五竜の国 偽りの巫女は王を択ぶ／和知杏佳

序章 第二話

「巫様、巫様」

　夜に戸口を叩（たた）かれ、日夜子は訝（いぶか）りつつも家の内から返事をする。

「どうしたの、吉（よし）万（ま）呂（ろ）」

　声は、日夜子の村（むら）長（おさ）の仕事を手伝ってくれている吉万呂のものだった。父が生きていれば同じ年のはずで、今は三十後半だろう。答えながらがたつく重い戸を開けると、険しい顔をした吉万呂の背後の闇（やみ）の中に、人（ひと）影（かげ）が見えた。

「巫様、このお人は、都からの使いだそうです」

「文（ふみ）も出さず、こんな夜中にですか」

　顔の見えない相手に直接尋（たず）ねると、黒い人影は数歩戸口に近づいた。吉万呂が持った灯（あか）りが人影の顔を照らした。二十過ぎくらいだろうか、長身のその人は、欠点がないゆえに際（きわ）立（だ）ったところも見られない顔で、目だけは酷（こく）薄（はく）な光を宿していた。使いの男は、日夜子の質問には答えず、口を開いた。

「あの社の主（あるじ）に、間（ま）違（ちが）いないか」

　背後の闇の中に薄（うす）く輪（りん）郭（かく）だけが見える社を手で指し、男は尋ねた。無礼な男だった。

「巫として仕えています」

「名は」

　男の態度に吉万呂が眉を顰（ひそ）めた。彼が口を挟（はさ）む前に日夜子がきっぱりと言い放つ。

「先（さき）触（ぶ）れもなく夜に訪ねた上、その物言い、無礼が過ぎます。まずはあなたが名乗りなさい」

　男の肩（かた）がわずかに揺（ゆ）れた。笑ったらしい。

「なるほど、普（ふ）通（つう）の家から巫に上がった娘（むすめ）ではないようだ。……無礼についてはお詫（わ）びを。私は宮中にて竜（りゆう）の御（み）剣（つるぎ）に仕えております、藤野孝保と申すもの。貴女（あなた）様は」

　藤野、その名は父から聞いたことがあった。この家と縁（ゆかり）のある、神官の家系だ。

「斉（いつきの）峻（たか）平（ひら）が娘、斉日夜子です。父亡き後、社に仕え、村を治めています」

「改めて、無礼をお許しください。斉家のご息女が、かようなあばら家に住み、自ら戸を開け客に見（まみ）えるなど、信じられなかったもので」

「……何の御（ご）用（よう）ですか」

　男を見（み）据（す）えて日夜子は答える。男を家に上げる気はなかった。

　吉万呂もそれはわかっていて、孝保に声をかける。

「藤野様、でしたか。夜中に一人で巫様の家に押しかけられるよりはと、ご案内だけはいたしましたが、今日はお引き取りを。巫様の家に夜中男を上げるわけにも参りません」

　しかし日夜子は日を改めて、再び孝保と会うのも嫌（いや）な気がした。

「吉万呂、社でこの方と話します。孝保殿、それでいいですか」

「私は構いません」

　焦（あせ）ったような吉万呂が、日夜子を制す。

「ですが、巫様」

「あなたも同席して」

　吉万呂はそれならと、渋（しぶ）々（しぶ）灯りを持ち直し、二人を先導する。社に入り、吉万呂が中の燈（とう）台（だい）に火を移すと、社の中がぼうっと明るくなった。

「では、お話をさせていただいても？」

　ちらりと吉万呂を気にしながら、孝保が尋ねる。

「えぇ、今年のお役目のことでしょう」

　孝保は頷（うなず）いた。

「お察しの通りです」

「……父が亡（な）くなった折、文にて伝えた通り、もう斉家のお役目を果たせるものはいません。男子どころか私の他（ほか）は妹が一人だけです」

　しばしの沈（ちん）黙（もく）の後（のち）、孝保は明るい声を出した。

「やはり、日夜子殿と二人で話がしたいのですが」

　無礼と切り捨てることは難しかった。孝保は竜の御剣に仕える神官と名乗った。知られたくない話になることは明白だった。

「……吉万呂」

「ですが」

「社を出て戸を閉め、その前で待っていて。何かあれば声を上げます」

　孝保に不信感があるのだろう。吉万呂は動かず日夜子を見つめる。

「ここは社、この人も私も神官です。めったなことは起きないから、大（だい）丈（じよう）夫（ぶ）」

「もしもの時はすぐ声を上げてください。約束ですよ」

　しっかりと頷いて安心させ、吉万呂を社から出した。

　孝保の表情がすっと消えた。

「一つ聞きたい。本当に男子はいないのだな」

　口調から丁寧さがなくなった。日夜子の目元が険しくなる。

「先（さき）程（ほど）そう申したはず」

　家格の違いは孝保もわかっているはずだが、取り繕（つくろ）う気もないらしい。いくら身分が高くとも、打ち捨てられたような山奥に住む斉家になど、人前でなければ敬意を払（はら）う必要はないと思っているようだった。

「お前は本当に女か」

「無礼な」

　疑われたことより、物言いにひどく腹が立った。

「女と偽（いつわ）り、役目から逃（に）げているわけではないのだな？」

　日夜子の眉（まゆ）がきつく寄った。

「斉の者が生まれる度（たび）に、藤野からの使いが生まれた日や男女を確かめに来ると聞いていましたが、あなたこそ本当に藤野の者なのですか？」

「……斉の跡（あと）継（つ）ぎはどちらとも取れぬ顔の者が多いと聞いていたが、本当らしい」

　独り言のように呟（つぶや）かれた言葉に、さらに腹が立った。

「ですから、もうお役目の出来る者はいません。都にお戻（もど）りを」

　お役目。斉家のたった一つの仕事。斉の者はそのお役目を伝え、伝える相手を絶やさぬよう、何百年と家を守ってきたのだ。

「神剣の守（も）り役も、竜から王を選ぶことも、もう斉家の者にはできません。私は巫で、妹は病がち、次代が生まれるかさえ危（あや）ういのです」

　神剣の守り役、それが斉家の務めだった。

　木・火・土・金・水、この世を成す五つのものから竜が生じ、この国を守っている。

　知らぬものはいないほど当たり前の国の成り立ちだ。人の身にしてその竜の血を引くと言われる五家の代表の中から、五十年に一度、竜王が選ばれ、他の竜家の当主の助けを借りながら、この国を治める。

　その五竜の中から王を選ぶのが、孝保が「竜の御剣」と呼んだ意思を持つ神剣だ。その剣の守り役として神意を伺（うかが）い、王を選ぶのが斉家の役目だった。そして、それは直系の男子にのみ、許されるものだ。

　孝保が、しばらく思案した後、日夜子を見た。

「しかし、巫ということは、父親から神事は伝えられているのではないか」

　確かに、神事の全（すべ）ては日夜子が引き継（つ）いだ。しかしそれはあくまで、父の代わりに次代へ伝えるために過ぎない。

「私にのみ、伝わっています。が、私は女で、正統な継（けい）承（しよう）者ではないのです」

　孝保は、日夜子の言葉など聞いていなかった。

「記録によれば十七か、年のころは合う。……まぁ、在位の途（と）中（ちゆう）で命数が尽（つ）きれば、却（かえ）って都合がいいかもしれない」

　王は儀（ぎ）式（しき）の度に神剣を用いる。そのため守り役も在位の間は神剣のある宮中に仕え、神剣の清めを行う。竜や守り役が在位の五十年の間に亡くなったとしても、空位のままにしておくことになっている。日夜子の祖父も、そうして役目を終える五十年を待たずして亡くなった。

　それよりも、孝保の言葉が気になった。年のころが合おうが、日夜子は女なのだ。

「妹は体が弱いが、亡くなった母親に似て美しい少女だとか」

　話の流れが予期せぬ方に向かっているのを感じ、日夜子は不安になった。

「……であれば、お前の方が露（ろ）見（けん）はしなそうだ」

「……一体、何を」

　予想はついていたが、日夜子はそう問うた。孝保は口の片（かた）端（はし）を吊（つ）り上げ、笑（え）みを浮（う）かべる。

「お前には神剣の守り役として宮中に上がってもらう。男のふりをしてな」

　言葉が出なくなる。絞（しぼ）り出すように、反論した。

「男のふりをしたとして、本来の私が変わるわけではありません。女は、国を乱すのでしょう」

　昔、父に言われた言葉だった。

　孝保は意外そうな顔をした。その口から、神官とも思えぬ言葉が吐（は）き出される。

「女が神事に関（かか）わって、神の怒（いか）りに触（ふ）れるとでも？　……そんなもの、お前とて信じているように見えないが」

　その言葉は、胸に刺（さ）さった。

　日夜子の本心を衝（つ）いていたからだ。

「家を出るのと同じような顔で、社に足を踏（ふ）み入れた。身近になければ、信じる気も起きないのはわかるが。……あの男を社から出したということは、村の者は知らないのだろう？」

　何か言い繕おうとしたが、もう遅（おそ）かった。日夜子の動（どう）揺（よう）を、孝保は冷めた目で見つめていた。

「巫だと言っても、お前は神など信じていないだろう。神体さえない空の社に仕えるのは、さぞかしつまらないことだろうな」

「黙（だま）りなさい！」

　そう制した日夜子に、戸の向こうから声がかかった。

「巫様!?　何かございましたか？」

　怒りを押し殺し、戸の向こうに声をかける。

「大丈夫よ、吉万呂。なんでもない。おどろかせてごめんなさい。そこにいて」

　荒（あら）くなりそうな息を必死で抑（おさ）える。社の奥の厚い帳（とばり）が、隙（すき）間（ま）風（かぜ）が吹（ふ）いたのかわずかに揺（ゆ）れた。その帳の奥、本来神体があるべきそこには、何もない。

　父から、誰（だれ）にも言うなと命じられている。その事実は、今は日夜子しか知らない。朔子にさえ、隠（かく）されていることだった。この社には、日夜子がいない時には立ち入ることがないよう、村人には言い含（ふく）めていた。

「虚（むな）しいことだ。ここに神がいると信じる村人の為（ため）に、せっせと神がいるふりをしているわけか」

　王を選ぶと言われるその神剣こそ、元はこの社の神体だった。

「この地では、神剣は取り替（か）えたのだと民（たみ）を謀（たばか）っているらしいな」

　元は王の選定などの儀式の時にだけ用いられていた神剣が宮中に移されたのは、もう何代も前の王の頃（ころ）だと聞く。国が大いに荒（あ）れ、離（はな）れた人心を取り戻そうと、神剣は都に移され、都の者には「竜（りゆう）の御（み）剣（つるぎ）」と呼ばれるようになった。

　今よりも更（さら）に昔、ままならぬことがずっと多かったその時代、そこに住む者のよりどころが失われることは重い出来事だった。斉家の者は、民の心を和（やわ）らげようと、神剣の代わりに、王から別の神体を賜（たまわ）ったと土地の者に伝えていた。今も、日夜子以外の者が社に入る祭の時は、もし見られてもいいように、いつからあるともわからない古ぼけた矛（ほこ）を代わりに飾（かざ）っていた。

　父は、ここに神などいないと知りながら、ひたすら神事と役目を守ろうとしていた。父は、ここにはいなくとも、神そのものは本当にいるのだと信じていたのだろうか。

　日夜子は悔（くや）しさにぐっと歯を嚙（か）んだ。

「孝保殿（どの）、あなたこそ神など信じていないのでしょう。ならばわざわざ斉の者にこだわらずとも、藤野が守り役となればよいのでは？」

　孝保は帳の方を見ながらどうでもよさそうに答えた。

「そうするつもりで根回しを進めていたが、法を変えるのが間に合わなかった。さるお方が、斉の生き残りがいるなら、王の選定はその者にさせよとおっしゃってな」

　誰かの指示で、この孝保は動いているようだ。しかし、

「私には、あなたに従う理由がありません」

　呆（あき）れた視線が返ってきた。

「もう少し、頭が回るかと思ったが、さっき言ったことは聞いていなかったのか？」

　考えを巡（めぐ）らせ、日夜子が思い当たった瞬（しゆん）間（かん）、それは孝保の口から言葉となって出てきた。

「妹は体が弱く、亡（な）くなった母に似て美しい……。何も調べずにここに来たとでも？　お前があまり娘（むすめ）らしくない容姿だったので確（かく）認（にん）はしたが。妹を溺（でき）愛（あい）していることも、二親を亡くした後、村の者らに育てられたことも耳に入っている。特に親しい者の名を一人ずつ挙げれば信じるか？」

　するするとなんの感（かん）慨（がい）も無く語られる。不安に肌（はだ）が粟（あわ）立（だ）った。

「朔子に何かするつもりですか」

「お前が従わないならな。……妹で足りなければ、村の者にも『何か』することになる。お前の身も無事と思うな」

「……卑（ひ）怯（きよう）者」

　体が震（ふる）えた。怒りか恐（きよう）怖（ふ）か自分でもわからない。何もかもが嫌（いや）だった。

　全てに代えても守らねばならない妹を人（ひと）質（じち）に取られたことも。村人を危険にさらすかもしれないことも。斉家の役目に振（ふ）り回されることも。今目の前にいるこの男も。

　そしてその全てに抗（あらが）う術（すべ）を持たない、自分自身が。

「卑怯者、か。日夜子殿、私が聞きたいのはそんな感想ではない」

　無感情な目が、日夜子を見下ろしていた。

「…………男として、守り役の務めを果たします」

　震える声で、そう答えた。

「それでいい」

　ごう、と風が吹いて、戸の隙間から入り込んだ鋭（するど）い風が灯（あか）りを消し、重い帳が巻き上がる音がした。闇（やみ）の中でも、日夜子には、帳の向こうに何もないのがありありと見える気がした。