4 - 指先新たにあらたかに

 キィスの作り上げたものは、薄暗い室内ではほとんど実物のように見えた。目と鼻の先まで近づけられて初めて、肌の上の木目や仄かな木の香りに気づくことができる。指先の広がり、爪の丸さ、掌の肉の膨らみも不自然なところがなく、ひとりでに動き出さないのが不思議に思えるほどだ。

「本物みたい」

「ただ手の形に彫っただけだよ」

 淡々と答える彼の表情に謙遜の色はない。腹立たしいくらいに、ない。

 この手を素晴らしいと思うのはティッサが素人だからなのだろうか。彼と同じ生業の人の前で掲げて見せたら、そんな安物と笑われてしまうような陳腐なものなのか。だとすれば職人とは随分と贅沢な世界で生きている。ティッサにはもったいなく思えて仕方がないというのに。

「本当にわたしが使っていいの?」

「私が使うように見えるかい?」

 冗談混じりに答えたキィスの手は、そこな義手よりふたまわりも大きい。たとえ今すぐ彼が右手を失くしても、この義手を使うには無理がある。

「こういうものは本来、傷が治ってから使うべきだが」

 キィスは重々しく溜息をついた。ティッサが義手に目を奪われている間、彼はティッサの包帯を慎重に巻き直していた。キィスに持ち上げられた右腕は、肘と手首の中ほどで切断されている。

 ティッサの手を潰したのはあの二人、けれど治療のために改めて切り落としたのはキィスだ。彼はなんと、形を失い酔っ払いの吐瀉物のようになったティッサの右手をまだどこかに保管しているらしい。吐瀉物のよう、というのはもちろんキィスの言葉だ。ティッサは腐りかけの自分を見る気にはなれなかった。

 断端からの出血は既に止まり、傷口はほぼ乾いているが、およそ人肌とは思えない毒々しい痣色、醜く膨れ、まるでそこから新たな命を産み出そうとするかに見える。キィスは、ティッサからするとやや神経質に思えるほど頻繁に包帯を直すが、この腫脹を圧迫し、断端の形を整えるのに必要だからだそうだ。傷とは全て見苦しいものとしか考えたことのなかったティッサには、傷を整えるという発想は全くの未知だった。

 キィスは包帯を直し終えると、ティッサの右腕と義手をうやうやしく持ち上げ、二つを繋げた。

 義手の内側はつるりと丸くくり抜かれ、そこに腕をはめ込む。木の硬さがなるべく障らぬよう、羊毛が詰められている。空洞は断端の腫れの分だけ大きめに作られていて、狭すぎることなく収まりが良い。腕と繋がる義手の上部は単なる筒状ではなく、緩やかに湾曲した六枚の板が紐で円形に繋がれている。この革紐を締め付けることで、腕から義手が落ちにくくなる。

「材は沢胡桃にした。軽くて柔らかい。柔らかすぎて脆いが、今はこれくらいでないとかえって無理がかかる。乱暴に扱わないように」

 キィスの言うとおり、ティッサの新しい右手は目で見て想像したよりもずっと軽かった。本来の右手よりも軽い気がする。木が軽いといよりは、そうか、人の体は存外に重たいものなのだ。この軽さに振り回されてしまわぬよう気をつけねば。と、手を高く掲げたところで、キィスがもう触れていないのに自力で右腕が持ち上がることに気がついた。

 どれほど精巧に作ろうと義手は義手だ。木と人の体が一つのものとして繋がることはありえない。だのにティッサはまるで、自分の血が木製の硬い指先を巡り、木の中の僅かな水分と混じり合って再び自分の体へと戻ってくるように感じた。どこまでが自分で、どこからが義手なのか。至って明確なはずのその境界を、この木の生命力が侵そうとしている。ティッサの体に根を張り、潤沢な命を吸い上げて光ある場所に枝を伸ばさんとする。

 ティッサは恐れた。このままでは手に食われてしまう。去れ。わたしから去れ。

 ティッサを苗床にしようとしていたそれは、肩へ至り胴を食らおうとしたところで急速に萎れた。伸びた根の先は腐り、再びティッサの血肉に戻る。やがて、眼にも映る人肌と木目のあわい、正しい境界の上で、ティッサは新しい自分の手と、手を取り合うように結びついた。

 見計らったように、キィスもティッサの手を取る。職人らしく節くれだった指、皮の硬い掌とその真ん中の熱――あくまで物言わぬ道具であるはずのティッサの義手は、かつて本物の手がそうしたように、ティッサが触れるものの感触を伝えた。ティッサは驚いて、自分の左手を見た。左手こそ生身だが、その手は何にも触れていない。右手と左手を勘違いしているわけではない。

 ティッサの体を覆い、痛みから遠ざけ守っていた頑丈な殻。指先から亀裂が入り、劣化した土壁のように剥がれ落ちる。裸になった先から痛みが戻る。代わりにティッサは自らを脅かす痛覚の数々を支配した。全てを掴み切ることはできないが、意識を奪い、滅びへ誘おうとする最も鋭い爪はティッサの体を沿うように撫ぜながら、しかしティッサを傷つけることなく軌道をそらす。

 長いこと苛むばかりであった痛みは、今となってはティッサを潤し、肥沃な土へと変えつつある。ティッサは一度は自分を食い荒らそうとしたものに、奪われるのではなく、与えた。ティッサの右手は喜々として艶めき、ティッサに近づき、ティッサの意志を一層忠実に伝え始める。何のからくりもない指の節々は同じ角度のまま曲がりはしないが、ティッサがキィスともっと近い場所で話したいと願えば、彼と繋いだ右手を起点にティッサに起き上がる力をもたらした。

 傷ついた肋や腸は、頭と胴の重みを支えるのにまだ耐えきれず悲鳴をあげる。すると、ティッサを取り込みきれずに枯れた根が再び肩の付け根で蠢き、腐った横から新たな枝分かれを生んだ。ティッサは、今度こそ脅かされる恐れなく、自らの意志によって体の奥深くへ侵入を許した。それはまず真っ先に心の臓へ至り、赤い血の流れを汲みながらティッサの体の隅々まで細かな網を張り巡らしていく。瞬く間に、体を起こしているのが苦ではなくなる。

 ティッサはまた夢に迷い込んだような心地でいた。新たな右手が自分にもたらした変化を頭の中で整理しながら、心はぼんやりとキィスの左手を見つめていた。もはや、この人に何か人並みならぬ力のあることは疑いようがない。その不可思議な力がティッサを死の淵からすくい上げ、打ち崩された肉体の牙城を再び組み直したのだ。ティッサが今しがた体験したものは、全てティッサの内側で起きたこと。外見上の変化はせいぜい顔色が良くなったぐらいだろう。しかしティッサには、キィスは何もかもを見通し、ティッサがこの右腕を御しきれないようであればいつでも介入する気でいたのだと、そう思えてならない。

「あなたは何?」

 キィスの顔を見上げる。彼はティッサが思っていたよりも幾分背が高く、ティッサと視線の高さを合わせるため大きく背中を曲げた。

「単なる旅の指物師、と言っても誤魔化せないだろうな」

 頷く。ティッサの右手の上にキィスの右手が重なった。

「私は魔導師だ。世に在るものを滅びへと導く魔性の命」

 滅び、という言葉を耳にして、刹那、ティッサはひるんだ。キィスの手から逃れたい衝動に駆られたが、彼の左手は穏やかにティッサを受け止め、右手は力強く励ますように添えられているだけだ。害をなそうという意志は一つも伝わってこない。

 魔導師というものをティッサはよく知らない。しかし、キィスと出会ってから見る幻――それに関わる何かであろうことは分かる。彼の短い説明だけではとても良い印象を持てそうにないが、キィス本人には良い印象しかないものだから、ティッサの胸中には矛盾して響いた。

「あなたは、悪いことをする人には見えない。でも、あなたがまだ何も取ろうとしないから、かえって不安なの」

 信頼の秤は彼を受け入れる方に傾いている。だが、まだほんの僅かに揺らぐ余地もある。何かを捨てることで彼との揺るがぬ絆が得られるのなら、一刻も早くその代償を支払い楽になりたい。

 ティッサは自分が何を差し出せるか考えたが、盗みをはたらくほど切羽詰まっていたのだから金目のものは何もない。物がなく片付いていることだけが取り柄のこのあばら家を、この人は欲しがるだろうか。可能性は低い。どう考えても彼に差し出して最も価値ありそうなのはティッサの体そのものなのに、見下ろした自分の体は傷だらけでとても汚かった。

「見返りのために君を助けるのではない。ただ私は君を放っておくことができない。それだけだ」

 あんまりだ。ティッサはうつむいた。お前には何一つ価値がないと言われているようで、しかし自分に価値がないことはティッサ自身が一番よく知っている。素直に厚意を受け取れば良いものを、なけなしの矜持が邪魔をする。

 キィスは、ティッサのこの複雑な心境を察してか否か、ゆっくりと選ぶように言葉を続けた。

「もし、君が私の行いに恩を感じていて、何かを返したいと、そう思っているのなら。私を信じて共に来てほしい」

 思わぬ提案にティッサは目を見開いた。冗談を言っているようには見えない。

「連れていってくれるの? どうして?」

 ティッサが間髪入れずに食いついたのを見て、キィスは面白いものを見るように笑った。

「一人旅は気楽だが、時々淋しい」

 本当にそうだろうか。木と向き合う彼は、他に何もいらないと言わんばかり、ティッサの知る誰よりも生き生きとして見えたのに――。

 しかし、ティッサはその疑問を口にはしなかった。憐れみだけで旅の供を増やすのであれば、彼の旅は今頃百人もの大所帯だ。わざわざティッサを選ぶからにはきっと何かしらの理由がある。それが何かティッサには見当もつかないが、彼がティッサに何らかの価値を見出し、ティッサがそれを提供できるのであれば何でも良かった。

「ありがとう、ティッサ。せめて私は、君の評価に恥じぬよう生きるとしよう」

 部屋に差し込む僅かな灯りを捉え、キィスの暗い瞳が熾のように明滅している。

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