8 資本主義的消尽

 資本主義とは何でしょうか?

 ぼくはそれを「運動」だと把握したカール・マルクス(1818-1883)の見方を採用したいと思います。もっとも、マルクスは「資本主義」なる概念をほとんど使用しておりませんが。

 

 資本主義が「運動」だとするなら、それはどんな運動なのでしょう。

 ズバリ、資本の運動です。

 ちなみに、資本とはお金のことではありません。

 お金は、貨幣です。


 資本の運動とは、資本が増殖していく、拡大していく運動のことです。

 『資本論』では、有名な、 G-W-G’ という定式により語られているものですが、話しが冗長になるため、ここではふれません。


 バタイユが近代社会に見出した消尽の、もう一つの形態は、資本主義です。資本の増殖運動です。


 資本とは、いわば使用(消費)を「禁止」された富であり、その富を、未来を先読みし、前のめりに「投資」していくことで、増殖を狙っていきます。


 つまり資本主義とは、未来へ向かって富を消尽していくスタイルなのです。ただし、それは将来的に、さらなる富の増加として跳ね返ってきますが・・・・・・

 ところが、です。

 その増殖した富を、さらに未来に向かって投げ返します。

 つまり、延々と消費(消尽)が先送りされていくことにより、富を消尽するという、それまでにない新しい消尽パターンが、資本主義なのです。


 バタイユは、マックス・ウェーバー(1864-1920)の『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1920)を参照しつつ、中世的な、ローマ・カトリック教会的な、いわば「宗教的消尽」がプロテスタンティズムの台頭により否定された、と見ます。


「瞑想という無為、貧者への施し、祭事と教会建築の輝きは、わずかな価値すら持たなくなり、逆に悪魔の兆候とみなされた。ルターの教説は、資源を強烈に蕩尽する体制への完全な否定なのである」[酒井訳、P185]


 また、ウェーバーは、プロテスタントの中でも’禁欲的に節制して職務に励むことが神に選ばれたる者の証である’と考えるカルヴァン主義が、とりわけ蓄積を是とする資本主義的精神の土壌になったとしていますが、バタイユもこの考え方に依拠し、「宗教的消尽」に代わり、「蓄積」志向が芽生えた、とします。


 もちろん、ウェーバーのこの宗教社会学的な分析に、疑問を呈する論者もいます。しかし長くなるので、割愛します。本筋から逸れますし。


 歴史学的あるいは社会学的分析はさておき、バタイユは、繰り返しになりますが、使用(消費)が禁止された富を、未来へ投げ込み(投資し)、結果、それがさらなる富の増殖をもたらすにしても、それをさらに未来へ投げ込む、そのような、延々と辿り着くことのない終着駅へむかっての富の(使用の)事実上の破棄、そこに、いわば「資本主義的消尽」のカタチを見たのでした。


 さて、明らかにバタイユから影響を受けて、佐伯啓思さんが『「欲望」と資本主義 終わりなき拡張の論理』(講談社現代新書、1993)を書いています。今となっては内容が古くなっていますが、読んで損はしないものと思います。


 佐伯さんの立論は、簡単に言いますと、資本主義とは、つねに欲望のフロンティアを開拓し、そこへ投資し、利潤を回収していく無限運動だ、とするものです。

 また、その運動も、いわばVer.1.0と、2.0があり、それぞれ「外爆発」「内爆発」と呼んでいます。


 「外爆発」とは、西洋諸国の対外進出を指します。それは、外世界がもつ金銀などの資源を狙ったり、貿易による利益を狙ったりしたものでした。その結末が、周知のとおり、帝国主義であり、植民地主義であり、第一次ならびに第二次世界大戦でした。


 この資本主義1.0=外爆発では、「資本主義的消尽」と「軍事的消尽」がセット販売されてしまったことが重要です。

 資本主義的消尽により、逆説的に膨らんでしまった富が、結局は、世界戦争という「軍事的消尽」に帰着してしまったわけです。


 バタイユは『呪われた部分』の中で、現在進行している「東西冷戦」が、アメリカにせよソ連にせよ、同様にして、産業主義的な「資本主義的消尽」へ向かっていることを鋭く洞察しています。


 ソ連についていうと、いつか遠い遠い遠い将来やってくるであろう「共産社会」、そこでは、人間に対する人間による搾取、つまりは相互暴力がなく、高度に産業が発達しているため、あまり働かなくても豊かに暮らせる、なんていう「共産社会」の実現を目指し、いまは我慢して「蓄積」に励め、とされる。

 ソ連は一個の工場となり、無意味な消尽は許されず、社会を挙げての「蓄積」体制が敷かれる。高高度な産業社会化を目指して。


 また、アメリカについては言うまでもなく、前述した資本主義的「蓄積」体制が敷かれているわけです。


 となると、結局のところ、その終末にあるのは「軍事的消尽」=世界最終戦争なのではないか、と、バタイユは怖れます。

 そんな中、バタイユが注目したのは、第二次世界大戦の後でアメリカが行った富のほぼ無償贈与=マーシャル・プランでした。

 バタイユの発想は半ば無文字社会に回帰し、資本主義的に沸騰した富については、無償贈与で消尽し、それにより「軍事的消尽」を回避せよ、といった短期的処方箋を示します。


 それはさておき、ソ連については、いわば「対抗贈与(ポトラッチ)的消尽」により、「軍事的消尽」へ着地することなく終わりました。それについてはすでに書きました。


 さてアメリカというか、資本主義諸国についてですが、それは「外爆発」から「内爆発」へ折り返すことで、「軍事的消尽」が回避されていきます。


 「外爆発」的資本主義1.0では、外的世界への進出がベースとしてあったため、同じように外的進出を求めた諸国との衝突、ぶつかり合いが起きてしまいました。

 しかし第二次世界大戦の後は、いわば外的世界へ進出するのではなく、内的世界を開拓します。 

 内的世界とは何か。

 GDP(国内総生産)です。

 あるいは、経済成長です。

 経済成長という概念、あるいは神話は、第二次世界大戦中に準備されていました。(詳しくは、アンドリュー.J・サター『経済成長神話の終わり 減成長と日本の希望 』中村起子訳、講談社現代新書、2012)


 戦後は、モノやサービスを売りつける先が、外の国ではなく、自国の消費者になっていきます。それが諸国にいわゆる「高度経済成長」をもたらしました。

 高度経済成長のロジックについては、フランスのレギュラシオン経済学派が見事な分析をしていますが、要するに、「大量生産-大量消費」の回路が国内に誕生した、ということです。

 労働者の賃金は上がり、上がったからモノやサービスが買える、モノやサービスが売れるから企業の収益が増え、労働者の賃金UPにも還元される、還元されるからますますモノやサービスが買える、という好循環のサイクルですね。


 生活水準の向上と、連動して膨らんでいく(消費者の)需要が、資本主義的投資を投じる「欲望のフロンティア」と化したわけです。

 人間の欲望は無限です。

 その無限なるフロンティアへ、富を消尽していく。

 この「消費資本主義」の誕生が、このパターンの消尽が、「軍事的消尽」を回避させた、と言えそうです。


 わかりにくいですか?

 ちょっと、たとえ話をしてみましょう。


 教室のイジメの話に戻ります。

 教室では、誰か「印」のあるヤツを徹底してみんなでイジメることで、’ぼくらの共同体’の平穏は護られたのでした。ここでは、相互暴力が解消されています、が、誰かが生贄になっています。

 「消費資本主義的消尽」では、違ったやり方をします。

 ’俺、ロレックスの腕時計もってんだぜ’

 ’俺、ベンツに乗ってんだぜ’

 ’俺、軽井沢に別荘もってんだぜ’

 と、暴力性、あるいは相互競争性、と呼び変えてもいいのでしょうが、過剰なエネルギーは上へ、上へ、ともっていかれます。上昇志向、上昇運動!


 つまり、相手よりも高価なものを「消費(消尽)」していることにより、相手の優位に立つ、という競争が生まれます。


 ここでは、イジメられてるヤツは、たとえばこう考えます。

’いまに見てろよ。ぼくちゃんは勉強して、東大に入って、大金持ちになってやるんだ! いずれ、おまえを見返してやる’

 これが、「消費資本主義的消尽」のロジックです。

 相互暴力性、競争、が、上へ上へという過剰消費の運動、上限、天井のないスパイラルに巻き込まれていくのです。

 また、ここでも例にとって例のごとく「禁止」が現れます。

 イジメられてる’ぼくちゃん’は、当座、その場で殴り返すことを「禁止」されています。やり返さない。やり返すのは、10年後、あるいは20年後・・・・・・と、先送りにされています。’ぼくちゃん’がすることは、たとえば、お勉強。つまりそれは、未来への「投資」です。

 

 繰り返しになりますが、資本主義的消尽は、つねに未来を指します。


 教室の平穏は「生贄」によって保たれますが、生贄にされた者は、対抗暴力を起動させることなく、我が身に「禁止」し、そのエネルギーを未来へ向けて「投資」することにより、必然的に、資本主義という名のメガマシーンのパーツと化します。


 初期資本主義とユダヤ人とか、資本主義と「抑圧された者」「迫害された者」との関連性がしばしば語られますが、たとえ話で言い換えるなら、つまりはそのようなことです。


 さて、このような「消費資本主義的消尽」が現在、世界的に行き詰っていることは周知のとおりです。

 というのも、いよいよ需要が飽和してしまい、「欲望のフロンティア」がどこにあるのか容易には見いだせなくなっているからです。

 「欲望のフロンティア」を見失うと、「消費資本主義的消尽」というパターンが持続不可能となります。

 となると、代替品としての「軍事的消尽」あるいは「宗教的消尽」が台頭してくることになります。

 近年、紛争や宗教的原理主義など、きな臭い雰囲気が蔓延しておりますが、バタイユが提起しているとおり、人類史は、基本的に、


(1)宗教的消尽

(2)軍事的消尽

(3)資本主義的消尽


の3パターンしか保持していないとするなら、資本主義が停まると、軍事や宗教が俄然勢いを増してくるのは道理なのかもしれませんね。


 さて、先を急ぎすぎました。

 次回は、「消費資本主義的消尽」の行き詰まりについて、もう少しだけ踏み込んでみましょう。 

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