part4 四〜七日目


 磯だまりの岩をひっくり返してみるとカニを発見することができました。体長四センチくらいの「沢ガニ」みたいなやつです。でも沢ガニって海にはいてないと思うので間違いなく別の種類ですけど。「これって、生で食べていけるんかな?」何か病気とかもってたりしやん? と不安が脳裏を過ぎりましたが、あたしは未だに空腹でへろへろです。あのあと巻き貝をいくつか食べましたが、普段の食事量には遠く及びません。巻き貝とカニでどの程度栄養バランスが取れるのかはわかりませんが、同じ物ばかりを食べ続けるよりはマシだろうと、こちらも試してみることにしました。……とはいえ、その足は爪楊枝みたいに細くて身はほとんど詰まってなさそうに見えます。「火と油があれば唐揚げにしてまるごと食べられるのになあ」と思わず不満を口にしましたが、そんなものはここにはありません。テレビとかでよくみるライターもマッチも使わずに火を起こす方法を試してみてもいいかもしれませんが、詳しいやり方を知りませんし、すぐには成功できないでしょう。ひとまず足よりは太い爪の部分を千切って、殻を歯で噛んで割ってみました。中の身は甘く、たしかにカニの味でしたが、その量はあまりにも少量です。十匹分の爪を集めてようやく回転寿司のカニ軍艦をひと皿作れる程度だと思いました。お腹の部分をぺりっと開いて、味噌をいただいてみましたが、あたしがこれまで食べたことのあるカニ味噌とはまったくの別物で、めっちゃ苦いです。でも重要なエネルギーである「脂質」が含まれているように思えたので、これも我慢して食べきりました。


 その翌日は、朝からココナッツの実を複数手に入れ、それを飲んで、前日と同じように巻き貝とちいさいカニをひたすら集めて、ひとつずつ解体しながら食べ続けました。


 巻き貝の殻を石で割りながら、ふと一日に必要な水分量とエネルギー量について考えました。

 おそらくあたしの身体だと、これまでの生活ならば水は一日三リットル、エネルギーは一日二千キロカロリーほど必要だと思います。でもこの無人島に来てからは強い日差しに晒され常に汗を流していますし、一日中身体を動かしているので、水が一日五リットルから六リットル、エネルギーはだいたい二千五百キロカロリーくらいは必要になるんじゃないかと思います。


 ヤシの実に含まれる水分量が仮にペットボトル一本分——つまり五百ミリリットルやったとして、六リットル飲むためには十二個必要です。そこそこ重量のある石ころを上空めがけて投げて、ココナッツに命中させて、落ちてきたそれをこんどは岩の尖った部分に何度も打ちつけてようやく水を飲む……という作業を一日に十二回は繰り返す必要があるわけです。


 タニシみたいな巻き貝のエネルギー量が仮に一個十キロカロリーだとするならば、一日に必要な巻き貝の個数は何個でしょうか?

 二百五十個です。

 ゾッとします。

 二百五十個もの巻き貝を集めるだけでも大変ですし、固い殻をひとつひとつ割って中身を出すことも大変ですし、仮にそれらが元からむき身で、「はいどうぞ」とどんぶりに二百五十個分盛られて出されたとしても……果たして食べきれるでしょうか? 醤油もワサビもここにはありません。食べてる途中で吐き気がしてくるでしょう。

 お米もパンも砂糖もないこの環境で体力を維持するエネルギーを摂取するのは想像を絶するくらいに大変なことで、たとえ一日中食事に関わる行動を取り続けてもカロリーが足りず「このままではジリ貧や」という焦りがだんだんとこみ上げてきました。だからといってサバイバル知識のないあたしには解決策なんて何も思いつかず、ひたすらヤシの実を落とし巻き貝とカニを取る一日を過ごしました。

 ……次の日も、その次の日も、同じようにして過ごしました。


 そして六日目になり、体調を大きく崩しました。


 原因は言うまでもなく「食あたり」です。


 巻き貝を生で食べたのが悪かったのかカニ味噌を生で食べたのが悪かったのか、あるいはどっちも駄目だったのかはわかりません。朝、目が覚めた瞬間に強烈な吐き気に襲われ、まだ寝ぼけているうちに吐いてしまいました。自分の身に何が起こったのかを理解し、吐き出したものを眺めながら、意外にも冷静に、「これでどんだけのエネルギーと水分を無駄にしちゃったんやろ?」と考えていました。ひとしきり吐いたあと、「水分を取り戻さんとマズいな」と思って、あらかじめストックしておいたココナッツをひとつ手に抱え、いつもの岩場に向かいました。

 ココナッツウォーターを飲むと多少は気分が落ち着きましたが、どうやら身体が発熱しているということに気がつきました。巻き貝、あるいはカニのなかに潜んでいたものは細菌でしょうか? ウイルスでしょうか? それとも寄生虫でしょうか? 当然救急車を呼ぶことも検査をすることもできないので、具体的に自分の身体に何が起こっているのかがわからず、不安でたまりません。

 しばらくは身体を休めよう、と思ってあたしは砂浜に寝転びました。……が、一分もしないうちにふたたび身体を起こしました。

 動かないとマズい、と思ったのです。

 この島では誰も食事を運んできてはくれません。誰も水を運んできてはくれません。どちらも自分で取りに行かなければならないのです。

 巻き貝とカニは生では食べられないことが判明しました。ならば他の食料を探しにいくか、火を起こす必要があります。

 あたしは火起こしに挑戦することに決めました。仮に他の食料を見つけたとしても、やはりそれも生食できるかどうかがわからないからです。基本的にすべての食べ物に火を通すべきだ、と考えました。生きるために、火は必需なのです。


【目標:火を起こせ!】


 雑木林にすこしだけ入って「太い枝」と「真っ直ぐな小枝」と「薪として使う小枝」と「枯草」を拾ってきました。太い枝をいつもの岩の尖った部分にごりごりと押し当て穴を開け、地面に置きます。その穴に枯草を軽く詰めて、そいつをすり潰すつもりで真っ直ぐな小枝の先端を穴に挿して、両手のひらを使ってくるくると回転させました。これが正しいやり方なのかはわかりませんが、昔テレビで見たやつのイメージを自分なりに再現してみたわけです。小枝を高速で回転させることによって摩擦熱が発生し、枯草に火がつく、という仕組みのはず。


 ……結果は惨敗でした。

 少量の煙すら上がる気配がありません。穴の部分を指先で触れてみると確かにすこしあたたかくなっているような気もするのですが、火がつくまでには至らず。回転の速度が足りてないのかも、と思ってムキになってがむしゃらに小枝を回していたら、手のひらの皮が剥けて血がにじみ、その部分がヒリヒリと痛み出し……それでも我慢してしばらくの間続けていたのですがいよいよその痛みに耐えられなくなり、ついに作業を中断しました。

「何があかんのかぜんぜんわからん」

 あたしが手に入れることができたのは疲労感とさらなる焦燥感、そして血に塗れて赤く染まった小枝一本だけ。気力と体力を消耗しきってその場にへたり込みました。


 結局、食料と水をあらたに手に入れることもできずに、調理する手段も冷えた夜に身体をあたためる手段も手に入れられずに、その日を終えてしまいました。


 すこしでもエネルギーを節約したいので夜の間はできる限り眠っておきたいと思っていたのですが、吐き気と腹痛が邪魔をして、熟睡することができません。うなされながら砂浜を転がり回り——長い長い夜が過ぎ——気が付けば空が明るくなり始め、最悪の気分で七日目を迎えました。


 ココナッツをひとつ抱えていつもの岩場に向かいます。ヤシの実のジュースを飲み終え、本来ならばそのまま食料探しをするか、火起こしに再挑戦しなければならないところで、あたしはどちらの行動も取らずに目の前の岩場をふらふらとよじ登り、荒波が打ち付ける断崖絶壁の岩場の上に座り込みました。

 目の間にあるのは海と空と、その境界線だけ。

 ……ふと思いました。


 じつはこの世界には、この島だけしかないんじゃないかって。


 島の外には何もないんじゃないかって。


 世界には何らかの巨大な災害が訪れて、何もかもが海に沈んでしまったんじゃないかって。あたしはその時、容器に入れられて冷凍保存されていて、その容器は方舟みたいに波にゆられて何千年も経って、ようやくこの島に流れついたんじゃないかって。神話の方舟と違っているのはそこに乗っていたのがあたし一人だけってことで、生き残った人間はもう他に誰一人もいなくて、文明なんてものもすべてが海の底に沈んでいて痕跡すら失っていて、もしもこれからさき生き延びることができたとしても、この孤独は最期まで続くんじゃないかって。


「……まあ、もうじき死ぬんやけどね」


 と、諦めの言葉を呟いたそのとき。

 突如として視界のすべてが光り輝き——あたしは目が眩みました。

 なにもかもがこの島の砂浜のように真っ白に塗りつぶされ——間髪を入れずに、今度はその空間を埋め尽くすようにしてバリバリバリィと轟音が雪崩れ込みました。

 青天の霹靂。

 一筋の稲妻が——あたしのすぐ頭上の快晴の空を割ったのです。

 まさに瞬く間の出来事でした。

 閉じた瞼を開いたあたしは〈それ〉を——あたしの今後の何もかもを変えてしまう存在を——目撃しました。


 割れた空の裂け目から〈人の姿をした何か〉が落下してきたのです。


 その何かが目の前の海へと落ちて凄まじい水柱を上げるまでの時間はほんの一瞬だったので、しっかりと目で追うことはできませんでした。——しかしこのときのあたしは、それが「人の姿」をしていたということを、何故か確信していたように思います。

 気付いたときにはあたしは岩からお尻を浮かせて、崖の端から海面を覗き込みました。かなりの高さがありましたが突き出た岩はなさそうです。「何か」が落ちたところまでの距離は、海岸から三十メートルか四十メートルくらいでしょうか?

 服を脱いで、飛び込みました。

 泳ぐのはそれほど得意ではありませんでしたし、溺れた人を救助できる自信なんてものもありませんでしたが——このときのあたしは何かが吹っ切れていました。

 水柱が上がった場所へ向かって全力で泳ぎ、ほんの少し潜水をすると目的の存在をみつけました。腕を掴んで引っ張ります。このときになぜこれだけの力を出せたのかは後になってもよくわかりません。もうここで溺れ死んでもいい、と思ってがむしゃらに泳いだことによって、結果として海中にいる時間を短く済ますことができたのが良かったのかもしれません。浜辺にその子を引き上げました。

 あたしと同じくらいの年齢に見える女の子でした。

 この世の物とは思えない美しい金色の髪が、ぺたりと頬に張り付き、瞼を閉じ、ノースリーブの白いワンピースを身につけています。

「……人工呼吸ってどうやるんやっけ?」いきなりの緊急事態にあたしは焦りました。「ええっとコナンを思い出せ……! 劇場版のやつ。世紀末の魔術師……じゃなくて十三番目のほうや。ラストでやってたやろ。たしか、まずは気道を確保して……」

 くちびるを合わせました。

 その瞬間、

「……んん」

 とその女の子が突然呻きました。——まだ息を吹き込んでもないのに。

 そもそも呼吸は止まっていなかったようです。

「み…ず」

「水飲みたいん? もってくるからちょっと待ってて!」

 あたしはストックしてあるヤシの実を急いで取りに行き、いつもの岩に打ち付けて穴を開けてから、彼女の元へと戻りました。

 彼女の頭を支えてあげて、母親が哺乳瓶でミルクをあげるみたいにして彼女のくちにココナッツウォーターを少しずつ流し込みました。彼女は目を閉じたまま、ごくごくと全部を飲み干しました。

「……ありが……とう」

「大丈夫?」

「ちょっと寝ます」

「あ、うん。おやすみ」

 それまで仰向けになっていた彼女がごろん、と転がって横向きになり、身体を丸めてすやすやと寝息を立て……そのときになってようやくあたしはあることに気が付きました。


 彼女の背中にはちいさな白い翼が、片方だけ生えていたのです。


     ***

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