第14話 これは幸せな時間?

…………び、びっくりした。

シャルル様に口付けられたと思った。


右の頬に触れた柔らかいものの正体は、清潔感のある白いハンカチだった。

真っ白のハンカチからは、シャルル様と同じ優しい香りがした。


「果汁が飛んでしまったのか……白い頬が汚れてしまっていますよ」

シャルル様はニコリと微笑むと、私の右頬――カージナス様に、口付けられた辺りをゴシゴシと拭いはじめた。



シャルル様を見上げながら見開いた瞳を数回瞬かせると、シャルル様が急に慌てだした。


「あ、もしかして痛いですか?」

「い、いえ、大丈夫です」

私は首を横に振った。


絹のように滑らかで柔らかいハンカチは、ゴシゴシと拭っているはずなのに、羽にでも撫でられているように擽ったかった。


「擽ったいだけですわ」

「良かった。それなら、ほんの少しだけ我慢していただけますか?」


私の返事を聞いたシャルル様は、安堵の溜息を吐きながらはにかんだ。


きっとシャルル様は、泣きそうになった私に気付いて、気遣ってくれたのだと、思う。


「ありがとうございます。ハンカチは洗ってお返しいたしますね」

「そんな……別に、洗わなくても」

「いえ、洗わせて下さい」

私はシャルル様からハンカチを受け取ると、両手でギュッと握り締めた。


シャルル様の本心は分からないけれど、私を思ってしてくれたであろうその心遣いが、純粋に嬉しかったのだ。


「では……よろしくお願いします」

「はい。大切にお預かりさせていただきます」

シャルル様を見上げて微笑むと、シャルル様も微笑んでくれた。



「…………あのー、殿下。大変失礼なことを申し上げますが……もしかして、うちの坊ちゃんは――」

「ああ、そうだ。嫉妬なんかしてないで、さっさと私から奪えば良いものを」

「……ご冗談を。殿下相手に、流石にそれは無理というものでしょう」

「分かっている。そのくらいの気概を見せろという意味だ」


カージナス様とロイさんが苦笑いを浮かべながらこちらを見ていたことに、私とシャルル様は気付いていなかった。


***


訪れたワイナリーで、一泊することになった私達一向は、夕食会にお呼ばれをしていた。


――泊まるなんて知らされてなかったのに、ナイトドレスや寝着などのその他諸々が、ちゃっかり用意されていたことに、驚いたのは余談である



「私が悪かった!……だから、そろそろ機嫌を直してくれないか?」

「カ、カージナス様!?頭を上げて下さい!」



昼間にされたカージナス様の悪ノリに、涙が出そうになるくらい憤ったことは事実だが、一侯爵家の娘ごときが、公衆の面前で王族に頭を下げさせるなんて、大問題である。許す、許さないは別として。


……唯一の例外は、ミレーヌだ。

王族に連なる公爵家の姫なのもあるが、カージナス様は、ミレーヌが可愛すぎて、いたずらをしてしまうのだそうだ。


怒ったミレーヌを宥めるために、カージナス様が嬉しそうな顔で土下座をしている姿は、今や王宮で日常茶飯事になっているとか、いないとか。


一見、ドM的な行動だが、その心は……カージナス様に土下座をさせるだなんてと、オロオロするミレーヌの困った顔が見たいだけのドSである。

好きな相手の泣き顔に異様に興奮するタイプの変質者である。


「では、私からの詫びの品を受け取ってくれるかい?」

「うっ。そ、それは……」


カージナス様の言う『詫びの品』とは、このワイナリーで一番の人気を誇るスパークリングワインをそれもなんと――二十本も、だ。


……これを受け取ってしまったら、頬チューを許したということになってしまう。

頭を下げられるのも困るが、頬チューを簡単に許したくない……というのが私の本音である。


今はその一番人気のスパークリングワインのノンアルコール版をいただいているのだが、オルフォード領の特産ワインに劣らぬ逸品である。


アルコール入りの本物も早く飲んでみたいものだ。


濃厚な葡萄の甘味と酸味。それらを弾ける炭酸が爽やかにまとめてくれている。幾ら飲んでも飽きない見事な美味しさだ。


オルフォード辺境伯が、ワイナリー事業にただならぬ拘りと情熱を持っていることが実感できる。


……視察、楽しかったな。

広大な葡萄畑に、生産工場。

それら全てが私の目には真新しくて、そしてとても興味深かった。


大好きなワインの製造に、今後の全ての時間を費やして生きていくのも悪くはないと、思った。

断罪されて居場所がなくなったら、ここで雇って貰おうかなと、九割ほど本気で考えている。


……何故だろう。グラスの中のスパークリングワイン(ノンアル)が一向に減らない。


と、思っていたらその原因は、カージナス様のせいだとすぐに反面したものの。

中身が減る度に、カージナス様が自らお代わりを注いでくれるものだから、飲まないわけにもいかず……。

更には、ノンアルのスパークリングワインだったはずなのに、通常のアルコール入りのワインに変わっていたという事態へ。

(アルコール飲料の強制は駄目、絶対!!)


「詫びの品は、必ず邸に届けさせるから」

「……はーい」


すっかりでき上がってしまった私は、ふわふわと揺れる思考のままに大きく頷いた。


酔った勢いで、渋っていたはずの件を了承してしまったような気がするが、私に判断能力は残っていなかった。


この状態でベッドにダイブできたら……どんなに幸せか……!

酩酊感の心地良さの中、想像するだけでうっとりしてしまう。



「ローズはかなり酔っているみたいだな」

「殿下のせいですよ」


ニコニコと可愛らしい微笑みを浮かべながら、左右に頭を振っているローズを眺めがら、カージナスが苦笑いを浮かべている。


「止めなかっただろ?」

「……止めさせなかったのは、殿下でしょうに……」

シャルルは、大きな溜息を吐いた。


普段のローズも可愛いが、酔ったローズは更に可愛らしさが増す。

自分以外の誰の目にも触れさせたくないと思うのに……大好きなワインをあんなに嬉しそうに飲んでいるローズの邪魔をしたら、可哀想だと思った結果――カージナス達に、酔った姿を見せてしまうこととなった。


「話には聞いていたが、これはだな」

「……何が言いたいのですか?」

ククッと笑いながらワインを飲むカージナスに、シャルルは警戒心を強めた。


「普段は、妖精か聖女のように清らかで可愛らしい見たをしているくせに、酒が入るとガラリとその雰囲気を変え、妖艶で危うい魅力が現れる。この変わり様に本気で魅了される者が出てくるぞ」


……そんなの改めて言われなくとも、分かっている。そもそも、お酒が入っていてもいなくても、ローズは十分に魅力的なのだから。


「……睨むなよ。そろそろ本気を出さないと危ないぞ。という、アドバイスだ」

「余計なお世話です。それが出来ないのは、誰のせいですか」

シャルルの言葉と瞳に、険が混じる。


できることなら、このまま誰の目にも触れさせたくない。一生自分の側で笑っていて欲しい。

 

シャルルの中のローズに対する気持ちは、日に日に大きくなっていた。

――あの時。ローズの頬に口付けたカージナスを殺してしまいたいと思うほどに。 


ローズの様子を見るからに、初めての行為だことが分かった。それを……。


全てがカージナスの手の上で踊らされているようで面白くないが、シャルルは敢えて何事もないという風を装って、微笑んだ。


「男の嫉妬は怖いな」

カージナス様はやれやれとでもいう様に、両手を広げながら口元を歪ませる。


「ご自分のことですか?」

「さあな。……まあ、ローズと一緒に外の風に当たって来ると良いさ」

「……二人で、ですか?」

「何か問題あるのか?私が『良い』と言っているのに」

カージナスは瞳を細めながら微笑んだ。


この顔をしている時のカージナスは、絶対に意見を変えないということを、シャルルは長年の付き合いで理解している。


「今のローズは目の毒だ。さっさと連れて行け」

カージナスは、シャルル達を追い払うように手を振った。


「……分かりました」

大きな溜息を吐いたシャルルは、ローズの元に歩み寄った。


――面白くない。


カージナスの許可がなければ、ローズを外に連れ出すこともできない今の状況がとても不愉快だった。

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