2.言質

「おはようございまあす」


ちょっとだけ間延びした、どことなく掴みどころがない声。薄いブラウンのショートヘアーとシャープな輪郭、ぱっちりとしたタレ目が若さを象徴する。一見どこかのモデルさんかと勘違いしてしまうかもしれないが、彼女も立派な保育士だ。


白いパーカーの上に着たピンク色のエプロンには『うめだ じゅり』とワッペンがつけられている。


「ジュリせんせー!」


まるでアイドルのライブ会場にいるみたいに黄色い声が響いた。男女関係なく、ばたばたと珠莉じゅり先生のもとに駆け寄るくわがた組のみんな。


「せんせい、これ見て!」

「あのね、きのうの夜ね、お兄ちゃんがね」

「きょうの朝にやってたテレビ、すごかったんだよ!」

「せんせー、ブロックで恐竜つくったー」


それぞれが思い思いの報告を投げつける。

珠莉先生は手に持っていた数冊の絵本を頭上に掲げ、足元を視認できるスペースを確保した。我先にとレスポンスを欲しがる姿はエサを求めて群がる鯉のようだ。もちろん、このたとえに悪意はない。


「おうおう、どうしたどうした。同時に話しかけられても先生わからないよお」


ひとりひとりに返事をすることはいったんあきらめたのか、なおも一斉に言葉を放つ子どもたちに周りを囲まれながら、僕のもとへ近づいてきた。なんだか小さな台風みたいだ。


「はいはい、ちょっとだけ待っててね。いまシュー先生と大事なお話をしなきゃだから」


そう言うと、子どもたちは素直にその場を離れて先ほどまで遊んでいた場所に戻っていった。理由を言えば従う素直さは、この年齢の幼児ならではだろう。


僕が見ていた書類の横に、持っていた絵本を置いた珠莉先生は「おはようございます」と改めてあいさつをした。


「ジュリ先生も三か月しか経ってないのにさばき方が手馴れてきたね」


「一番近くにいいお手本がいますから」


ふふっ、と微笑んだ顔と声色は子ども相手に見せるそれとは違って大いに大人っぽさを含んでいた。



同じくわがた組の担任としてタッグを組んだ彼女は短期大学を卒業したあと、今年の四月に採用されたばかりの新人で手際のいい仕事ぶりあってか熟年層のベテラン先生たちからは『ゴールデンルーキー』とのお墨付きをいただいている。もしかしたら首席じゃないかとか、割と可能性が高そうな憶測が職員の間で飛び交っているけど珠莉先生本人は否定も肯定もしていない。


現状、四年制大学卒で彼女より四歳年上の僕が指導役を任されているが、はたから見ればどちらが指導されているのか分かったものじゃない。


「このあいだ言ってた絵本の修理、やっておきましたよ。あと、市役所に送る食育推進活動の調査書も打ち込み終わったので、休憩の時に確認してください」


やっぱり、僕なんかよりもずっと仕事ができるんじゃないか。僕が去年同じ書類を作った時には郵送期限ぎりぎりに終わって、同じ食育担当の先生と事務の先生に怒られたのに。まだ期日まで一か月もあるけど、もう終わったというのか。


「ありがとう。いつも早くて助かるよ。……そうそう、ちょっとこれ見てほしいんだけどさ」


僕は出欠表のとある名前を指さして、そのまま横に滑らせた。


「ユリちゃんが来週から丸々一週間休みらしいんだけど、お母さんからなにか聞いてる?」


五百木いおぎ由梨ゆりと書かれた枠の右横に長い矢印が横たわっていた。この日からこの日までは欠席というサインだ。


当のユリちゃん本人は今日も黙々と絵本を読んでいた。


少し癖のある黒髪、白いブラウスに黒のスカッツを身に着けた姿はほんとうに五歳かと疑いたくなるほど、このクラスのなかでも大人びている。


七月のこの時期は家庭によって保護者が会社からはやい夏休みをもらえるところも稀にあるため、長期にわたる欠席というのも時折見られる。どのような経緯で保育園を休むのであれ、一応は欠席理由を記録しておく必要があるのだが五百木由梨の備考欄は空白のままだった。


「えっと……確か小学校の説明会かなにかで遠出するとか言ってました。ユリちゃんのママもなんだか言葉を濁してるみたいで、いまいち言質が取れなかったので改めてシュー先生のほうから確認してもらうほうがいいかなと」


「小学校の説明会?近所の小学校の入学説明会って確か年明けとか、だいぶ先じゃないの?」


「いえ、話によると県外の私立小学校らしくて」


ああ、そういうことか。


いま保育園に預けられている園児はほぼ全員がこの地区の小学校か、遠くても隣町にある公立小学校に入学する予定だ。幼稚園に通う子どものなかにはちらほら私立小学校に進学する子もいるようだが、昨今の「お受験ブーム」の熱は保育園界隈にはあまり浸透していない。


それもそのはずで、一番の原因は家庭の経済事情だろう。両親が共働きで今後必要な養育費用を稼いでいるからこそ、その間に子どもを預ける必要があるのであって本格的な教育は小学校に入ってからでも全く遅くない。知識を教え込ませるより、まずは我が子にあたたかいご飯を食べさせることを最優先事項に据えることは親として当然の選択である。


しかし、幼児期から熱心な教育をする家庭も時として保育園に子どもを預ける場合がある。それは進学費用を貯めるためだ。公立学校は授業料こそ無料だが、もろもろの事情を鑑みると六年の在学でおよそ百万円かそれ以上の学費がかかると言われている。私立ともなれば、学費はその何倍にも膨れ上がり財布を圧迫すること必至だ。それならば稼ぐべき時に稼がなければ子どもを良い学校に送り込ませることができない。そう考えて保育園に預け、親は職場に向かうのである。



「それにしても一週間の休みって、いったいどれだけ遠くの学校に行くつもりなんだろうね」


「たぶん北海道じゃないですか。ユリちゃんのパパがそっちの生まれらしくて、向こうにいい学校があるとか話してましたし」


「ほっかいどう!?」


思わず素っ頓狂な声をあげてしまった。それを聞いたくわがた組の子どもたちが一斉に僕のほうを見る。これまたずいぶん遠くへ行くものだ。ここだって都心からはだいぶ離れているけど、ベッドタウンとして栄えているのに。



「でも、なんか聞いたことがあるな。ユリちゃんのお父さんって北海道に牧場を持ってるとか、カコ先生が言ってたかなあ……」


「そうです!昨日の中遅番なかおそばんがカコ先生と一緒だったので、ユリちゃんママの詳しい話はカコ先生も聞いていたと思います」



「わかった。あとで聞いてみる」




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