11 エロティシズム的消尽(2)

 動物の性にはエロティシズムがありません。それは人間にのみあります。

 なぜなら、エロティシズムを生む土壌は「禁止」だからです。

 どんな「禁止」かというと、たとえばバタイユの論述は「近親婚の禁止」に多くを割いています。

 が、すでにぼくが書いたとおり、「禁止」とは、壊れた本能に突き動かされている人間の無方向(全方向)的な過剰エネルギーを抑え込むために設定された立て札でした。

 「禁止」が秩序をもたらし、人間を動物から切り離し、人間たらしめます。

 バタイユは、人間が動物と異なるのは、理性があるからではなく、「禁止」があるからだ、としていましたね。


 とはいえ、この「禁止」が、鬱屈としたエネルギーの蓄積を生みます。そして、解放の瞬間を待ちます。

 この解放の時(禁止の一時的解除)を、バタイユは「侵犯」と呼称します。


 たとえ話をしましょう。サラリーマン生活では、「上司/部下」の関係(秩序)は絶対です。部下は従わないといけない。けれど‘マジむかつく’とかいったストレスが部下に日々たまっていきます。そこで、宴会なる「無礼講」が適宜開催されていくわけです。無礼講ですから、部下が上司の悪口を言っても罰せられません。余興では、上司と部下との関係性が転倒することもあるでしょう。「上司/部下」という超えられないラインが、「侵犯」されたのです。


 ちなみに、バタイユは「侵犯」にからめて、「祝祭」という概念も使用しています。「祝祭」においては、「禁止」により支えられていた秩序がいったん反故にされます。タブーが解禁されます。乱痴気騒ぎがはじまります。そのような歴史的事例は、たとえば民俗学などを紐解けばいくらでもでてきます。


 さて、侵犯によって何が得られるのでしょう。単なるストレスの発散でしょうか?

 違います。

 人間は自身に内在する動物性を「禁止」により否定することで、人間になりました。ですから、動物的な行動をすること、動物性への回帰、たとえば奔放な性にひたることなどは、つねに忌避の対象となります。‘いまさら動物には堕ちたくない’ということです。

 しかしその禁じられたものに、人間は同時に惹かれます。たとえば、死体を穢れたものとして忌避しながら、かつ同時に、’死体を見てみたい’とか、’ふれてみたい’とかいうタブーへの誘惑にかられます。なぜか? なぜでしょう?


 「禁止」によって排しながら、かつ同時に惹かれてしまう。

 この、人間のさが・・・・・・


 ふれてはいけないものに、ふれる。


 それが許される時間が、「侵犯」の時間であり、「祝祭」の時間です。

 そして、この「侵犯」、あるいは「祝祭」の時間は、聖性を帯びます。あるいは時間というよりは、体験、と呼んだ方が適しているかもしれません。

 ふれてはいけないものに、ふれる、その体験は、いわば逆説的に聖性を帯びます。


 もっと簡単に言い換えましょうか。

 そもそも共同体が「禁止」しているルールを破ることができたのは、特別な存在、聖職者や王様などでした。たとえば、ある無文字社会では、王様のみ近親婚が許されていたりします。

 聖なる存在だけが、「禁止」のラインを突破できるのでした。


 ゆえに、ふれてはいけないものに、ふれる、「侵犯」=「祝祭」は、聖性を帯びるのです。「禁止」という名のリミッターが解除される時間は、聖なる時間です。その聖性の内側においてのみ、「禁止」を踏み越えることが許されているのです。


 もう一度最初から別の表現を用い、語り直してみましょう。


 人間は「禁止」の設定により、人間になったはいいが、それは檻の中にいるのと同じ。檻の中は大変息苦しい。ただし檻を壊せば動物に戻ってしまいます。

 いえ、厳密に言うと、檻を壊しても動物にはなれません。そこにあるのは動物的安定ではなく、むしろ錯乱した人間的カオスの世界ですから。


 檻の中の息苦しさは、溜まる過剰なエネルギーと化し、その捌け口を求めるようになります。消尽が、必要なのです。

 そこで、一時的に、限定的に、檻の扉が開きます。それが、侵犯です。

 侵犯は動物性への回帰ではありません。繰り返しになりますが、人間は動物にはなれません。本能が、壊れています。

 それは動物化ではなく、動物になることではなく、こういってよければ人間が人間という枠組みを(一時的にせよ)超えることです。

 人間が人間をやってることに耐えかねて、人間という殻(禁止)をブチ破り、自らの外延を拡張することです。


 また、そこにあるのは、「いま」という瞬間の恍惚です。

 「未来」とは、現在を我慢することで豊かになっていくものです。たとえば、遊びたいのに勉強するのは、未来志向です。ここには、遊び(いまを消費すること)の「禁止」があります。

 しかしその「禁止」は、「侵犯」において抹消されているのでした。

 「侵犯」の時間とは、未来志向でも、逆に過去志向でもなく、そこには「いま」があるだけです。

 

 そしてそれは、エロティシズムの時間(体験)でもあります。


 エロティシズムとは、‘ぼくとあなた’の間におけるエッチな行為、ではありません。あらゆる「禁止」がとっぱらわれて、「いま」しかない恍惚の中で、‘ぼくがぼく自身の殻を打ち破っていくこと’です。


 ここでバタイユは、①個人的な愛、②神への愛、③制限のないエロティシズム、の3つを挙げています。


 ①個人的な愛では、‘ぼくとあなた’との間にある垣根がとっぱらわれます。一体感、融合、そして恍惚。二人の関係は「消尽の共同体」であるとバタイユは記します。また、喜びに満ちた「幸福な消尽」とも。ベタな表現ではありますが・・・・・・


 簡単に言いますと、愛し合う二人のベッドでは、何も「禁止」されておりません。すべてが許されている。だからといって、ケダモノとか、動物に堕ちた、ということでもありません。

 ’愛だろ! 愛!’ それは、聖なる時間。

 あらゆる「禁止」がとっぱらわれて、せき止められることなく奔流しはじめた過剰エネルギーが、「閉じた二人の幸福な共同体」の内部で、言ってしまえば自閉的に消尽されていきます。

 ただしこのとき、「禁止」のないリミッター解除された世界の中で、’ぼくとあなた’を隔てる境界線(それもまた禁止/なぜなら、あなたの身体にふれることは侵犯でしょう)も溶けて、バタイユは「総体」とか、あるいは「宇宙」なんて言葉も使っていますが、’ぼくとあなた’は融合し、一つになりながら、ぼく自身はというと、’ぼく’という殻を内側から突き破っていきます。

 ’るーららー、宇宙ぅの、風になるぅ’

 これはもう、インドの後期密教とかなり似てるなとは思うのですが、自己存在の超克、と言ってよいでしょう。


 とはいえ、当たり前ですが、そこまでエッチ(愛)に期待するのは期待しすぎでしょう。相手があってのことなので。しかも、バランスというものがあります。片方が巨大な消尽を求めすぎて(激しすぎて)、片方がついてけない、ということは普通にあるでしょう。


 そこで、②神への愛、というのがでてきます。

 しかしバタイユは、神への愛が、容易に神への服従に転化してしまうからダメだな、とも記しています。

 そもそもバタイユは、人間が何かの手段と化してしまうことや、奴隷と化すことを嫌います。資本主義の奴隷になることも、生産のための手段(労働者)になることも嫌います。当然、神の下僕になることも嫌います。

 人間は自己自身を目的としているべきなのでした。


 そこで最後に、③制限なきエロティシズム、というのがでてきます。


 これが、3作目の『至高性』と密接にからんできますので、続きは次回としましょう。


 ただし、一つだけ付言しておきます。

 バタイユが、なんとかして「世界最終戦争」という軍事的消尽を回避しねぇとな、と考えていたことについては繰り返し述べました。

 それには、人々が軍事的でないカタチで過剰なエネルギー(暴力性)を消尽しないといけないわけです。

 さて、上記してきたことを、ぼくは「エロティシズム的消尽」と呼称することにしますが、ある意味当たり前のことですが、この「エロティシズム的消尽」によっては戦争は回避できない、と、バタイユは記しています。


 みんなが「エロティシズム的消尽」に没頭してたら世界が救われる、とするのは、たしかにヘンな話ですね。

 『エロティシズムの歴史』の中で、結局バタイユは、マーシャルプランのような「富の贈与」、経済力のある国から乏しい国への無償贈与を推奨しており、これが、軍事的消尽を抑止する処方箋だ、としています。

 なんというか、わりとあっけない結論ですね・・・・・・

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