9 - いつか、滅びの海で

「おぉい、どうした。辛気臭い顔だな小鼠」

 この低い声は鉈貸しだ。いつの間にか戻ってきて裏口に寄りかかっている。剽軽な口調と恐ろしげな声色が全く似合わない。

「親のために良い葬式あげてもらえるんだから笑え笑え。薪は並べ終わった。さっさとそいつを運ぶぞ」

 裏口の外には荷車が用意されている。そこまでは人の手で持ち上げて運ばねばならない。

「棺を買っておきながら人手に頭が回らんとは」

「大の男が二人いればなんとかなるでしょう」

 それに私は魔導師だから、とキィスは言いたげだった。キィスと比べてかなり見劣りのする鉈貸しの背丈を見て、大の男は一人ではないかとティッサは思った。

 鉈貸しはぶつくさ言いながらこちらに歩み寄り、蓋の開いた棺を怪訝そうに見下ろした。開かなかった蓋が開いているからか、屍が思ったより綺麗なままだからか。

「あなたの好みは知らないけど、母さんの体は立派な商売道具だったんだから。金も出さずに勝手に触らないで」

 鉈貸しはつまらなそうに鼻を鳴らした。

「誰から聞いた? まさか坂上の蝿連中か?」

 ティッサは鉈貸しがこちらを向いていないのを見てキィスに視線をやった。しかし、彼は素知らぬ顔で笈の中を整理している。キィスは一体どこから知ったのだ。また魔導師の力だろうか。ティッサが答えずにいると、鉈貸しは頭をめちゃくちゃに掻き回し、そこらにふけを撒き散らした。

「まあいい。誤解してもらっちゃ困るが、俺が愉しむのは弔う者のない身寄りの分からん女だけだ。ちぃとばかり良い思いをさせてもらう代わりに心を込めて鉈を振るう。十分に等価交換だと思うね」

「私も同感だ」

 笈の扉が静かに閉まる。振り向いたキィスは両手に細長い小箱を持っていた。

「滅びに触れて生きる者にはそれくらいの楽しみが許されなければ」

「なんだ、お前分かる奴だなぁ」

「キィスまで」

 ティッサは信じられない気持ちでキィスを見た。鉈貸しは急に生き生きと仮面の奥で目を輝かせている。等価交換の理屈は分からなくもないが、骸相手に欲をぶつけるのが楽しいなどと思うのはやはり悪趣味だ。

 結局この二人は、鉈貸しが馴れ馴れしくキィスも人に合わせるのが上手いだけで、特別仲が良いわけではなさそうだ。しかし、全く別の方向に道を外れていったら偶然行きあってしまったような、奇妙な呼吸の一致を感じる。調子が狂うとはこのことだろう。

「ティッサ」

 キィスは手にした小箱をティッサに差し出した。やや浅黒い色の木だ。

「干葡萄ならここにある。生きているうちには間に合わなかったが、君の右手はたしかにこれを運んできた」

「わたしの、右手?」

「棺に入れようと思う。どうだろう」

 大事にとってあるとは聞いていたが、今この時に出てくるとは思わなかった。もちろん、どうせ二度と繋がることのない肉と骨の混ぜものを葬るのに異存はない。野良犬の餌になるよりはその方がずっと気持ちが良い。

 ティッサは箱に手を伸ばそうとして、新しい右手が震えていることに気がついた。寒くはない。恐れだろうか。何を。古い手が箱の中からわたしに語りかける。わたしよ、我が幹たるあなたよ、わたしは本来あるべき所に戻りたいのだ。右の人差し指が音をたて、小さな亀裂が入る。そこなお前は偽の体、砕けて消えてしまえ。干葡萄の種がティッサの血を吸い上げ、肉を苗床にして瞬く間に蔓を伸ばす。蔓は巻き付きティッサを拘束し、右腕は筋一本動かせなくなった。やめろ、それはキィスにもらった大事なわたしの一部だ。ティッサが叫ぶと怒り狂ったように傷が広がり、掌、手首、腕に至るまで粉々になる。

 ティッサ、と掠れた声。右肩に置かれたのはキィスの左手。右腕の先にはまだ彼にもらった義手がそのまま残っている。

「惑わされるな」

 キィスはティッサにだけ聞こえるよう、耳元で囁いた。鉈貸しは腕を組んで不審そうな目でこちらを見ている。キィスには同じものが見えたのだろうか。まだ震える右手にキィスの手が重なり、ようやく鼓動が落ち着く。

「一緒に入れて、おかしなことにならない?」

「大丈夫。これは君以外の元ではあまり意味をなさないから」

「なら、母さんと一緒に」

 一つ頷き、キィスは木箱を亡骸の頭の横に添えた。キィスと鉈貸しはそれぞれ棺の蓋の両端を持ち、棺を閉じようというところでティッサを見た。母に最後の挨拶を、ということらしい。ティッサは母にかける言葉を探したが、気の利いた言葉は浮かばない。

いつか、滅びの海でアン・ミーア・シアスムオリア

 結局、ティッサはこの土地にトゥレンの街ができるずっと前からあるという永訣の言葉を口にした。死後全てのものが、砂よりも小さい欠片となって辿り着くという終わりの果ての海だ。

いつか、滅びの海でアン・ミーア・シアスムオリア

 男二人が同じ言葉を繰り返す。青白い顔の上に陰が落ち、蓋が閉まるにつれて陰が濃くなる様は、丁度水面に沈みゆくのと同じに見えた。

 ティッサも運ぶのに加わろうとしたが、キィスが必要ないと制止する。鉈貸しはそれを恨みがましい目つきで睨んだが、案の定キィスが棺に仕掛けをしていたらしく、掛け声と共に棺を持ち上げた鉈貸しはうっかり腰を抜かすところだった。しきりになんじゃあこらと裏返った声をあげながら棺を運ぶ彼の背中は、とても屍蔵の主とは思えない。

 裏口から出ると、軒先には薪が山と積まれている。籠には剥いた樺の木の皮。こんなに堂々と外に晒していたら盗まれてもおかしくないものだが、家主の生業を考えると迂闊に手を出す気にはならないのだろうか。

 鉈貸しが荷車を引いて作る轍の上を、キィスとティッサはなぞって歩く。下りの斜面に間を空けてぽつりぽつりと並ぶ樺の木は、白い幹と黄変を始めた梢が存分に陽を浴びて、火を灯した蝋燭のごとく明るく揺れている。落葉が降り積もり、もうじき土の上にも黄金色の絨毯を作るだろう。細かい枝は尽く拾われており、ほとんど見つからない。役所に高い税を収めないまま勝手に生木を伐ると盗人の扱いとなるが、自然に落ちた枝葉や倒木は誰にでも利用を許されている。しかし、当然ながらそれを狙う者も大勢いるので街に近い木立ほど何も無いのだ。

 木立の中にまた広く開いた場所があり、その中央は土まで焦げて黒々としている。周りの白んだ景色とは正反対だ。端の方も飛び火を避けるためだろう、いくつもの切り株が目立っていた。

 真四角に組み上げられた薪の周りを藁束が囲んでいる。鉈貸しのややだらしのない見た目からは想像できないほど整然とした仕事ぶりだ。鉈貸しとキィスは薪組みの上に棺を載せ、その上からもいくらか藁を散らした。

「さあ、火をつけたい奴はいるか?」

 鉈貸しは火打石と火打金、火口にする樺の樹皮を腰の巾着袋から取り出した。火葬の火付けはできる限り身内の行う仕事だが、ティッサは義手のために上手く着火できる自身がない。それに、これが正式な弔いの一工程だと分かっていても自分の母親を焼くために火をつけるには抵抗がある。

「私がやろうか」

 ティッサはキィスの顔を見上げた。彼は母の最期を看取ってくれたようだし、他に身内がいるわけでもない。彼に頼んでもいいはずだ。しかし、それでいてティッサは渋った。ここまで用意しておきながら、母を火葬すること自体が嫌だと思い始めていた。

 いっとう疎らな樹間の向こうで、灰の川の静かな波が夕付く日を反射して見える。不意に眼を射た眩しい光にティッサが目を細めた時、波打たれながら浮き流されていくものがあった。あの、汚く灰に染まった色の、名も知らない誰かの指先。川の水が赤くならない。あれはきっと崖の上からそのまま転げ落とされたのだ。鉈で四肢の腱を断つ手間も惜しんで。別れの言葉を述べられることもなく。川の水は海に辿り着く前にあの人を融かしてくれるだろうか。あの人は無事に滅びの海で世界と混ざり合うことができるのだろうか。

 ――いつか、滅びの海で。

 ティッサが心の中で念じると、人影はさらに流されて木立の影に見えなくなった。

 あのような葬り方よりはずっとましだ。美しい光と熱が肉も骨も白く灼き尽くし、何者も海への道のりを妨げぬよう、陸の上で最も微細なものへと変えてくれる。その灰を火の舟フィルテ・ケソンに乗せて流れに放てば、明日か明後日か、あるいは十日の先か、母は早いうちに世界の一部と変わるだろう。

 ティッサは鉈貸しに向き直り、大きく息を吸い込んだ。

「鉈貸し――いや、ケソン。火付けはあなたに頼みたい」

 彼はティッサが名を呼ぶと驚いたように片方の眉を上げたが、軽く手を上げて棺に近づき、足元の藁の前で二、三度乾いた音を響かせた。こうした火葬を何度も繰り返しているのだろう、彼は実に手際が良かった。火口に息を吹きかけ、育てた火を藁の下に置く。間もなくして、激しく白い煙を出しながら藁が燃え始めた。陽が傾ぎ急速に暗くなりつつある空の下で、我こそは赤き陽の落とし子と名乗らんばかりに焔が盛る。硬い薪の冷たさを消し去り、やがて棺をもその輪郭に取り込んだ。

 ティッサたちはできる限り離れた場所から焔の踊る様を見守った。何十歩も後ろへ下がったはずなのに、まだ頬が真夏のような熱を感じている。棺が焼け崩れて形を無くしていく中で、ティッサは母の姿を探そうとしたが、気づくとキィスの胸に顔を埋めて嗚咽していた。

 今まさに灼け消えんとする己の手が、あの焔の中で助けを求めて叫んでいる。得体の知れぬ亡霊とは違う、生まれた時から共に生きてきた文字通りの右腕が、自分の手では何に縋ることもできず真っ白い闇の中に落ちていく。もし母の心がまだあの骸の中に留まっているとしたら、きっと同じ想いで滅びていくのだろう。木で作られたはずの義手が酷く痛む。軋んで暴れて、もはやティッサの体の一部としては相応しくないほどに狂ってしまった。

 人が死ぬのは当たり前で、当たり前だけれど、こんなに怖くて淋しい。分かっていたはずなのに、何も知らなかった。貧しさはこんな風に悲しむ心さえ奪ってしまう。貧しき者にも鉈を貸し、悲しみの淵で心傾ぐ者の代わりに焔を起こす彼の男は、理解し難い変わり者だが優しかった。魔導師には初めからそれが分かっていたのだろうか。

「目を閉じておいで、ティッサ。滅びゆくものを見つめすぎては生きられない」

 自分を抱きとめながらキィスの瞳が何を見ているのか、ティッサには分からなかった。

 平穏な夢の水底で、幾重にも伸びた葡萄の蔓がティッサの手を絡め取った。隣に母がいる。珠のような果実は瑞々しく、母は若く美しかった。母の差し出した人差し指を、ティッサの小さな掌が握りしめて離さなかった。

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善き魔導師の傷跡 智梅 栄 @ChiumeSakae

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