1.プレゼント

 保育士になってからはや二年。



 この生活スタイルにもようやく慣れてきた。

 意気揚々と早朝の七時に園舎のカギを開け、昼過ぎの三時に帰宅する日もあれば、眠い目をこすって昼前十一時にやってきて、夜の八時すぎまで保護者のお迎えを待つ日もある。クラス担任以外の職務すべてが日替わりの当番制を敷いている甘平あまひら保育園で唯一の男性保育士として、なにかとあてにされやすい。


 十畳の職員室―ボロアパートのワンルームみたいな部屋だけど―に所狭しと並べられたロッカーの前で深呼吸を一つ。これは僕の毎日のルーティンだ。昨日の夜に吸収したアルコールをいっぱいに含んだ呼気を園児に浴びせてはならない。馴染みの味を胸いっぱいに吸い込み、肺にたまった空気をストレスと一緒に吐き出した。


「あっ、あしたはカコ先生も遅番か」


 目線の先にあるロッカーに貼られた当番表には『(二十五日)遅番担当:奈貝ながい修輔しゅうすけ古田ふるた加夜子かよこ』と書いてある。


 加夜子カコ先生は四歳児クラス・あげは組の担任で、自分よりも五歳年上だけど子どもたちに負けず劣らずのあどけない笑顔が魅力的で保護者や職員、さらには役所のお偉いさんからの評判も高い。


 すこしだけ気分が高揚し、軽い足取りでくわがた組の部屋へ向かう。園舎のなかは朝八時過ぎだというのに、すでに多くの子どもが登園していてあちこちでがやがやと騒がしい様子だった。もちろん、担任しているクラスも例外ではない。


「シューせんせい、おはよー!」


 部屋に入るなり、リュックサックを背負った女の子が屈託のない表情であいさつをしてきた。どうやら今しがた来たばかりで、女の子のうしろでは母親とみられる女性がせかせかと園児の着替えの衣類を入れるプラケースのなかに子供用の服を詰め込んでいた。


「マキちゃんおはよう。あれ、その髪、ママに結んでもらったの?」


 普段はツヤのある髪になにも手を加えていなかったマキちゃんが、今日は二つ結びの髪型だった。些細な変化でも見落とさずに、それをネタに子どもの話を聞く。大学の授業や先輩保育士から学んだことだ。


「そうなの!見てこれ!昨日ママに買ってもらったんだ!」


 そういって僕に背を向けた彼女は器用にイチゴのストラップがついたヘアゴムを指さした。相当気に入っているのか、今度は二つ結びの片方をほどき小さな手のひらにヘアゴムを乗せた。


「ああもうマキ、それ勝手に取らないでよ」


 自分で結べなくなっても知らないからね、とマキちゃんのママが嘆いた。そう言いつつも、手招きをして膝の上でまた髪を結びなおしてあげる姿はどこか嬉しそうだった。親子はこうあるべき、とまでは言わないけど、こうあってほしい、そんな光景だ。


 再びママから髪を結んでもらったマキちゃんは黙々とレゴブロックを組み立てている友達を認めると、ひょいとそちらへ行ってしまった。


「そうだ、奈貝先生。マキのことでちょっと……」


「どうかしたんですか?」


 突然神妙な面持ちで声をかけてきたことにすこしだけ嫌な予感がする。すると、肩にかけていたトートバックからタオルを取り出した。正確に言うと、タオルに包まれた何かだ。


「これなんですけど…」


「わっ、これは……コップ?」


 タオルから顔をのぞかせたのは茶色い湯呑み。どうやら陶芸の焼き物のようだ。側面には爪楊枝で彫ったのだろうか、ネコやハートの模様、そして人が二人描かれていた。何の脈絡もなく渡された焼き物を唖然としながら眺めていると、マキちゃんのママが経緯を説明し始めた。


「うちの旦那が最近陶芸を始めたんですけど、どうやらマキもそれに刺激されちゃったみたいなんです。そしたら自分でデザインしたこれを奈貝先生にあげたいーって聞かなくて……。ちなみに、こっちがマキで、こっちが奈貝先生だそうです」


 側面に掘られた僕とマキちゃんはにっこりと笑っていた。よくここまで器用に描けたなあ。


「やっぱりいまの歳ぐらいの子どもは大人のマネをしたがりますもんね。お父様のことなら尚更ですし」


 一言話すごとに「うちの子がすいません」と謝っているが、やっぱり表情はどこか微笑んでいる。そりゃ我が子が一生懸命、他人のために何かを作ることを本心で嫌がる親なんているまい。


「ありがとうございます!ありがたく使わせてもらいます!」


 もちろん、もらう僕だって悪い気は全くしない。かわいい教え子が作ってくれたものをだれが無下にしようか。 マキちゃんがデザインした焼き物は茶褐色で、触るとザラザラと細かい乾いた粘土の粒が指につく。湯呑としては使えそうにないから、ペン立てとして使おう。そう思い、子どもたちの手の届かない棚の上に置いた。あとでくわがた組のみんなに紹介するためだ。


「マキ、じゃあママもうお仕事に行ってくるからね。このあいだ作ったコップもちゃんと奈貝先生に渡しておいたから」


 用意を終えたマキちゃんのママはそう伝えると僕に会釈をして保育園を後にした。それにしても五歳にして陶芸か。最近の子は渋いなあ。


 自分もそろそろ後継ぎをつくらないと奈貝一族が危ういな、と思いつつ園児用のロッカーの上にある出欠表に目を通した。八時半過ぎとなればクラスの半分以上が登園してくる。いまも部屋のなかはがやがやとしていて、子どもたちも元気いっぱいだ。うれしいことに変わりはないが、朝は血圧が低い人間には少しきつい場所だろう。子どもは元気なのに連れてくる親がふらふらしている日も少なくない。それくらい―思っている以上に―育児は大変なのだ。


 ひとりひとりの出欠情報を確認していると、ある人物の欄に違和感を覚えた。それと同時に、部屋のドアが開く。




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