第13話  ソロモン

 磨き上げられた杉板が、燭台の灯火を映してほのかに輝いていた。レバノンの森の宮殿と呼ばれるだけに、厳選された良質な杉材をふんだんに用いて建てられたこの王宮は、築かれたその当時と何ら変わることなく、依然としてその壮麗な美しさを誇示し続けていた。

 臣下はすべて下がらせてあり、誰もいないそのさばきの広間に、ソロモンは独りで座っていた。入念に掃き清められ、塵一つ落ちていないその空間には、静かさの中でかえって寂寥感が漂っている。

 かつてこの場所には様々な訴えが持ち込まれ、知恵を尽くしてそれらの一つ一つを裁いてきた。時にはその王の知恵を確かめようと、シェバの女王はじめ、世界中から様々な賓客を迎えもした。持ち込まれるそれらの難題を一つ一つ紐解いていくことに、ソロモンは歓びを感じていた。絞り出すというより、次々と湧き上がるように知恵が出てくることに、快感を覚えていた。

 その営みは今も、この宮殿自体がそうであるように、何ら変わることなく、続いている。しかし、こうして空いた時間にふと我に返ると、ただ一人取り残されている自分自身にどうしようもない空しさを覚えるようになっていた。


 静寂の中を、一つの足音が近づいて来るのが分かった。推何する門衛の声もなかったところをみると、預言者アヒヤだろう。彼だけは決して留めずに、奥の間にでも通してよいと命じてあった。

 ソロモンは、目を閉じて小さく息を吐き、この旧い友人が訪れるのを待った。やがて衣擦れの音とともに、痩身の男が一人、戸口に立った。

「王よ」

 事あるごとにこのレバノンの森の宮殿を訪れては、ソロモンの行動に警告を与えてきた男だった。その都度ソロモンは、黙ってその言葉を聴き、一言も答えることのないままで追い返してきた。

 いつにも増して険しい表情をしているアヒヤに王は目を向け、沈黙のままでその言葉を促した。王とほぼ同じ年齢のはずだが、髪はすっかり白くなり、日に焼けた顔には深いしわが刻まれている。アヒヤの老いの中に、王は自らの老いを見出だしていた。

「今日は警告に来たのではありません。王よ。神の宣告を伝えに来たのです。王国は引き裂かれ、敵対する者の手に渡される。主が、私にそれを伝えよと命じられました」

 そう告げるアヒヤの声は心なしか、かすれていた。王はいつもと変わらず、黙ってその言葉を聞いていたが、そこに微かな疲れが滲んでいるのを見たアヒヤの頬を、涙が伝った。

「何故泣いているのか。神のさばきを伝えに来たのなら、怒りの表情こそ相応しいであろうに。それとも、お前の警告をないがしろにし続けてきた私へのさばきの宣告だ。嘲笑とともに申し渡すこともあるだろう」

「王よ。このような知らせを告げることが、私にとって喜ばしいことであり得ましょうか」

「国を憂えての涙、ということか」

「いや、違います。王の心を思ってのことです。王よ、今日私が告げることをすでに予想しておいでだったのでしょう。国を思うお心は変わりますまい。裁きの宣告をお聞きになったそのお心を思って涙を禁じ得ないのです」

「ことあるごとに私に警告を投げ続けてきたお前の言葉とも思えぬな」

「王よ。これまで、私の警告をあなたは一度たりとも中断させず、最後までお聞きになった。近付けさせない、ということもおできになったはずなのに」

 旧い友でもある預言者の言葉に、老いた王は目を閉じ、深くため息をついた。そのまま閉じた目を開けようともせず、しばらくの間、彫像にでも化したように、身動き一つしなかったが、アヒヤがいつまでも立ち去ろうとしないので、重い口を開きはじめた。

「父ダビデが整えたこの国は、しかし小さく弱い。周囲にある強大な国々がその気になれば、呑みこんでしまうことなど、たやすいだろう。それらの国々の王から、その娘達を妻に迎えることで、私はこの国を守ろうとしたのだ」

 それは誰もが知っていることだ。しかしアヒヤは、黙って王の言葉を待った。王が、そのことについて口を開くのは、恐らく初めてのことなのだ。

「嫁いで来る娘達の側にしても事情は同じで、自分たちの結婚など、互いに国と国の平和のための道具でしかなかった。しかし、シドンから送られてきた娘が故郷を思って毎日のように泣くばかりの姿を見て、あまりに哀れに思ってしまったのだ。たった一人でこの国に来て、自らの人生を自らの民のために犠牲にせんとしていた彼女を、なんとか慰めてやりたいと思った。そしてあれが望んだのは、シドン人があがめる女神アシュタロテに祈りを捧げることだった。それが、我等の神の御心に敵わないことであることは分かっていたが、他に方法はなかったのだ。そして、一度受け入れてしまえば、他を押し留める術はなかった。それから後は、アヒヤ、お前が知っての通りだ」

「王よ。お察し申し上げます。しかし、今何故それを口になさったのですか」

「神がお与えになった知恵は、それでも衰えることがなかった。この国には今や、世界中の富が、集まって来ている。しかし、知恵は、私がそれらを楽しむことを許さなかった。その空しさこそが、神の罰なのかもしれん、と今は考えている」

 アヒヤは王をじっと見つめた。

「わが君よ。どうぞ、お語りください。道を伝える王のお言葉を、このアヒヤが書き記しましょう」

 預言者と王という二人の、長い相克の歴史が、そうして実を結ぼうとしていることを、アヒヤはひざまずきながら、感じていた。  

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