3 - 槌の音は寝物語

 キィスに聞きたいことは山ほどある。ティッサの傷を癒やす薬の類にどれほど金がかかっているのか。どのようにしてティッサをあの迷路のような路地裏から見つけ出したのか。何故血縁もない赤の他人にこれほど懇ろな看病をしてくれるのか。この寝台は母が使っていたはずだが、母の亡骸はどこへ行ったのか。ティッサが起きて働けるようになったらどうするつもりなのか。

 しかし今は好奇心より疲労が勝っている。あまり喋ると抜けた歯が治らないと言われ、それを自分への言い訳にしてティッサは長らく黙していた。それに、夢と現の曖昧な状態も含めて眠る時間が非常に長く、起きていられる時間は短い。ティッサの意識がある時にキィスも起きているとは限らないし、どこかに出かけてしまって気配のないことも、あるいは何かに集中していて声が届かないこともある。そしてキィスに問う機会がないまま、ほとんどの疑問は一度眠りにつくと綺麗さっぱり忘れてしまう。思い出そうとしてできるほど明瞭な思考でもない。

 ある時目覚めると、いくつもの痛みの帯がティッサの喉を締め付けていた。譬えばそれは、寝違えた朝の十倍もの苦痛があった。ここ数日はずっと、隣の物音に聞き耳を立てる鼠のような、生温い存在感しか持たなかった痛みだ。その根源を取り去ってしまいたいと声を上げるも、ティッサの腕は体の横で素知らぬふりを決め込んでいる。このまま首だけ引きちぎれて転げ落ちてしまうのではないか。キィス、キィス、早く、頭が落っこちてしまわないように支えていて。ティッサは無我夢中で喚いた。意識の全てが痛みの在り処に集う。その他全ては温度を失い、ティッサはまるで、自分が首だけの存在になったかのように錯覚した。

 氷のように冷たくなったティッサの額に、やがて心地よい温もりが触れた。その指先は一度はティッサの肌を離れ、再び頸部に降り立つ。撫でさするでも、押さえつけるでもなく。だがその掌はたしかにティッサをとらえた。途端、心の臓の力強い脈動が思い起こされ、清らかな風が胸の奥深くまで辿り着く。溢れた痛みが堤の内へと引いてゆき、しかし全て消えてしまうことはなく、ティッサが耐えられる程度の疼きへと収束した。

 また、これだ。右手を失って初めて目を覚ました時と似ている。この手はやはり、キィスの白い手だ。この五指の主はどこにいるだろう。ティッサは頭を動かし、視界の右側に彼を見つけた。ティッサはキィスの名を呼ぼうとしたが、気が抜けてしまったらしい、音のない吐息が唇を僅かに湿しただけだった。

 彼はティッサの喉から手を離すと、

「板のようだ」

と、ティッサには意味の分からぬことをひとりごちた。何故か少し嬉しそうだ。

 首はまだ痛むが、少し前までの金縛りのような状態とは違うと気づく。どうやら、寝ながら首を動かすぐらいはできるようになった。寝返りはまだできない。

 どうせ左を見ても痘痕のように崩れかけた土壁しかないので、ティッサはキィスの背後に目をやった。まず目に入ったのはいくつか立てかけられた数枚の板。なるほど、板か。ティッサはキィスの言葉に納得したような気になった。

 次いで、中が空ならティッサも入れそうな立派な笈。両開きの扉を開けた中には鋸や槌や鉋など、大工道具が所狭しと収納されていた。それらのうちいくつかは、大きく広げた麻布の上に等間隔で並べられている。削りかけの木材もある。

 勝手知ったる我が家で目覚めたつもりが、町大工か木地屋の寝床を借りていたのだろうか。否。部屋の隅に寄せてある卓や脚の高さの違うあの丸椅子は、間違いなくティッサが子供の頃から使ってきたもの。ティッサは天井に目を向けた。歪んだ三日月のような黒い染みも、ここがティッサの家である証だ。

 ティッサは再び床の上に並べられたものを見た。いつからこんな。ティッサがあんぐり口を開けていると、キィスは筵の上に座り込み、槌と鑿を手にしてさっさと彼の作業を再開してしまった。

 街の北西を流れる銀の川タータ・ヤッスルは、南方の海から塩を、北方の山並みからは良質の材木を運ぶ。このトゥレンはその中継点の一つとして栄えた。故に、裏通りの工場街には木の扱いを生業とする者もいくらか名を連ねている。決してティッサが足繁く通うような場所ではないが、近くを通りかかればいつでも、景気よく槌を振るう音が楽のように響いて聞こえた。職人たちは黙々として多くを語らないが、強く弱く抑揚のついた槌の音を耳にすれば、それが彼らの会話なのかもしれないと感じる。静かだが路地裏のどこか陰鬱な静けさとは違い、賑やかだが表通りの喧騒とも異なる、裏通りならではの趣だ。

 キィスの槌振るいは、ティッサの知る限り誰よりも静かだった。柄頭を槌で叩くというよりはむしろ、卓の上で軽く指を鳴らすのとさほどの違いもない。槌の音が彼らの言葉であるならば、たしかにそれは、キィスの囁くような声と似ている。自らの意図を伝えるために必要な最低限の音。単に弱々しいということでもない。彼の手元では、なんの変哲もない四角い木の塊が、見る間に別の形を成し始めている。

 おそらく彼は、ティッサが眠っている間もずっと、このように木を彫るだか削るだかしていたのだろう。ティッサの知る槌の音とあまりにも違っているために、こうして目にするまでは何をしているのかよく分からなかったのだ。にわかには信じがたい気持ちだった。

 キィスは一心に彫り続けている。木と話すのを楽しんでいるようだ。人と会話するよりもずっと。ティッサはキィスの手になる作品を羨ましく思い、同時に、彼がこのまま一生こちらを気にせず彼の仕事をしてくれたらと、深く長い溜息をつく。我が名は道草ティッサ。まっすぐに道を征く人には見向きもされぬもの。ティッサは生まれて初めて、この貧相な名に相応しい存在でありたいと願った。

 だがティッサがそう思ってからいくらもしないうちに、彼は手を休めてティッサを顧みた。永遠であってほしいものが永遠ではないことに、ティッサは密かに嘆息した。

「ずっとそうしていると首が痛くならないか?」

 キィスは両の掌を開いたり閉じたりしながら言った。彼はティッサの、胴はまっすぐに上向き、頭だけ横を向いた体勢のことを言っているらしい。

「どんな格好でも痛いもの」

 ティッサは毛布の中で脚をばたつかせた。脚だけは本当に元気だ。この元気を少しだけでも腕や胴に分けられたら良いのだが。しかし、下肢には大きな損傷がないとはいえ、体力が常の十分の一もない。ティッサはすぐに息切れを起こしてしまい、力なく脚をおろした。

「もうじき楽になる。そうしたら、一緒に君の母親を弔いにいこう」

 キィスの言葉は不穏な意味に受け取れなくもない言い回しだったが、おそらく他意はないだろうと思えた。実際、ティッサが痛みで我を失いそうになる度に、いつもキィスの手が助けてくれる。キィスの全てを信じてよいのか、ティッサにはまだ分からない。だが、あらゆる危機感をなげうってでも信じてみたいと思わせるものが彼にはあった。

「母さんのこと、もう捨ててきたのかもって、少し思ってた」

「そんなことはしない」

 キィスの手が伸びてきて、ティッサの目蓋を覆い隠した。あんな風に刃物を自分の指先のように操る人の名が、よりにもよってキィスというのは何故だろう。道草ティッサに負けず劣らずおかしな名だ――。ティッサの思いついたばかりの疑問は、夢の中でまた泡と消えていった。


 キィスがそれを完成させたのは、ティッサがもう二度ほど眠りと目覚めを繰り返した昼下がり。生まれ持った右手を失ってから五日目に、ティッサは新しい右手を得た。

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