動なんかであるはずがない。そんな便利なものではないからこそ、僕を一瞬のうちに屠りさることができない。

 

「それは僕のセリフだ。長所は短所……確かにそうかもしれないけど、そんな都合よくいかないことだってある」

「私が一番嫌いなのは、勝手に解釈されること。そもそも、あなたの言う弱点……短所という言葉自体がずれているのよ」

「何を言ってるんだ?」

「こういうことよ」

 そういうと、僕の丁度十メートルほど斜め後方から僕に向かって走り出していた彼女は突然姿を消した。あまりにも突然のことで、頭が理解できていないタイミングで、先輩が何やら大きな声で何かを言ったのが聞こえた。


「誠君! 後ろ!!」


 その言葉の意味を理解する前に、僕は背中から衝撃を感じ、バランスを崩して前のめりに倒れ込んだ。

 一体何が起きたのか、それを考える必要はなかった。

「くっ……! そうか……確かに、大きな利点だ。だけど、本当に良かったのか?」

「何が?」

「私たちにそれを見せてもいいのですか?」

「ふん、いいんだよ。あたしの力は理解しても意味のないものだから」

 なるほど、確かに彼女の力はかなり驚異的なものだ。二対一ならまだしも、二対二だと一人に対して集中することができない。僕に力がないからだ。


「空虚な人生において、心はどんな役割を果たしてくれるのかしら……それはきっと碌でもないことで、そしてこの世で最も重要なこと。だけど力のある者にはそれがわからない……力に心を飲まれるからね」

 倒れ込んだ僕を見下ろして、宮下が言った。

 それに対して、僕はすぐに反論できる。

「誰もがそうじゃないだろう……っ! 力を制御できる人間だっているはずだ。先輩のように人を助けるために力を使うことができる人だっているんだから」

「ふふ」


 僕の返答に宮下が笑う。まるでくだらない妄想を一笑するような、馬鹿にした笑いだ。


「何がおかしい!?」

 僕は思わず叫んだ。しかし、彼女はそれを意にも解さない。

「先輩が他人を助けるために力を使っているねえ……まあいいわ、百歩譲ってそうだとしましょう。だけど、人を助けることが人のためだって決まっているわけじゃないでしょう?」

「何が言いたい?」

「もう一度聞かせてもらうわ……心ってどこにあると思う?」

「支離滅裂だな」

 まるで会話にならない。彼女の頭がおかしいとか、そういったことではなく、そもそも考え方がちがうみたいだ。


「いいから、あなたなりの答えを教えてよ」

「そんなことどうでもいいだろう?」

 僕の答えに納得したようで、宮下は満足そうに早口で喋り始める。

「そう、どうでもいいの。だからこそ重要なのだけど、それだって、普通の人間にとってみれば知ってようが、知らなかろうが人生において何ら影響はない。『心ここにあらず』なんていいながら、本当の意味では『心』なんてどこにあろうがお構いなし。普通の人間にとって『心』なんて『意識』のことに過ぎないから」

 それに続けて一ノ瀬が口を開いた。

「でも、あたしたちにとっては――」

「違う。意識はきっかけにすぎず、心がなければ何もすることは出来ない。だからこそ、私は脳に心は宿ると思った。だってそうでしょう? そうじゃなければ、私は、あたしは、俺は……いくつも心を持っていることになる。それは現実的ではないでしょう? 一つのものにいくつも心があるなんておかしな話、だけど、すべてが同じというのなら何らおかしなことはない。ゆえに、私たちは宮下アヤメから生まれた『意識』の一つに過ぎない。だからこそ、宮下アヤメの意思を尊重しようとするのでしょうね」

 宮下と一ノ瀬があらかじめ示し合わせたかのようにそう言い切った。

 確かに、二人の言い分はまるで理解できないというわけでもない。だが、僕の考えとは違う。


「どうして人がいくつも心を持ってちゃいけないんだ?」

 僕の問いかけに、宮下と一ノ瀬は続けて答える。

「あなたにもわかるでしょう? 人というのは他人とすべてを共有できるようにはできていない。あなたは先輩のことをかなり信頼しているようだけど、自分のすべてを常に知られ続けることを我慢できるはずないでしょう? 私にだって無理よ」

「だけどあたしたちはずっとその状態だ。あたしたちはみんな同じだからね」


「嘘つきだな……同じだなんて全く思ってもいない癖に」

 根拠もないのに僕はそう呟いた。確信は無くとも、僕の感がそう言っている。

「私が嘘をついているかどうかわからない癖に」

「わかるさ、お前たちが嘘つきだから、宮下アヤメの本体はお前たちから離れたんだろう?」

「わかってないわね。やり方は違っても、私たちは同じ目的を持っている……それだけのことよ。あなただって、目的を果たすためにいくつもの手段を持っているでしょう? 片方が悪いやり方で、片方がいいやり方だったとして、どちらか迷うでしょう? 結論は近いようだけど、私たちも迷っているだけということよ」

 宮下はいかにも正論らしきことを言う。

 だけど、彼女は一つだけ勘違いをしているようだ。僕がそれを指摘しようとしていたところで、先輩がようやく口を開いた。


「おかしなことを言いますね。人というのは迷っているうちは行動に移さないものですよ」

「普通の人間はね。だけど、私は悪い部分で、本体が良い部分と言えば分るでしょう? 良心の呵責というやつ? それが私たちを邪魔している」

「なるほど、つまりあなたは心の中で最も悪い部分というわけですね。だったら、どうしてこんな遠回りをするのでしょうね? あなたに良心というものがないというのであるならば、手段は選ばないでしょう。なのに、どうしてでしょうね?」

 反論する宮下に対して、先輩は優しく教え子に教育するかのように質問する。


「何が言いたいの?」


 先輩の言い方が気に入らなかったのか、宮下は殺気走った目で先輩を睨みつけている。

 しかし、臆することもなく先輩は続けて言った。

「わかっているでしょう。あなたが心の一部じゃないってことぐらい……心というのが本当はどういう物なのか」

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