彼女のウソ

初夏の香りが漂う、6月のある日曜日。


僕は、ハナの異変に気がついた。



トントン、トントン。


おそらく無意識でやってるのだろう。


ハナが今朝からずっと、しきりに左腕の関節付近をマッサージするかのように、右手を軽くこぶしにしてトントンと叩いているのだ。


数日前に『ちょっと腕が痛い』と言っていたハナ。


最初は、ハナも僕も『筋違いかなにかで腕を痛めたのかもね』と、大した気にもしていなかったのだが、その腕の痛みは消えるどころか、日に日に痛みを増しているようで。


ふと見ると、ハナは左腕の痛みをやわらげるためのマッサージをするかのように、トントン叩くようになっていた。


今日は朝からずっとだ。


なにか様子がおかしいと思った僕は、見ていた新聞を綴じハナに言った。



「ハナ、大丈夫?腕……だいぶ痛いの?」


「え?ああ……。うん、なんかねー。この辺がちょっと痛いんだよねー。薬局で買った関節痛の薬も毎日塗ってるんだけど、なかなか治らなくて」


僕のすぐ横で新聞の広告を見ていたハナが、左肘らへんを指差しながら僕を見た。


「ピアノの弾き過ぎ?家で練習し過ぎてるとか?」


僕が聞くと、ハナが笑って言った。


「毎日練習はしてるけど、腕が痛くなるまではやってないよ。でも、最近左腕が痛いから、ちょっと弾きづらいんだよね。どうしよう、このまま腕が痛いのが続いてピアノが弾けなくなっちゃったら」


ハナが、ちょっとふざけたカンジで、わざとオーバーに怯えたような声を出す。


「おいおい、よしてくれよ。僕はまだ一度もハナのピアノ聴いたことないんだぞ。ホントは今すぐにでも聴きたいくらいなのに」


ハナのピアノ。


ホントに今すぐにでも聴きに行きたいところだが、実家という手前、なかなか気軽に遊びに行けないのが実情だ。


でも、いつかはハナの実家に行き、ハナの両親にも会いたいと思っている。


その時は、男としてビシッと挨拶しにいく時だろう。


それはいつの日か、ハナを僕のお嫁さんに下さいとお願いしに行く時だ。


そう、僕はハナとの結婚も夢みていた。


僕と人生を共にする、最愛のパートナー。


それは、ハナ以外考えられない。



「ふふふ。今度子ども達と一緒に音楽教室に参加する?そしたら、私のピアノ聴けるよ」


ハナがイタズラっぽく笑った。


「そうしたいよ。今度行こうかなー」


「来る?私は全然いいけど?」


ニヤニヤするハナ。


「……やめとくよ。こんな変なおじさんがいたら、子ども達が集中して練習できないからな」


「変なおじさんだって」


ハナがケラケラと笑っている。


でも、笑いながらもハナは、無意識のうちにまた左腕を触っている。


僕は、そんなハナを見て真剣に言った。


「ハナ。その左腕、一度病院で診てもらった方がいいよ。痛いまんまだとピアノを弾くのだって大変だろうし。何が原因かわかれば安心するだろうし。いい薬もくれるだろうし」


僕の言葉に、ハナが自分の左腕を静かにさすった。


「うんー。病院かぁ……。行った方がいいかなぁ……」


「行った方がいい。なんなら僕が付き添ってもいいし。って言っても、日中は仕事だから無理か」


僕が腕組みしながら言うと、ハナが笑った。


「大丈夫だよー。子どもじゃないんだから、病院くらいひとりで行けるよ」


「だな。でも、早く診てもらった方がいいから、近いうちに行った方がいいよ」


「そうだね。じゃあ……あさっての火曜日、仕事が早く終わる日だから。ちょっと病院行ってみるよ。たぶん大したことないと思うけど」




そして、2日後の火曜日。


ハナは、左腕の痛みの原因を診てもらうために病院へ行った。


仕事中の僕は、診察の結果が気になっていたが、こんな日に限って仕事が忙しく、ハナに電話をかけることもなかなかできないまま夜を迎えた。



午19時。


「お疲れ様です。お先に失礼しますっ」


なんとか仕事を片付け、僕は急いでタイムカードを押して会社を出た。


そして、すぐさまハナのケータイに電話した。


プルルルルッと呼び出しコールが鳴った瞬間、すぐにハナが電話に出た。


『もしもーし』


「ハナ?ごめんっ。仕事が忙しくてなかなか電話ができなかったんだ。病院ちゃんと行ってきた?左腕の痛みはどう?診察結果は?」


『ちょっとトオルー。いっぺんに質問し過ぎー』


電話の向こうでハナが笑ってる。


その笑い声を聴いて、僕はホッとした。


いつもの元気なハナだ。


「ハナの元気そうな声を聴いて安心したよ。その様子なら、左腕は大したことなかったの?」


僕が聞くと、ハナが元気に笑いながら言った。


『ピーンポーン。やっぱりただの関節痛でしたー。ちょっと前に、仕事で器材とかの重い物運んだりしたから、それが原因かも。病院の先生もそのうちよくなるって』


「そっかぁ。よかったね。薬はもらったの?」


『うん。だから、もう大丈夫っ。病院行ってきてよかったよ。安心した。ねぇ、なんでもなかったお祝いにパーティーしよう!焼肉なんてどう?私、今トオルの家の近くのスーパーにいるの。一緒に買い物しようよ』


なんでもなかったお祝いか。


ハナらしいな。


「いいねー。なんでもなかったお祝いしよう。ビールで乾杯だな」


電話越しで笑い合う僕ら。


僕は、ハナの左腕がなんともなかったことを心から喜んでいた。


まだしばらくは痛いかもしれないけど、関節痛だから時期に治るだろう。


僕はウキウキしながらハナの元へと急いだ。


ハナもさぞかしホッとしただろう。


今夜のビールはまた一段とうまそうだ。


ハナも僕と同じようにウキウキしながら僕が来るのを待っているに違いない。


僕はそう思っていた。



でも、違ったんだ。



ハナの精一杯のカラ元気に。


そして、身を削るような精一杯のウソに。



僕は、気づくことができなかったんだ……。









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