いつかあなたに刃を向ける時

第 弐 輪【静寂な月夜に蠢く異形】

　心が不安定ながら家を飛び出し、月が映る水面（みなも）へ石を投げ付けてから、数十分と時が経った頃。

　それでも焦点（しょうてん）が合わないまま、同じ動作をひたすらに繰り返していた。

　桜香（おうか）は、幼い頃から１つの事柄に対しての集中力は常人以上であった。

　熱中しやすく負けん気が強い子と、今でも祖父によく言われている。

　そこが彼女の良いところであり、欠点でもあると祖父は知っていた。

　しかし、孫娘に嫌われたくないのであまり指摘せずにいた。

　だが、その見守るが故の愛情が、後に命取りとなりえる。

　背後に忍び寄る気配に対し、桜香（おうか）は呆然と月を眺めていたせいで、まだ気づいていなかった。

　通常の植魔虫（しょくまちゅう）は、日中の間だけ活発に行動をする。

　よって、夜には睡眠を取る種や動きが鈍い者が多数だが、不幸にも奴らは違った。

〝夜盗虫（ヨトウムシ）〟

　体長は二十cm程の小柄で日中は土の中へ隠れているため発見がされづらい。

人気（ひとけ）の少ない夜中を狙っては、人を襲う植魔虫（しょくまちゅう）。

　寄生が出来ていない灰黒色（かいこくしょく）の芋虫型。

地べたを這いずり回って行動をし鋭利な無数の牙で人へ噛みつく。

　奇怪な見た目は月明かりに照らされた斑（まだら）模様と、不規則に動く無数の脚が徐々に桜香（おうか）へと近づいていく。

　地中から出たばかりで体力のない幼虫は、捕食体勢に入ると、奇妙に体をうねらせる。

　関節の無い上半身を仰（の）け反（ぞ）らせ、桜香（おうか）目掛け噛み付こうとした。

　その時だった――

　何者かが周囲の草花を踏みつけ勢い良く走り抜ける音がした。

　怒鳴り散らしながら草影から飛び出たその者は、長めの小枝の様な物体を夜盗虫（ヨトウムシ）目掛け振り下ろした。

「いやあぁぁぁぁあっ！！　悪（あ）しき者よっ覚悟おぉぉっ！！」

　突如として現れた、祖父である雅流風（がるふ）の破竹の勢いにより、僅かの間だが夜盗虫（ヨトウムシ）の動きは、桜香の頭上寸前で止まった。

　突然の怒声に驚いた桜香は、よろめきそうになりながらも、体勢を立て直しながら口を開いた。

『お祖父ちゃん！！　その刀……！？』

「ふんっ！！　儂とて昔は、〝花の守（まも）り人（と）〟を目指した端くれよ！！　お前に災いが来ないように日夜、種子刀（しゅしとう）で植魔虫退治してたんじゃ！！」

　事実――〝花の守（まも）り人（と）〟になる前の登竜門〝種子刀（しゅしとう）〟には、植魔虫（しょくまちゅう）を倒せる力はほぼない。

　よって、初撃こそ有効打に見えた一撃さえ効かぬまま、雅流風（がるふ）に覆い被さる様にのし掛かる夜盗虫（ヨトウムシ）。

　祖父は孫娘を逃がすために自らを餌にして時間を稼ぐ他、生き残る手段はないと考えていた。

「儂はもう耐えられん！！　母の刀を持って町へ行けっ！！　桜香――元気でな……」

　桜香自身、異形の生物のせいで頭は混乱し、涙で視界が歪んだせいでまともな思考が出来ずにいた。

「そんな事出来ないよ……私だって……」と言いながらも、対処が出来ない自らを呪った。

　だが、絶望の窮地（きゅうち）かと思われた祖父は諦めていなかった。

　娘を託された者として――一人の見守る責務のある男として。

　夜盗虫（ヨトウムシ）の圧力に対して限界を迎えていたが、その時の雅流風（がるふ）は、精一杯の笑顔で言った。

「早く行（ゆ）け桜香（おうか）！！　　頼むから――今だけでも儂の言うことを聞いてくれんか？……」

　月明かりで浮き彫りになる祖父の瞳からは、悲しみに満ちた思いのせいか落涙し、頬を伝って暗闇へと消えた。

　重すぎる〝刀〟を胸に抱き、息を切らしながらも桜香は視界が歪む中、必死に森の中を走っていた。

　足元を疎（おろそ）かにしたせいで草履は脱げてゆき、血が流れていた気がしたが、足の感覚がいつの間にか無くなっていた。

　怖い。逃げたい。助けて――と、そんな考えが頭の中を縦横無尽（じゅうおうむじん）に駆け回る。

　枝等により服は引き裂かれ、露出した肌には無数の傷痕が出来たが、唇を噛み締める事により、ひたすらに前を向いて進んだ。

〝逃げろ〟と言ってから、一体どれだけの時が流れただろうか？

　永遠にも感じられたそれは、動かぬ祖父を頭部から食す〝植魔虫〟を見て、忘れたように再び動き出した。

　手にしていた筈の種子刀（しゅしとう）は、鍔（つば）から先が折れており、生（せい）の最後まで離していなかった。

　目の前の食事に夢中になっている植魔虫には、桜香（おうか）等眼中にはなく、まさに蚊帳の外であった。

　立ち尽くす少女は走馬灯が頭の中へ駆け巡る様に、幼き頃の桜香（おうか）に対し、ある日の祖父が言っていた事を思い出していた。

「あのね、お祖父ちゃんさ。お母さんの〝刀〟って見たことあるの？　強く引っ張っても全然抜けないんだけど……」

　余程、力ずくで抜こうとしたのか桜香（おうか）は、疲れて息を切らせながら刀を床へ置き、顔を真っ赤にして祖父に問いを投げ掛けた。

　すると、始めこそ鳩が豆鉄砲をくらった様な顔をしていたが、直ぐ様切り替えて今度は豪快に桜香（おうか）の健気さを笑い飛ばした。

「がはははっ！！　そんな力ずくじゃ無理な話だよ。〝花輪刀（かりんとう）〟はね、選ばれた人しか抜けないんだよ」

「じゃあ、一生見れないじゃん……お祖父ちゃんは見たことあるの？」

　雅流風（がるふ）は、孫娘の膨れっ面が可愛くてしょうがなかったが、我が子の刀を自慢気に話した。

「あぁ、あるとも。儂が見た中では、この世で一番美しい刀だったよ」

「いいなっいいなっ！！　私もいつか見れるかな？……」

　床に置いた刀を飛び跳ねながら、嬉しそうに眺める桜香（おうか）を見て、祖父はある嘘をついた。

「あぁ見れるとも―桜香（おうか）が大きくなって、清く〝優しい心〟と、誰かを〝守る勇気〟があればね」

「うんっ！！　大きくなったら、お母さんやお父さん達みたいに、沢山の人を笑顔にするそんな大人になるんだっ！！」

　幼き桜香には、母の形見である〝刀〟は魅力的に映っており、ただ純粋で真っ直ぐな桜色の瞳に映る景色は、一切の曇りや迷いすらもなかった。

「そうか、偉いぞ。じゃぁ約束しようか？　もし――抜刀出来たら、桜香（おうか）はお母さんと同じ道を歩みなさい。無理だったら、ここでずっとお祖父ちゃんと暮らすんだぞ！！」

「うんっわかった！！約束っ――」

　雅流風（がるふ）は、〝約束の印〟指切りを幼い小指と交わすと、安堵（あんど）と共に幾千の時の中を、互いに笑いながら日々を過ごした。

　胸を撫で下ろす様な、落ち着き振りの理由は至極単純である。

　持ち主以外、決して抜刀出来ないと知っていたから。