第12話 ダビデ

「だめだ、やっぱり足りないや、どうしよう」

 少年は羊の群れを懸命に数えたが、何度数え直しても一匹、足りない。今日は兄さんたちが一緒にいない。そろそろ一人で仕事をさせてみようということで、この山の上にまでは来てくれたが、昼の間は一人で守っているように、と言われたのだ。

「いいか、ダビデ。羊から目を離しちゃだめだぞ」

 エリアブ兄さんに何度も念を押された。

「大丈夫さ、僕は羊と仲良しなんだ。きっとうまくやれるよ」

 初めて、仕事を任せてもらえることに、少年は高揚し、張り切っていた。目を離したと言えば、パンを食べるほんの少しの時間だけだった。日が暮れる前には兄さんたちが迎えに来る。

「それまでには見つけなくちゃ」

 そう考えた少年は、群れを安全な丘の上に移動させると、いなくなった一匹を捜すために、駆け出した。獣の気配はなかった。第一まだ日も高い。襲われたということではないだろう。どこかに迷い込んだのか、それとも崖から落ちたのか。神様、どうか羊が無事でいますように。たどってきた所を思い出しながら、懸命に駆け回った。だめだ、見つからない。

 半ばべそをかきながら途方に暮れかけたとき、少年の耳はふと、風に運ばれて来る不思議な音を捉えた。洞窟の中で水滴が落ちるような、いやもっと高い音が、いくつも連なって響いている。その音色と共に、低く穏やかな声が歌っていた。

「何だろう」

 少年は、吸い寄せられるようにその音のする方に歩いて行った。大きくせり出した岩の向こう側に、老人が腰かけていた。ひざの上に、荷車の車輪ほどの大きさの何かを抱えるようにしている。なんだか、物音を立ててはいけないような気持ちになって、石を投げて届くほどの距離まで近づいて、そのまま耳を澄ませていた。歌が一区切りついたのか、音が途切れ、老人が少年に向かって語りかけた。

「どうかしたのかね。そんなところに立っていないで、よかったらここへ来て、座ったらどうだね」

 やはり低く穏やかな声で、柔らかに微笑んでいる。

「あの、それは何ですか」

 老人の包み込むような雰囲気に安心して、少年は近寄って、老人のすぐ隣に腰かけた。近くで見ると、木の枠に幾本かの細い糸が張ってある。

「これかね。キノールと言ってな、たて琴の一種じゃな」

 物珍しそうな様子を見て、老人は目を細めて少年を見つめた。

「とってもきれいな音ですね」

 少年は不思議そうに老人の手元にあるそれを見ていた。

「触ってみるかね。それはそうと、お前さんはどこから来たのかね。こんな山の上で一人で何をしておるんじゃ」

「僕の名前はダビデ。羊を飼っていて……あ、そうだ、羊を捜しに来たんだった」 

 思い出してはじかれたように立ち上がる少年に、

「羊を捜しに、な。ではあれは、お前さんの羊なのかね」

 と老人は答えた。その目線の先に、羊。少年の来た方とは反対側で、呑気そうに草を食んでいる。

「あっ、こんなところに」

 少年は思わず駆け寄って、羊にしがみついた。驚いたのか、少し身じろいだが、またすぐに、草に顔をくっつける。

「そうか、お前もあの歌を聞きに来たんだね。捜したんだよ」

 少年は羊の背中を撫でながら、話しかけた。その姿に老人が目を細めている。

 それからというもの、少年は毎日のように老人のところを訪ねた。兄たちが一緒ではそうもいかなかったが、新しく立てられた王が戦さを招集し、皆、戦士として従軍していったので、少年が羊の世話を一人で引き受けることになったという事情もあった。

 少年は、キノールの不思議な音色と老人の歌声に、すっかり惹きこまれていた。老人の方もこの少年を喜び、キノールの使い方や歌の歌い方を教えた。

 もとより素質があったのか、少年はキノールを奏でることと歌うことを、すぐに自分のものにした。心にあることをそのまま言葉にして、キノールの音色に合わせて歌う。それは少年にとって、わくわくするような、楽しい満たされた時間となった。


 その日も、少年は一人で群れを連れ、山に上った。朝から雲の多いのが気になったが、果たして、山頂付近まで来ると、どんどん雲が厚くなっていくのが分かった。まだ昼前なのに、薄暗い。ふと、かすかな気配を感じた。肌がぴりぴりする。

 この感じを、少年は知っていた。兄たちについてきて、体験したことがある。低いうなり声が、聴こえた。獣の気配。何匹かに囲まれ、老人が倒れている。

 夢中で石投げを構える。駆け寄り、一つ目の石を放った。一番奥の一匹が小さく吠えて、身じろぎをした。当たりはしたが、倒れない。次の石。今度はしっかりと急所を捉え、手前の一匹が吹き飛んだ。それきり、動かない。三つ目の石を仕掛け、叫びながら踏み出すと、獣の群れは一斉に逃げ出していった。

「おじいさん」

 駆け寄ったが、既に虫の息だった。ふところから、キノールを取り出す。襲われながらも、それだけは抱え込んで守ったようだ。

「ダビデ……これをお前にあげよう。お前の歌はいつか、誰かの心をいやすじゃろう。その時に、用いればよい」

 老人は、少年にキノールを握らせた。その上に置かれた手が急速に、体温を失っていくのが、感じられる。後には、羊飼いの少年とキノールが残されていた。

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