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 時刻は午後6時を回った頃だった。岸元と岡田は聴取に使用した会議室で人事課から取り寄せた書類に眼を通し、聴取結果を報告書にまとめていた。犬飼の聴取内容を見直していた岸元はふと書類から眼を離して、眼頭を強く揉んだ。眼を閉じている最中に、脳裏では否応なしに20年前のことを思い出していた。

 20年前―。

 岸元は自家用車で百里基地の衛門を抜ける。「第501飛行隊」と記された看板のかかった隊舎に到着した時は午後11時を回っていた。すぐに2階のオペレーションルームに上がる。岸元とコンビを組む後席員の岩崎辰治・一尉はすでに来ていた。離陸を控えたパイロットと偵察員がブリーフィングをしているテーブルのそばに立っていた。

 この日、第一待機組は岸元と同期の登坂士郎・一尉だった。登坂と組む偵察員は深夜の出動に緊張しているのか、顔を強張らせている。登坂は相棒の肩を軽く叩いて「リラックスして行こう」と声をかけていた。岸元と岩崎が第二待機組だった。

 岸元は窓から第一待機組用のRF-4E《ファントム》が引き出された駐機場エプロンに眼を転じた。RF-4E《ファントム》はF-4《ファントム》Ⅱの機首レーダーを小型化し、そこにカメラなどの偵察機材を積み込んだ戦術偵察機として開発された。駐機場と滑走路の周囲には、すでに煌々と明かりが点いていた。地表の照明が空の暗さを強調しているように見える。

 テーブルに屈んだ登坂が赤鉛筆で、偵察地区への進入方法を偵察員に説明していた。透明なプラスチックのシートが被せた作戦用の地図に波形の紋様を描き、飛行経路や撮影を行うタイミングで速度を書き込んでいった。偵察員がノートに写し取る。

 ブリーフィングは終わった。登坂が立ち上がって岸元を見つめる。肩をポンと叩いてオペレーションルームを出て行った。岸元が声をかける。

「いってらっしゃい」

 登坂が振り返る。ニヤリと笑って頷いた。

 登坂と偵察員が救命装具室でGスーツ、サバイバルベスト、ハーネスなどの装具を身に着ける。ヘルメットを手にして駐機場に出て行ったのはそれから15分ほど後だった。RF-4E《ファントム》に乗り込んだ登坂はエンジンを始動させ、離陸していった。

 オペレーションルームに残った岸元と岩崎はミッションに関わる情報を確認した。気象情報、代替空港オルタネート、使用可能な機体、ミッション中に使用するコールサインなど。確認作業が終わった後はひとまず暇になる。

 深夜待機の時には眠気覚ましとして、オペレーションルームに湯沸かしポットとインスタントコーヒーの瓶が用意される。隊員たちは何杯もコーヒーを飲む。退屈しのぎにコーヒーの濃さ、ミルクや砂糖の量をいろいろ変えてみるが味はあまり代わり映えしない。

 コーヒーを淹れに立った岸元は岩崎の様子を見て口元に笑みを浮かべた。岩崎は折り畳み椅子を向かい合わせに置き、1つに背をあずけてもう1つにブーツを履いたまま両脚を載せて瞼を閉じていた。近づけば、いびきが聞こえそうだった。

 オペレーションルームには、ぼそぼそと低い話し声がするだけだった。後は滑走路に面した窓の上部に取り付けられてあるスピーカーからミッション中の登坂と防空指揮所の無線のやり取りが聞こえてくる。

《〈クイックサンド〉からグリーン編隊フライト0・1ゼロ・ワン

《0・1》酸素マスクの内側でくぐもった登坂の声が聞こえる。

〈クイックサンド〉は第45警戒群―札幌市から北東に20キロほどの位置にある当別町に設置されたレーダーサイトのコールサインである。グリーン編隊フライト0・1が今夜のミッションで登坂たちに割り振られているコールサインだった。

〈クイックサンド〉で当直に就いている要撃管制幹部の言葉には訛りが混じる。どこか間延びして聞こえた。

《えー、0・1はイニシャル・ポイント『チャーリー・ゼロ』でレフトターンし、機首方位ヘディング270ツー・セブン・ゼロ高度3万フィートエンジェル・スリー・ゼロとして下さい。その後、イニシャル・ポイント『チャーリー・シックス』で報告を行って下さい》

《IPC0でレフトターン。270。30。了解。IPC06で報告する》

 岸元は聞くとはなしに耳を傾けていた。登坂が飛んでいる北海道南部はロシアに対峙する北の護りの要所、航空自衛隊千歳基地がある。岸元も何度か飛んでいた。

 登坂機は函館の北側、噴火湾洋上を飛行中だった。左旋回して真西に針路を取って渡島半島を横断するコースを指示されていた。イニシャル・ポイント『チャーリー・シックス』での報告は洋上から陸上に進入したことを告げる『フィート・ドライ』のコールになる。せいぜい2分か3分でそのコールがあるはずだった。

 コーヒーカップに湯を注いでいる内に、岩崎が椅子から転げ落ちそうになる。岸本は思わず吹き出しそうになって、手元が揺れる。熱湯が手首にかかる。短い悲鳴を上げてカップを落とした。

 床に落ちたカップが砕ける。コーヒーが床に広がる。岸元は手近にあったティッシュで床を拭き始めた。ようやくコーヒーを拭い去った岸元は顔を上げる。部屋に妙な空気が漂っていた。ついさっきまで居眠りしていた岩崎が椅子から立ち上がる。険しい顔つきでスピーカーを睨みつけていた。

《〈クイックサンド〉からグリーン編隊フライト0・1、〈クイックサンド〉から―》

 無線が切り替わっても空電音が聞こえるだけだった。登坂機から応答は無かった。岸元は見えない手が内臓に潜り込み、胸の底を強く握りしているのを感じた。眼の前のテーブルに登坂が使っていた赤鉛筆が転がっている。

「三雲・二尉の同期だった中原・二尉ですが」

 岸元は眼を開ける。向かい側に座った岡田が書類に顔を埋めるようにしている。

「どうかしたのか?」

「退官して民間航空のパイロットになってました」

「割愛になってたか」

「割愛?」

「空自のパイロットが民間に転出することを割愛って言うんだ。知らなかったのかい?」

「戦闘機部門はまだ慣れないんです。ずっと高射砲部隊にいたんで・・・」

「ちょっとずつ覚えていけばいいさ。中原氏にも話を聞かなくちゃならないだろうな」

 岡田は手にした書類ホルダーを差し上げて見せた。

「この資料によると、中原さんは新日本航空輸送に勤務しています。羽田から出る国内線を担当しているようですね」

「なら、羽田空港でつかまえるか。まあ近いうちにやろう」

 岡田は中原のスケジュールを押さえるために席を外した。会議室に独り残った岸元は20年前の事件を考え続けていた。

 結局、登坂と偵察員は帰ってこなかった。機体も発見できず、墜落したかも不明。発生状況から考えられることは少なかった。機体に何らかの故障が起きたか。パイロットの操縦ミスか。だが、事故発生直後に登坂がロシア空軍機に撃墜されたという噂が立った。登坂は連絡を絶つ直前、防空指揮所に対して最後の通信を行っていた。

《グリーン0・1、Su-27を視認。左翼に赤い線のストライプが入ってる》

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