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 午後10時過ぎ、4階建てのマンションの脇でタクシーを停める。岸元は車から降りた。マンションの玄関で住所表示を確認する。スナック「絵麻」のママから聞いた通りだった。茉優の住居に間違いない。

 岸元は階段で3階に上がる。303号室が茉優の部屋だった。ドアに表札はない。小さな音でドアをノックする。ドアがすぐ開き、うっすら無精ひげを生やした男が顔を覗かせる。相手はうさんくさそうな眼で岸元を見た。

「お宅、誰?」

「あの・・・岸元と言います。五十嵐茉優さんはおられますか」

 男が口を開くより先に奥から若い男が出てきた。

「村本さん、その人はこちらで対応しますので」

 男は玄関に置いてあった革靴を履き、廊下に出て設楽に敬礼する。立ち振る舞いから自衛官だと分かり、岸元も慌てて答礼する。男は日村と名乗る。階級は一曹で設楽についている情報本部員だという。2人は立ち話を始める。

「岸元・二佐はこんなところでどうされたんですか?」

 岸元はとっさに嘘を吐いた。

「スナック『絵麻』のママさんに頼まれて様子を見てきたんだ。音信不通になってから5日経ってるというからさ。今の人は?」

「道警の公安部から来た刑事です」

 岸元は訝しげに眉をひそめる。

「公安部?警察に失踪人届を出したとは言ってたが、公安はお門違いだろう。まして市谷なんか尚更だ」

「ちょっと訳ありなんです」

 場末のスナックに勤める若いホステスに市谷がどんな関心を持つというのか。岸元は脳裏に疑問符をいくつも並べながら問い続けた。

「部屋から軍事機密でも見つかったのか?」

 日村は首を横に振った。

「そういう物は見つかってないです」

「茉優さんの行方は?」

「いま調べてる最中ですが、有力な手がかりは何もありません。そもそも部屋に生活感がまるで無いんですよ」

 玄関から顔を出した村本が「ちょっと」と声をかけた。日村はいったん部屋に戻った。3分ほど経った後、部屋から出てきた日村は心なしか顔が青ざめていた。

「ここにいるのは、マズいですね」

「どうして?」

 日村は岸元を階段に促した。

「風呂場に血痕がありました。単なる失踪じゃないかもしれません」

 2人はマンションを出る。日村は駐車場に停めていたシルバーのセダンに近寄り、岸元に乗るようにすすめた。日村は運転席、岸元は助手席に座る。日村は岸元がドアを閉めた途端にアクセルを踏んだ。暗い街中に滑り出した数分後、遠くにサイレンの音が聞こえる。

「いい加減、市谷が五十嵐茉優を探してる理由を教えてくれないか」

 日村はうなづいた。10分ほど車を走らせた後、空いているコインパーキングに停めた。後部座席からバックを取り出し、ノートPCを起動させる。

「私たちはある空自隊員を探してます。その隊員は五十嵐茉優と付き合ってたのは分かってましたから、あの部屋に行ったんですが・・・」

「その隊員というのは、安土・一曹のことか」

 日村はうなづいた。

「安土から聴取したのか?」

「一曹の行方も分かってないんです」

「身内に不幸があったと聞いたが」

「それはウソでした。彼の両親や親戚は秋田に住んでますが、葬儀どころか入院の話も出てません。心当たりをいくつか教えてもらいましたが、全て空振りです」

「君たちが2人を探してる理由は?」

「これを見てください」

 日村はPCのディスプレイを岸元に向ける。街頭に2人の中年男が立っている写真が表示されている。画質は粗い。離れた場所から隠し撮りしたような感じだった。黒い革のジャンパーを着ている男のバストアップに拡大する。

「これが安土です」

 岸元はうなづいた。次に安土と映っている男の拡大画像に切り替わる。髪に白いものが混じり、眼鏡をかけている。痩せているというより貧相な面構えだった。

「この眼鏡をかけた男の氏名は横山勉。本省の職員で入省以来、ずっと内局に勤めてます」

 岸元は顔を上げる。

「安土と横山は何をしたんだ?」

「5年ぐらい前、事務次官が汚職で逮捕された事件があったのを覚えてますか」

「ああ」

 航空機用エンジンメーカーの日本代理店になっている専門商社が長年に渡り、防衛省に対して過大な請求をしていたことが国会で追及されて発覚した事件だった。その余波で、前事務次官が過剰な接待や金品を受け取っていたとして辞任に追い込まれて逮捕された。

「実際、何か便宜を図るにしても事務次官が全て独りで出来るものではないのは、貴官も分かりますよね。彼らは当時から、そうした組織というかネットワークに属している疑惑があります」

「まだ汚職が続いてるっていうことか?」

 日村は首を横に振った。

「いま彼らには、ロシアへの情報漏洩に関与してる疑いがあります。五十嵐茉優も含めて。道警の公安も五十嵐茉優の行方を追ってるのはそういうわけです」

 岸元は少なからぬショックを受けた。

「ロシアへの情報漏洩が分かったのは、どういうことで?」

「五十嵐茉優が接触してる相手です。五十嵐は半年前まで六本木の高級クラブに勤めてたんですが、そのクラブに我々の監視対象が通ってたんです」

 パスポートの顔写真がディスプレイに表示された。ダークブロンドの刈り揃えられた頭部に碧眼。氏名はパーヴェル・エゴロフ。年齢は35歳。肩書は在日ロシア連邦通商代表部の職員。在日ロシア連邦通商代表部は貿易・通商に関する調査や政策立案を担当する政府機関だが、エゴロフの実態は対外情報庁が送り込んだスパイだという。

「五十嵐がエゴロフと一緒に、狸穴まみあなナンバーの車に乗ってるところも押えてますから、2人はただのホステスと顧客の関係ではないことは容易に予想されます」

「狸穴?」

「車輛番号が77で始まる車。ロシア大使館です」

「エゴロフ何某は五十嵐を通じて何か得たのか?それとも何かを得ようとしてる?」

 不意に、車内で携帯端末が鳴り出した。日村は失礼と断ってから電話に出た。二言、三言話した後、電話を切った。

「警察署に行きましょう」

「何があった?茉優か安土が見つかったのか?」

「設楽・二佐から連絡です。千歳基地の自衛隊員が保護されたようです」

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