ベオグラード・メトロの子供達1話

@reizouko

第1話



 マグカップの側面に印刷されたニコラ・テスラの額は、カフェインが染み付いて茶色く濁っている。若く黒々とした髭が蓄えられている小さな肖像に、コーヒーがしわを加えていく。シズキがマグカップから唇を離すと額にもう一筋流れた。

 彼の口蓋に渋が張り付く。

 舌で舐めると乳脂肪分を含む膜のようなものが感じられる。

 「では、君は昨日家にいて、外出はしていないと言うつもりだね」

 「何度もそう言ってるじゃないですか」

 シズキはカップに垂れたコーヒーのしずくを舐めとるふりをして教頭の表情を伺う。明らかに、目の前にいる生徒の取り扱いに困っている。教頭はシズキから目を離し、Macのディスプレイを見た。右手の人差し指でマウスを動かして画面を追った。それから再び生徒に向き直る。そこにデジャンの顔写真があったら少しまずいな、とシズキは思った。冷房は十分に効いているのに、教頭の出っ張った額には汗が浮かんでいる。魚のような両目に威厳を保とうとしているのが丸わかりだ。

 「ミシェルは昨日、君を共和国広場で見かけたと言っている」

 「見間違えたんでしょう。ミシェルは目が悪いから、夜は男と女の区別もつきませんよ」

 「ネデルカも一緒だったと」

 「あいつは夜出歩きません。親戚の世話をしなきゃいけないから。なんなら今電話をかけて確認したらどうですか。それに昨日の夜、アパートの住人が僕を見ているはずです。1階のネナおばさんに聞いてみてくださいよ、午後5時ごろ僕が階段を上がるときに挨拶したはずですから」

 教頭はため息をついた。彼の座る机の後ろの窓にはアロエの鉢が置かれていて、蝿がてっぺんに止まっている。きっちり閉められた窓の外は熱気で揺れている。5分後にシズキは解放された。メッセンジャーの通知が入っている。

 写真が一件。鼻血を流したミシェルの横顔。


 夏のベオグラードをほっつき歩くのは自殺行為だった。長い長いショッピング通りの石畳では目玉焼きが焼けるだろうし、だから女たちは高いヒールを履いているし、底の薄いスニーカーを履いたシズキの体力は限界に達していた。早く、どこかに入らないと。確かに人通りは多い。だが、皆散歩しているわけではなく、目的地へ向かっているのだ。ナイトクラブに行く前にカフェで何か腹に入れて悪酔いを防ぐか、ZARAで新作ショートパンツを買ってそのまま装備していくか、仕事の合間にあわててサンドイッチを買いに出かけるか……シズキにも目的はあった。あいつの家はだいたいこの辺りで、ショッピングモールから美術館サロンまでふらふらしていればだいたい会えるが、もう20分も往復している。ショッピングモールで涼もうかとも考えたが、犬禁止だ。

 ネデルカは今日学校を休んだ。しかし、昨晩、飼い犬をシズキに見せたいとメッセージを受け取っていたために仕方なくこの暑い中彼女に会いに来た。彼女の言うことはなんとなく断れなかった。

 右手にMaxiを見つけ、シズキは太陽光から逃れたい一心で引き寄せられるようにして戸を押しあける。心地よい冷風が濡れた額に流れてきた。バナナ、トマト、ケールのみずみずしい棚が最初に登場。これが資本主義であると、教科書に乗っていたイメージとキャプションを思い出し、あれ、資本主義は赤かったっけ?とトマトとチトーの顔写真がダブる。暑さのせいで腹にたまるものを見ると喉のあたりがどんより重くなる。真っ先に冷蔵棚に向かう、その時、シズキは見慣れた後頭部を見つけた。

 相手もまた、彼が近づいた途端に振り向いた。

 「あ……あ、シズキ……」

 「探したぞ!」

 ネデルカはいつも通り怯えた大きな目でうなだれていた。声をかけられると、自分が咎められていると錯覚するタイプの女の子だった。彼女はシズキに口を開きかけて、さっとつぐんでしまった。買い物カゴの中にはトマトとバナナ、ケールが入っている。手に持った冷たいオレンジジュースと、小指と薬指の間に挟んだプラムをカゴに落とした。

 「犬は?」

 「パブロはお外」

 なぜか、ネデルカは少し怒ったような目をしていた。

 「気づかなかったの?パブロに?」

 「そいつはお前に似てるわけ?」

 また怯えた顔に戻った。

 「シズキ、ノヴィ・スタリ・ベオグラードに来て半年になるね」

 ネデルカはスナック菓子の棚に差し掛かると、赤のプリングルスを3本カゴに投げ入れる。

 「だから私の一番大切なお友達を紹介したかったの」

 カップヌードル、チョコスポンジケーキ、シリアルバー、スナック棚を出て、牛乳、アイス、「なあ、野菜それだけ?」ネデルカはビクッとしてカップヌードルを戻しに行き、代わりにナスと牛肉を追加した。「別に好きなもん食えばいいじゃんかよ」「おじさんはそう言うけど、私、好きなものなんかないんだもん」

 「お前の母さんはいつも何食ってんだよ」

 「なんでも食べてた」

 ネデルカはレジに向かう。

 「おい」

 彼女の泣きそうな目。

 「ポケットの中のものを出せ」

 彼女は淡々と、ガムとクラッカーをジャケットのポケットから魔法のように取り出してカゴに入れた。

 「わざとじゃないの、わざとじゃないんだよ」


 彼女の言う通り、犬はMaxiの自転車置き場の横にのびていた。この暑さでは、一番辛いのは犬だろう。

 「パブロ」

 ネデルカは買い物袋を腕にかけ、カフェオレの染みがついたようなぶち模様の犬を抱き上げた。大人しく、よく懐いている。

 「やっと紹介できた。パブロもシズキのことが好きみたいだよ」

 「にしては目も合わせてくれないけど」

 「私に似てるの。恥ずかしがり屋なの」

 ネデルカはシズキのことを穴があきそうなほどよく見つめることを、彼女自身は気づいていないらしい。

 「ホントに大切なお友達以外には、パブロを見せなかった。私が生まれた時からずっと一緒なの。……こんなこと言ったら重い?」

 「そんなことはないけど」

 ないけど、店から出た瞬間、とにかく暑かった。シズキは冷たい水を喉に流し込み、日陰に向かってネデルカを連れて歩き出した。いくら体内を冷たく洗い流したってすぐ揮発してしまうほどの熱気が、彼らをとりまく。アトリエ方面に歩けば大きな街路樹があったはずだ。ネデルカは犬を抱き上げたまま歩く。焼けたアスファルトの上を歩かせたくないのだろう。

 「今日、先生、何か言ってた」

 「呼び出されたよ。昨日俺らを共和国広場で見たやつがいるって。デジャンが見られてなければいいけどな」

 デジャン、と名を出した途端にネデルカはまた怯えだす。

 「あの人たち拘束されたって、テレビでやってた」

 「明日には自由になってるさ。犯罪自体は起こしてないんだから」

 「それにウォーターフロントの人達でしょ」

 昨日の夜は共和国広場で集会が開かれていた。内容は事前に周知されておらず、人々はレインボーパレードか地球温暖化反対集会かと勘違いし、興味本位で人の層を作った。

 実際は違った。

 「今日はそのことでデジャンに会いに行くよ」

 「……」

 ネデルカの足取りはなんとなく重い。いつもよりさらに背中が丸く、口調もよそよそしかった。

 「さっきからどうしたんだよ?」

 「もう、帰らないといけないかも」

 「ええ?まだ4時なのに」

 「おじさんが心配するかもしれないから」

 大きな街路樹が見えてきた。

 「その前に、犬に水あげたほうがいい、この暑いんじゃ危険だよ」

 ネデルカがまた泣きそうになる。

 「俺の水をやるから」

 「いいの……」

 「どうして」

 「いいから……」

 シズキはいよいよムキになってきた。

 「犬を殺す気か?大切な友達をこの暑さの中見殺しにするのか?最低なことしてるって自覚は?落とした命は二度と元に戻らないんだぞ」

 ネデルカはとうとう涙をこぼす。

 「犬を下ろして水を飲ませてやれ。かわいそうだ。動物虐待だけはごめんだね。一生良心のカシャクが付いて回る」

 彼女はまだ首を振る。

 「勘弁してくれよ。なあ、パブロと俺は友達だろ。犬の中でもパブロは特に大切にしてやりたいんだ。動物に優しくしよう。そりゃ俺は肉も魚も食べる。でも毎回地球に感謝してるぜ。とにかく水だ。水さえあげれば3人ともハッピーになるだろ。ほら」

 ネデルカは震えながら屈み込んだ。犬の頭がちょうどシズキの手のひらのあたりに降りてきた。犬はぐったりしている。シズキはパブロの顎のあたりをなで、片手を丸めて冷たい水を注ぎ込んだ。

 「ごめんな、暑かったろ」

 パブロは口を開かない。

 「どうした?」

 鼻先に水を近づけても、パブロは動く気配がない。

 ネデルカの肩が震えている。犬の頭を撫でてみる。反応はない。

 それから、指先に力を入れて、掴む。冷たい。

 シズキは水を取り落とした。

 犬は死んでいた。

 「ネデルカ!」

 彼女はわっと堰を切ったように泣き出した。街路樹の落とす真っ黒な影の中に褐色のおさげが震えている。生ぬるい日陰のコンクリートに、こぼれたビールの跡も構わずネデルカは突っ伏して、額を地面につけて嗚咽している。

 「なんてことを……」

 犬は彼女の下で物言わず目を閉じている。水を飲ませようと引き出した頭が彼女の肩の下からのぞいている。買い物袋からプラムが転がり、シズキの足元で止まった。

 彼の心臓は脈打っていた。死んだ犬に初めて触った。

 「おい、泣きやめよ。後ろの姉ちゃんが変な目で見てるよ」

 ネデルカはますます泣きわめく。

 「服が汚れちゃうよ。犬も潰れる。お墓を作ってやろうよ。これから」

 ネデルカはずっと動かずに泣いていた。彼女の髪はビールに汚れ、シズキのこぼした水にしみていく。

 「昨日」

 ネデルカはゆらゆらした嗚咽の中で言った。

 「メッセージしてそのあと。丸まったまま」

 シズキは動悸が抑えられない。

 「パブロは寂しかったんだ。気づいてあげられなかった。十字架を買うお金もない。燃やすことなんてできない。呪いだ。お母さんとかお父さんとか親戚の呪い。私はここでお友達を作ったらいけない。電気もガスもお水も持ってるからその代償に」

 「つまんねえ話ばっかしてんじゃねえよ」

 犬の口はぴったり閉じられている。

 「何が呪いだよ。十字架買う金がなんだ。墓作るぞ。夜、港駅に来い。デジャンと行く。あいつなら数秒で墓用の窪みを作れるからな。生まれた時から一緒にいるんなら、14歳だとして、老衰だろ」

 乾いた地面の石の継ぎ目に涙の川ができる。


 昨晩の集会で何もかも変わってしまった。たとえベオグラード・メトロに帰属意識を持つ奴などいないことはわかっていても。

 ドナウ川沿いの釣り堀には上半身裸の老人がうなだれて座っている。タンクトップ姿のランナーが馬のように通り過ぎていく。その向こうからがらくたを手押し車で運ぶ老女がのろのろ歩いてくる。シズキが近づいた途端、罵声を浴びせられた。彼は童顔だった。老女に怒鳴り返す。それから歩く速度を早める。アスファルトの強すぎる日光の照り返しが体力を余分に奪う。冷たいビールが飲みたい。不良たちが浅瀬でトルコのポップ曲を流してどんちゃん騒ぎしている。腹の底に低音が響く。メッセンジャーの通知がもう一度。

 目的の打ち棄てられたようなバーは川沿いの奥まったところにあった。見た目は看板も読み取れないほどの、廃屋のようなぼろぼろの船だが、夜は普通に営業している。昼はがらんどうの甲板とキッチンが哀愁を誘う。真っ暗な店内を通り、シズキは奥の物置に進む。川岸に固定されているため揺れは全く感じない。

 こんなつまんねえところ。

 物置扉を開けた。

 「元気か?」

 トイレ掃除用の箒と一緒にミシェルがバケツに押し込まれている。ミシェルの右のこめかみが殴打の後で青くなっている。彼は憎悪の目でシズキを見る。

 「田舎者」

 シズキはスマートフォンを開き、文字を打ち込んだ。暗い店内にシズキの顔が浮かび上がる。

 「お前は誰だ?」

 「驚いたな、まだ知らなかったのか」

 シズキはあたりを見回す。妙に静かだ。先に着いている人間がいるはずだが——

 ミシェルは笑った。「まあいいや」

 「本当に名乗り出たのか?」

 「それが何の関係がある。勝手に連帯意識を持たれても困るね」

 「そういう意味じゃない。俺が危惧しているのは、お前らが無理やり、望まない人たちもウォーターフロントに引き込もうとしてるんじゃないかってことだ」

 「さあ?拒否権はあるだろう。オファーは来てもね。それは君らが心配することじゃないはず」

 戸口のドアが軋む音がした。

 「来たぞ」

 ミシェルはポケットからハンカチを出して口元の血を拭った。

 「おい、動くなと——」

 突然、シズキの脇腹に鋭い衝撃が走った。

 シズキは反射的に殴り返そうとする。が、遅かった。

 「誰だ!」

 シズキの前に見知らぬ男が立っていた。男は拳を振り上げ、シズキの腹を殴った。

 「くそっ……」

 ミシェルは立ち上がり、埃を叩いた。それから川岸に続く甲板の階段に向かって歩いてゆく。

 「おい、待て!」

 前を向いた瞬間に顎を蹴られた。

 「てめえ——この——」

 視界が塞がれる。袋を被せられたのだ。「ふざけんな!」誰かの手がシズキの足を掴む。

 「待ち伏せしてやがったな!他の奴らはどこだ!離せ!」また腹に一発。身体が持ち上がる。きっとこの先には車か、もっと乱暴な奴らが待機しているはずだ。シズキは道中、しきりにメッセンジャーが鳴っていたのを思い出した。今になってようやく意味を理解する。シズキが喚く間に、数人の男たちが息を漏らすのが聞こえる。

 「ウォーターフロントに連れてくのか」

 「いや、その辺に放っとけ」

 川に落とすつもりだ。シズキは、自らの身体がますます持ち上がるのを感じる。彼の肉体ではこの男たちにかなわない。手も足も動かせない。

 両手を握る手に力が入ったその瞬間、シズキは地面に叩きつけられた。

 男たちの叫び声と悪態が辺りに響く。

「やられた!」

 シズキはあわてて顔に被さった袋をはいだ。彼を虐めた男は3人。高校生か20代手前のフリーターのような風貌をしている。一人はひょろ長く、もう一人は年相応に腕が太く、最後の一人はうなじにタトゥーを入れていた。ガラの悪い奴らだが服装は小奇麗だ。ミシェルは消えていた。ひょろ長い男の額にえぐられたような傷ができている。彼の足元には灰皿。

 シズキがこれから起こることを察して身を伏せるや否や、目の前の酒棚の底が砕け、男たちが逃げる間も無く、反動でガラス片や木片が飛び散った。棚にあらかじめ爆薬がセットしてあったかのような人為的な崩れ方だ。床に突き刺さっているのはフォーク。ナイフ。危険だ。男たちは我先へと出口に向かって走る。

 「どうなってんだ!」

 男はひっくりがえったテーブルにつまづく。バーのナプキン入れが意思を持ったように浮遊し、タトゥーの男をえぐる。

 シズキはじりじりと甲板沿いの手すりの横を這い、川岸に一目散に逃げ出した。後ろから男たちの怒鳴り声が聞こえる。シズキは振り向かず、土で固められた釣り堀を走り抜け、川沿いを手前の酒場まで突っ切った後に横のフェンスを登り、カレメグダン公園の階段を駆け上がる。下を見ると誰もいなかった。

 「おい、デジャン!」

 シズキが叫ぶと、小石が飛んできた。上に登ってこいという意味らしい。植え込みの影に隠れた低い壁に、デジャンが長身が折り曲げて座っていた。シズキの方を見もせず、背を壁にもたれかけている。

 デジャンはカーニバルで仮想しながら一歩引いたところでニヤニヤしながら見ているような人間だった。酒は飲むが踊らない。遠巻きに立ってただタバコを吸っているだけ。彼の耳には常に、BOSEのイヤホンから流れる立体的なホワイトノイズがあった。シズキは左耳のイヤホンを外した。天然パーマの黒髪の下に金のピアス、イヤホン、ワックスの痕跡が残っている。

 曲を中断されたデジャンは初めてシズキの顔を見た。痣ができた右頬と切れた口端は強い日差しの中で影になり、それほど目立たない。シズキが口を開こうとすると、デジャンが制止した。シズキはなんとなくむしゃくしゃしてデジャンの背中をはたいた。干からびたキャラメルのように日を受ける要塞から離れ、先程のバーから離れたベオグラード港駅へ歩く。ぬるい水を口に含むと血の味がした。殴られるのは慣れていなかったし、顔のどこかが痛むのは数年ぶりだった。一昨日、デジャンとミシェルが口論になったせいだ。

 「ウォーターフロントのスポーツジムで働くらしい」

 「ウォーターフロント」と「スポーツジム」をことさら嫌味に強調する。

 「あいつが一度でも川沿いを走ってんのを見たことあるか?いや、問題はそこじゃない。永遠にドロドロの腹筋マシーンでも消毒していればいい。だけど問題は――」

 「名乗り出たんだろ」

 デジャンはシズキから空のペットボトルを奪い、3m先のゴミ箱にぶん投げた。外れた。

 「奴の母親さ。母親がウォーターフロント系列に勤めてる。あいつも偽モンだった。親子で勤めれば宿舎手当が出るからな。次あいつが近寄ってきたら次の瞬間にはジムの季刊誌を持たされてることだろう」

 ベンチとゴミ箱の間に落ちたペットボトルが太陽にさらされて溶けそうだ。

 「ウォーターフロントだってさあ。どう思う。嫌だね俺は、あいつらに従属するのは」

 シズキはバックパックを心配した。スナック菓子が入っていた。彼の母親は週に1回、何かを弁解するようにスナック菓子を大量にテーブルの上に置く——Snaki、Bananko、チョコレートがけのマシュマロ——シズキと妹は無言でそれらをカバンに入れ、学校へ持っていく。1週間でちょうど全ての包みがなくなるとき、次の菓子が置かれる。朝食用のシリアルは2週間きっかりで箱が空き、タンブラーに入れるティーバッグは10日で、昼食用の4個入りチョココロネは2日でなくなる。寸分たりとも狂わないサイクル。

 ベオグラード・メトロの子供達は月に3、4人新しい顔が増え、入り口の地下アーケードにはコミックやゴミ、おもちゃが置かれる。私物が消えていれば誰かがいなくなったという合図だ。週に1回、市の職員が浮浪者を追い出しにやってくる。子供達は電車の後ろ、鉄骨の足場の裏に隠れる。浮浪者は大きな荷物を持ってメトロを離れ、1時間後にまた戻ってくる。週に2、3回、子供達はベオグラード・メトロにやってくる。宿題か、オセロか、ゲーム機か、裸の女が載った写真集を持ってくる。

 2人に1人が男で、4人に1人、親同士が不仲で、5人に1人、親戚が銃で撃たれている。

 ベオグラード・メトロはサークルではない。集会でもない。児童館でも進路相談教室でもない。「建設が膠着した地下鉄」の総称である。

 ベオグラード・メトロは開かれた場所だ。

 ベオグラード・メトロは誰でも入れる。

 と、みんな言っている。

 「シズキ、ここに来て半年になるな」

 デジャンは振り返って落ちたペットボトルを見つめた。

 「ここでの暮らしは楽しいか?」

 「別に普通」

 「学校行って英単語の書き取りして、午後は合唱団のソプラノ、家に帰ったら妹の世話をして寝る、というのが普通なわけか」

 「その通り」

 「だからベオグラード・メトロに来た」デジャンはにっこりする。「俺も実のところ、ウォーターフロントなんざどうでもいい。俺の夢は北欧の田舎でゆっくり暮らすことだ。黒い地味な、それでいて上品なニットを着たじいさんばあさんと一緒のテーブルを囲んで、神の歌を歌いたいんだよ。ルターとかユダヤとかキリストとかお上品な奴。歌い終わったら召使が暖かいスープを注いでくれる」

 デジャンが目線を上に動かした。ペットボトルはひとりでに浮遊してゴミ箱にすこんと落ちた。


 ベオグラード・メトロは1923年に初めて計画が持ち上がる。1938年には路線の検討がなされるがWW2の勃発にて中断。戦後に再度計画が動き出し、1970年代にはアーバン・プランナーのブラニスラヴ・ヨビンが当時先駆的だったミュンヘンのU-Barnを視察。予算の問題で中断。2004年に新たな路線図が発表。中断。そして今、着工して5年が経過していた。メトロが動き出す様子はなかった。工事は中断したのだ。

 こんなことはわかりきっていたから、人々は未来のメトロを囃し立てた。

 施工が開始された時、デジャンはまだ小学生で、彼もまたベオグラードに越してきたばかりだった。遠い田舎からはるばる、母親の親族の祖父母の家に住まわせてもらえることになったのだ。祖父母はデジャンが来た理由も知らされずに彼を引き取ることになった。彼らは孫を可愛がり、デジャンもまた、祖父母に懐いていた。彼のいた土地で何が起こったのか知る者はごく少数だった。デジャンもその出来事について話すことはなかった。

 ベオグラード・メトロの駅周辺には粉っぽいレンガが積まれ、重機が増えていき、周囲のショッピング通りや川沿い、橋のふもとの通行を妨げた。地下に続く階段ができて、街中に点在する小さな地下のアーケードに駅が繋げられた。やがて2年、3年と経つうち、重機はなくなり、レンガもどこかへ消えた。

 やがてメトロは若者たちの公共スペースとなり、ベレー帽にロングコートを着た女が俯いてタバコを吸ったり、Tシャツに汗じみができた男がベンチや建設途中の壁に腰をかけてアルコールを飲んだり、アメリカのポップ・ミュージックを流したり、麻薬を吸ったりしていた。やがてメトロ内に住む者も現れた。多くはロマか浮浪者で、ダンボールを敷いて薄汚れた布団で寝る。ただ、目立つ場所に寝ていると酔った若者たちに罵声を浴びせられるか、時には蹴りを食らう為、彼らはメトロの線路の奥深くへと移動していった。

 

 シズキがメトロに足を踏み入れたのは半年前、ベオグラードに越して1週間経った冬の夜のことだった。彼の父親が引越し先のアパートにやってきたため、シズキはそっと家を抜け出して夜のベオグラードをさまよう羽目になった。ベオグラードの治安は良好で街の中心部ならば夜出歩いても特に問題はなかった。

 中心部ならば。

 まだ街に疎かった彼はベオグラードにメトロが通っていると思い込んでいた。現にメトロの標識が乱立していたし、ご丁寧に学校でガイドブックも閲覧することができた。

 石畳は冬の寒気を夜になってなお閉じ込めており、ゴミ箱は散乱し、ドナウ川から悪臭が流れてきていた。街灯がカフェの窓を照らす。頰に突き刺さる冬風と裏腹に、シズキは熱に浮かされたような奇妙な気持ちになった。夜になっても街に人が歩いている。スーパーマーケットは24時間営業で、薬局も遅くまでやっている。ビールはいつだって買える。手前のレストランから玉ねぎと肉の焼けるいい匂いがする。もう22時なのに。家に残された妹を少しだけ哀れに思ったが、目の前に走る市電の光のフラッシュが家のことを頭から消し去った。

 シズキはベオグラードに味方がいなかった。

 2月の妙な時期に転校してきたからか馴染むのにも一苦労だった。いや、誰も彼も皆同じ顔をしていたから友達になれると思えなかったからかもしれない。動画をSNSに投稿する習慣もなかったし、週末はナイトクラブに出かけたり、教師に媚びを売る気にもなれず、体格が良くてサッカーかバスケをするような奴らと長時間つるむこともできなかった。彼の華奢な脚は擦り傷ができるとなかなか治らなかった。弁当を食べるわずか20分の休憩で誰かと仲良くなれという方が無茶なんだ。

 かといってイケてない奴らから共感されるのもごめんだった。

 俺はお前らとは違う。

 違うから仲良くなれっこないんだよ。

 ……いや、違う。

 誰も自分に見向きなんかしないんだ。

 教師が黒板にWikipediaそっくりな文面を書いている途中に生徒たちは手紙を回す。それを見ると俺が教室内で息をしているだけで隣の奴が嫌な顔をしていそうな錯覚に陥る。冬の空はからっと晴れていて、鳥がドナウ川上空を滑空している能天気さが居心地の悪い俺を責めている。

 引っ越し前日こそ新たな街に心躍らせたが、いざ来てみれば、そこは共産主義のコンクリートと西欧の建築が入り混じって乱立する、シズキの入る余地のない場所だった。教室にいる奴だって学校が終わったらとっとと帰ってしまう。じゃあ俺だって早く帰ってやるさ。帰っても何もやることないけど。それでも、つらつらと中心街のアパートに帰って、ダンボールの積み上がった廊下を通り、自分と妹の部屋に閉じこもる。5つ下の小学生の妹はまだ帰ってきていない。父親が家に残していったギターの弦を弾いてみる。俺は禁じられた遊びぐらいしか、教わってない。本当に小さい頃、6歳ぐらいの時に、テレビから流れるノイズまみれのギターをお手本にして、父親は弦を弾いた。それでなんとなく旋律と運指も覚えてしまった。

 現に彼の父親は、本当に禁じられた遊びをしていた。

 死んだ犬を抱いた女の子。

 リバーブする低音。

 避難した方が身のためだ。今日は父親が来る。怖いのは父親ではない。母親がガス栓を止めていないところに、父親と言う名の火種が来るのが問題なのだ。


 突如出現した水たまりにゆらゆらと浮かぶ謎の使用済みコンドームをまたいで横断歩道を渡った。最寄りのサバ・スクエア駅のメトロに降りていく。階段にビール瓶が散乱し、無数のタバコの吸い殻が階段の一部のように張り付いていた。地下のアーケードのシャッターを蛍光灯がぎらぎら照らす。店舗の扉の向こうには色とりどりの靴下やがらくたが並んでいる。もともと住んでいたボルに比べれば異世界のように華やかだが、街が賑やかであればあるほどシャッターが下ろされたアーケードは孤独に見える。店が連なる通路の向こうに見えるのが改札だろう。電気がついていないからか、目を凝らさないとそこがメトロだとは気付けない。シズキはなんとか切符の買い方を思い出そうとする。ボルからザイェチャルに出かけたときは駅員から買ったが、ここは都会だし、券売機のようなもので買うのだろうと予測していた。彼にとってまだ、電車に乗ることは冒険の一つだった。数十分で何十キロもの距離を移動して別の街に着いてしまう。途中で降りることは許されない。間違えず、完璧に目的地を把握していなければならないのだ。大雑把な性格のシズキには少し難しい。

 メトロ入り口に「サバ・スクエア」と書かれた看板がかけられている。看板は真新しいが、表面は灰色の砂塵のようなものでうっすら覆われている。それに、まさに改札が見える位置まで来たというのに、駅員がいる気配もない。一旦立ち止まる。遠くから聞こえていた喧騒は今や圧倒的な無に押しつぶされていた。

 どういうことなのだろう。

 シズキは改札に近づく。プラスチックの引き戸をぐっと横に押してみると、いとも簡単に改札内に入れてしまった。足元はかろうじてアーケードの蛍光灯でにぶく照らされているが、階段の先は闇に満ちている。目の前をスマホの懐中電灯で照らして、適当に右の階段を降りる。頭上の電光掲示板には何も灯っていない。ホームには自動販売機も、ゴミ箱も何一つない。シズキはようやく、このメトロが来ることのない電車のために放置されていることに気がついた。

 戻ろうか。

 今は22時半。まだ父親は家にいるだろうし、かといってここに長居するのは正直に言って怖い。こんな大きな空間に誰もいないなんて耐えられない。シズキはホームに立ち尽くして、懐中電灯を床から壁に向けてみる。

 「Welcome refugees」

 シズキは首筋がぞわっとして、小さく声を上げてしまった。スプレーの殴り書き。「ようこそ移民」なぜ怖いと思ったのか自分でもわからない。ただ、自分がここにいることを誰かが知っている気がした。シズキがこの街に避難してきたばかりなのは確かだった。シズキは気を散らすように懐中電灯を線路向こうにかざす。何もわからない。

 線路を照らす。簡単に降りられそうだ。彼は線路に降りて右のほうへ進んでいった。こうなったら次の駅まで歩いてやろう。シズキは意地で歩を進める。自分が怖いと思ったならそこにいなきゃダメだ。こんな場所があると誰も教えてくれなかった。なら、何かあるはずだ。少なくとも中心街のエレベーター無しアパートの一室から嵐が過ぎ去るまでの時間は稼げる。目の前の闇は懐中電灯の光を吸い込んで、新たな闇しか見せなかった。

 シズキは少し泣いていた。逃げずに父親と話せばよかったと後悔していた。母親がいくら騒いでいようが、父親が話を聞かなくとも、二人に向き合えばよかったと。たとえシズキが二人に対して何もなすすべが無くとも。そうすべきだったんだよ、お前は。また周りのものがシズキを責めていた。闇、誰もいない線路、それも圧倒的な孤独が。この孤独感は嫌いではなかったけれども、ここは本当の孤独が享受できる場所だったから、いくら法に外れたことも実行できてしまうだろう。両親もここにくればよかったのだ。そうすればいくらでも殴り合いで決着が——

 遠くから、足音が聞こえる。

 シズキははっとして、懐中電灯を消そうか迷う。しかし、前方から来た人物に何か話を聞けるかもしれない。それに足音が聞こえた時点でこちらの明かりにはすでに気がついているだろう。音が反響しているから定かではないが、一人か、二人だ。

 足音が近づいてくる。シズキは歩を止めない。

 あっという間に足音はシズキの隣までやってきた。

 「君」

 顔を上げる。照らされた先に作業着を着た職員が立っていた。

 「こんなところで何をしている」

 「迷っちゃったんです」

 「ここでか?」

 「1週間前に引っ越してきたばかりなので」

 「名前は?」

 「フィリップです」

 「よし、フィリップ君。青少年権利保護法に基づいて君を家まで送り届けよう。住は?」

 「まだ住所も覚えてないんです。籍も移動していないってママが」

 「それは問題だな」

 面倒なことになった。この辺りに逃げられそうな場所もない。

 「この辺りは危険なんだ。わかるだろう、この空間では人の目が行き届かないからね。先ほどもマニェズ公園駅付近で不審な若者がたむろしていた」

 職員の手には金のペンダントのようなものが握られていた。「犬に嗅がせるんだよ」と職員は言った。

 「ペンダントなんか押収しなくたって」

 「もちろん普段なら送り返す。住所さえ教えればね」

 違う。これを売るつもりだ。

 シズキは嫌な予感がした。さっきの足音は本当に一人だけだったのか?彼は意図的に黙った。

 「どうした?」

 嫌な予感は的中した。足音はまだ続いている。

 「そのペンダント返した方がいいですよ」

 「それは君の問題ではない」

 「だってあんた、一人でしょ。その不審な若者とやらに一人で勝てるとでも?」

 「勝つも何も、彼が大人しく押収に応じてくれたからここにいるんだ」

 「違いますよ。あんたはここにおびき寄せられたんです。誰もいない線路内に——」

 足音が止まる。

 職員はシズキを訝しげに見る。

 彼の手に握られたペンダントが懐中電灯の光を反射してきらりと光った。

 ペンダントが浮遊したのは、目の錯覚だろうか?

 シズキはとっさに手を伸ばした。同時に職員が切り取られた光の中から急にいなくなった。反射的にシズキが身を引いた瞬間、真っ黒な影が光を横切った。どさっと何かが砂利の上に落ちる。職員の短い怒声が響き、すぐに止んだ。

 シズキは動けず、線路の壁際に、座る途中のような格好をして固まっていた。逃げるべきだろうか。そう考える前にペンダントの主は光の中に踏み込んできた。

 長身の男がシズキを睨んだ。黒い肌の手がにゅっと伸びてきて、シズキのスマートフォンを奪った。円い光が職員を写し出す。片足は裸足で、もう片足の靴は破けている。

 「俺は仲間じゃない」

 「知ってるよ」

 男はさっさとシズキの進行方向に歩き出した。

 「おい、それ返せよ」

 「まあまあ」

 シズキの目の前に、まばゆい光が飛び込んでくる。

 「女?」

 「は?」

 シズキはあからさまに憮然とした表情を作った。

 「俺が女だって?」

 「最近こういう髪型の女いるだろ」

 「でも俺は男だ」

 光が彼らの前に向いた。

 「そうか。女だったらお前もボコしてたかもしれん」

 「なんで?」

 「ペンダントは感謝してる」男は自らの顔に光をあてた。「奴ら、どうも俺らと馬が合わないらしい」

 「さっきさ、靴が飛んできたよな」

 シズキの口調が心なしか軽くなっている。

 「ペンダントも浮いたように見えた」

 「そうかなあ」

 「俺、知ってるぜ。超能力者だろお前」

 「漫画の読み過ぎだ」

 「それがそうでもない」シズキは男の背中に語りかける。「俺の元いた街は炭鉱で成り立っていた。奴らはサイコキネシスを使って穴を掘ってたよ。直接見たことはないけど、公然の秘密ってやつさ」

 「どこから来た?」

 「ボル」

 「なるほど。ただそいつらが使ってんのはサイコキネシスじゃないな。そこまで強い力は出せない。もっと別の何かだ」

 男は振り返る。「しかし、なぜこんな所に迷い込んだ?」

 「メトロがあると思ったんだ」

 「家出じゃないのか」

 シズキの心が少し痛んだ。

 「そんなようなものかもね」

 「ここに住むのかよ」

 「住むわけない、こんな不気味なところ」

 「怖いのか?」

 「別に」

 男は懐中電灯を消した。

 「おい!」

 「冗談だよ」

 再び明かりがつく。

 「こんな不気味なところに住んでる奴ってのはいるけどな。実際」

 「ホームレスとか?」

 「そうだ。市は今までで一番の善行をしたってわけだ。このメトロの建設で」

 「メトロは走らないのか」

 「金がないからね。今の所は」

 男はデジャンと名乗った。すぐにマニェズ公園駅の小さな明かりが見えてきた。駅のものではないだろうから、誰かが置いたのだろう。今はデジャン以外に誰もいないようだ。職員が来たから散ったのだろうか。

 「超能力使える奴って、他にもいるの」

 「俺らは”能力者“と呼んでいる。超がつくほど凄いもんでもない。他にもいるだろうが迂闊に能力は使えないよ。一応違法なんで」

 「そうなんだ。俺に知られてよかったわけ?」

 「いい訳ないだろ」

 シズキは首のあたりに、誰かに触られているような感触を感じた。

 「デジャン?」

 男はスマートフォンの光を消した。彼らの間に、止める間もなく闇が流れ込んでくる。

 「お前を二度と喋れないようにする」

 「は……?」

 首に、緩やかな圧力を感じた。

 「いや、ちょっと!」

 デジャンの顔は逆光で黒く塗りつぶされている。

 「恩を仇で返すつもりか!」

 「恩も仇も信じたやつからくたばってく」

 圧力は両サイドから大静脈を首の中心に押し近づけ、じわじわと締まっていく。

 締まっていっている。

 「どうして、俺を殺す気なのかよ、ホントに」

 「失神させる。大丈夫、死にゃしないから」

 やばい。苦しい。苦しいのに、何もできない。

 「そんで生き返ったとしても……ぐっ」

 「うるせえな」

 「ジュウトクな障害が……」

 「ああ?」

 「……残るだろ……それにお前、そのペンダントは……」

 軌道が潰されると頭が朦朧としてくる。よく気持ちいいとか言われるけど全然そんなことはない。ひたすらに苦しい。鶏みたいな気分だ。これから捌かれるのか。足を縛られ吊るされて。目の前がチカチカしてきた。俺の胸肉が沸騰した油の中に放り込まれ、ナゲットになってこいつに食べられる図が浮かぶ。しかし、シズキの生存本能は、右手をポケットの中に向かわせた。

 ポケットの中にひんやりした確かな感触が感じられる。

 「……ニセモンだ、バーカ」

 彼の手のうちで金のペンダントが光った。

 瞬間、首の圧力が緩む。シズキの気道に新鮮な黴臭い空気が流れ込んできた。手の中にあるネックレスが引っ張られる。シズキは右手を力強く握って離さない。

 「指を引きちぎる力は無いようだな。ほら、奪ってみせろよ。俺は離さねえぞ。この大ボケが。能力者も所詮こんなもんか」

 「無能のくせに調子乗ってんじゃねえ!」

 「もうわかってんだよお前の秘密。ホントに知られたくないのは能力があることじゃない。そうだろ?俺は全て把握したよ。女みてーなガキに負けて悔しいか」

 ペンダントがデジャンの元に戻る様子はない。むしろ繊細なネックレス部分が風に吹かれたようにデジャンの方になびき、音を立てて引きちぎれそうになっている。

 「俺はこのペンダントがどうなろうと知ったこっちゃない」

 シズキは思い切り、右手を後ろに殴りつけるように引いた……

 「やめろ!」

 全ての力が解けた。シズキは反動で、後ろにのけぞりそうになる。それでもペンダントはしっかり握っていた。

 「どうすんだよ、無能!ペンダントを受け取るか、俺を殺すか、選べ!」

 シズキは知っていた。もうあいつは俺を殺せない。

 ペンダントの一端さえ引く力も残っていないのだ。

 デジャンは持て余した両手をポケットに突っ込み、諦めたように首を振った。そして投げやりに言った。「本当に知ったのかよ」

 「ああ」

 「……」

 彼はおそらく、シズキの手元を凝視していることだろう。無駄なことだった。彼は何もできなかった。

 「返せ」

 デジャンはシズキに近づいた。

 「また首を絞める気だろ」

 「もう締めないし、殺さない。お前のことがよくわかった。使える」

 シズキは一歩後ずさった。

 「お前は俺に色々と協力すべきだということだ」

 「これを返して欲しかったら二度と俺を道具扱いするな」

 デジャンは手を差し出した。手から職員の服のメッキのボタンがこぼれ落ちた。

 「まずは握手だ。それから信頼関係を築こうぜ」

 「……」

 今度はシズキが黙る版だった。

 信じて良いのだろうか?

 「お前を信じて、俺に何か得があるわけ」

 「気に入らない奴は全員潰してやるよ。お好みの方法で」

 シズキはデジャンの手を取った。

 「はいこれ」

 デジャンの手にペンダントが渡ってもシズキの首が締められることはなかった。これがシズキとベオグラード・メトロの馴れ初めだった。


 辺りはすっかり暗くなっていたが、夏の熱気は鎮まりそうにない。夜、日中の熱はどこにも行き場がない。シズキはデジャンに犬の墓を掘るように頼んだ。

 「誰の?」

 「デジャンは掘るだけで良いんだ」

 彼はさして墓に関心を持たなかった。今一番の厄介ごとはあの集会の影響だった。

 「もう、能力を街中で使っても良いことになった」

 そんなことはないと思うけど、とシズキは言ったが、能力に付いてくる心配の懸念はぬぐえなかった。昨日の集会で全てが変わった。市民の間に能力の存在が知れ渡ってしまったのだ。

 あの集会。能力者を募集する集会。

 名乗り出た能力者には100万ディナールとウォーターフロント系列の正規雇用が確約される。

 他の企業があの集会を開いたならば皆与太話だとあてにしなかっただろう。集会の開催元がウォーターフロントだからこそ影響力があった。

 「皆名乗り出る。そんなのは知ってるよ。あいつらにとって良いことしかないんだから」

 「だけど裏を返せば一生ウォーターフロントから逃れられなくなるんだぞ。奴らのルールに従い行動しなきゃいけない、それがどんなにひどいもんでも」

 「関係ねえよ。まずは金と仕事だ。大事なのは。お前だって」

 「俺にはまだ早いよ……」

 「早くないね。お前今でさえ立場がやべえのに。女でも能力者でもない」

 「そうだね。デジャンには選択肢がある。さっさと名乗り出れば良いじゃん」

 デジャンが怖い顔をしていた。シズキは気づいていたものの取り繕う気にはなれなかった。

 「名乗り出た時点で俺の敵だ」

 ミシェルでさえも。

 重低音が響く、ピンクとブルーのきらびやかな船上のクラブが港駅の標識を照らしている。水面に写っているライトと船は異世界につながる入り口のように、一つの生命体のように揺れている。

 「シズキ」

 女の声。デジャンはますます険しい顔になってシズキを見た。

 ネデルカもまた、青い顔をした。胸に抱えた犬の方がまだ、生気が宿っているように見える。

 「あ……あ、シズキ」

 「さあ、埋めよう」

 デジャンは明らかに乗り気でない。「なんで?」

 「頼むよ。良いって言ってくれただろ」

 彼は大きなため息をついた。ネデルカがますます小さく縮こまる。「ごめんなさい」

 港駅の川岸は整備が進んでおらず、草地になっていた。ネデルカのような家が庭を持っているはずもなく、ここしか選べる場所がなかった。デジャンはサイコキネシスで川岸の小石を払い除け、土ごと草を取り除いた。一点を深く掘ってそこから広げていく。すぐに犬一匹が入る大きさになった。

 しかし、ネデルカは犬を入れようとしない。

 「何やってんだ?」デジャンはイラつきを隠そうともしない。

 「え……あ……まだ、十字架が」

 「は?」

 「お墓に立てる十字架がないの」

 「そこらへんの木で作れば良いだろ」

 「だ、ダメなの……ちゃんとした……銀の……」

 「何なの?」彼の口調がさらに荒くなる。

 「ご、ごめんなさい、お金がなくて、今日、お墓が作れそうにないの」

 「十字架買う金ぐらい簡単に稼げるよな?死んだ犬を出来るだけ哀れそうに街中に放置してさ。前にコップを置いてダンボールに『ボクのお墓を立てるためにお金をください』とでも書いときゃ良い」

 ネデルカの顔が、青さを通り越して紫に近い、抜けた血色と目の充血が入り混じったどす黒い色になる。彼女は次に息ができなくなった。過呼吸のように息を吸っては吐き、涙混じりの意味のなさない言葉が唇から漏れる。

 「ぱ、パブロ、を、あなた、何だと」

 「ウゼエな!てめえ女だろ、金が何だ、十字架が何だ、いくらでも買えんだろうが、舐めたことほざいて文句ばっか垂れてここまで生きてきたのか!?」

 「おい、デジャン」

 「てめえらはいくら多くの犠牲を伴おうがそれを当然だと思ってる。なのに今頃犬ごときで喚きやがって」

 「黙れよ!言い過ぎだよ!犬が死んだ、墓を掘る、その何が気に食わない!?」

 「こいつの態度だ!俺が親切で墓を作ってやったのに!女がいくら犠牲を出したと思ってやがる」

 「私何もしてない!」

 ネデルカの声は叫ぶように大きくなる。

 「謝ってよ!パブロに謝ってよ!この子は死んだ!あなたに何を否定する権利があるの!あなたなんか犬ほどの価値もない!死を否定した、この子が生きたことさえ否定したの!私のことが嫌いなのはいい、でも、パブロをバカにしたのは許せない!謝ってよ、早く謝って!」

 「てめえらが生きてるだけで人が死ぬんだ!お前の知らない誰かがな!」

 「痛い、何するの!?」

 「お前らは殺していることにも気づかない。人間に優劣をつけ、要らない人間を作り出した」

 「痛い、痛い!」

 「おい、デジャン、やめろよ、頼むよ!」

 「許せるわけねえだろ。人殺し!」

 「やめて!痛いよ!折れちゃうよ!」

 デジャンは我に返ったように一歩引き下がった。彼の右手は白い骨が浮かぶほど強く握られていた。彼はネデルカに一切指を触れていなかった。しかし、ネデルカの両腕には真っ赤にねじ切れそうな跡がはっきり残っていた。

 「ごめん」

 デジャンはとっさにそう言った。

 ネデルカはふらふらと膝の力を失い、その場にくずおれて泣き出した。シズキはその場を振り切るようにして、川に身を乗り出してハンカチに水を浸し、彼女の両腕をまとめて縛って冷やした。デジャンは呆気にとられたようにその場に立ち尽くしていた。こわごわ指を開くと、彼の手は血が滲むほど強く握られていた。

 能力の制御が効かなかった。無意識下で、能力を使用していた。

 「ネデルカ……パブロを埋めよう。金ぐらい簡単に手に入る。さあ、今はこいつを楽にしてやるんだ」

 シズキは後悔していた。この二人がもう一度会えば友達になれるかもしれないという希望を捨てきれなかったのだ。デジャンは女を極度に嫌っており、ネデルカは人間を極度に怖がっている。それでも悪い人間では決してなく、二人とも自分の友達だった。だからうまくいくと思った。結果はこのざまだ。

 「ネデルカ、ごめん」

 彼女はゆっくり立ち上がった。それからパブロを穴に入れて、土をかぶせ始めた。シズキも手を貸した。今はどう考えても彼女を労わるべきだった。それでもシズキはデジャンに弁解したくてたまらなかった。なにせ、彼のペンダントの中身をまだ知らないのだ。

 一体誰が悪いんだよ。

 何をどうすれば俺の周りは幸せが訪れるのか。みんな仲良しになるのか。

 全然わかんねえ。

 デジャンが去る足音が聞こえた。ネデルカの目からはまだ涙が流れている。

 俺はまた仲裁役。どこだってそうだ。仲裁のできない仲裁役だ。

 今日はみんな機嫌が悪かった。しょうがなかった。でも今日はもう終わったんだ。いや、終わっていない。彼は家に帰らなければならない。せめて母親と顔を合わせないようにしたい。

 目を閉じたって、夢に誰が出てくるかわからない。


 せめてあの子が出てくれれば。


 せめてあの子が僕に笑いかけてくれれば良いけど。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ベオグラード・メトロの子供達1話 @reizouko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る