第31話 寒露 前編

 日々の積み重ねが一週間を作り、それが集まって月日が流れる。そうして十月に入り、学園祭まで一ヶ月を切った今日、結衣は果帆と一緒に《カフェ・ラ・ルーチェ》に来ていた。結衣は午後からのシフトのため、果帆はそんな結衣に付き合って、である。

「圭くんは誘わなかったの?」

「今日は学園祭の準備があるんだって」

「みんな大変だね」

「果帆のところだってお店出すんでしょ?」

「うちはホットドック出すだけだし、機材と材料の注文はしたから、もうほとんどやることないんだよね」


 学園祭と言っても、参加するサークルの多くはその場限りの出店で終わってしまうことが多い。高校の文化祭と違って、クラスで何かをやろうという空気にはならず、祭りに参加するためにはそうして無理やり何かをしなければいけないのだ。

「圭くんのところはガチでコーヒーを販売するみたいで、今日はブレンドを色々と試してみるんだって」

 圭はテニスサークルに所属していた。と言っても、テニスをするよりも飲酒をする頻度のほうが高い典型的な飲みサークルで、そんな集団がどうして自分たちでコーヒーを、しかも自分たちでブレンドをするという結論に至ったのか、結衣には皆目検討もつかなかった。


「結衣ちゃん果帆ちゃん、お疲れ様」

 佳奈子の明るい声に振り向いた結衣の視線は、佳奈子の充血した目に吸い寄せられた。厨房から顔を覗かせた佳奈子は、僅かにはにかみ、ゆっくりと近づいてくる。その足取りは心なしかふらついているようにも見えて、結衣は落ち着けた腰を浮かした。

「佳奈子さんこそ、ちゃんと休んでます?」

「大丈夫よ。最近ちょっと忙しいから、眠れてないのかもしれないけど」

「あと一ヶ月なんだから、気をつけて下さいよ」


 佳奈子は「平気平気」と言いながらカウンターに入り、結衣と果帆の正面に立った。佳奈子の様子は気になったが、本人が問題ないというのをそれ以上蒸し返すわけにもいかず、結衣は果帆に目で合図を送った。

「早速ですけど、行ってきましたよ」

 果帆が口火を切った。結衣はごそごそとバッグをあさり、受け取った書類を引っ張り出す。

「今日はワイト島のカフェだっけ?」佳奈子さんは楽しそうに微笑んだ。

「正確には《café the Isle of Wight》ですけど、その誠さんも快諾してくれました」


「そう。よかった。あのお店が頷けば周りも大丈夫ね。概要だけであれだけ集めておいて、細かいことを説明した途端離れたら目も当てられないもの」

「誠さんってそんなに影響力があるんですか?」

 結衣は誠との話を思い返す。果帆は快諾、と一言で済ませたが、それほど簡単だったわけではないと言いたくなる。喋ったのが自分だったからそう思うのかもしれない。




 誠の店を訪れたのは開店間もない時間帯だった。

「ごめん、お待たせ」

 ダークグレーのエプロンを腰に巻いた誠は、コーヒーカップを二つ手に持ち、直前まで淹れていたコーヒーをカップに注いだ。カウンターに座る結衣と果帆の前にカップを置いて、誠はその正面に立った。

「すいません。朝から」

「いいんだ。今は暇だし」

 誠が店の中を見渡し、つられて結衣も視線をさまよわせた。ゆったりと時間を過ごせるように間隔を広くしたテーブル席には、確かに誰もいなかった。改装のアイディアを聞いてもらった場所は、まさにひとりで過ごしたい空間に変わっていた。壁にかけられた絵や飾られた恐竜の化石には小さなキャプションが添えられていて、結衣は初めてその恐竜に『ネオヴェナトル』という名前が付いていることを知った。


「こんな時でないと、なかなか君たちの話を聞けないしね」

 誠はそう言って、結衣を促した。バッグからひとつのクリアファイルを取り出し、中の書類を取り出して誠の方に向けた。

「佳奈子さんから概要は伺っていると思いますけど、実際にこのお店で展示をする団体も決まりましたので、顔合わせの前に、学園祭当日の動きや地域通貨の取り扱いについて……」

「結衣、硬いって」

 話し始めた途端、脇腹を果帆に小突かれた。

「え、あ、ごめん」


 結衣と果帆の掛け合いに、誠がふっと笑った。空気のほぐれる気配がした。

「大丈夫、続けて」

 誠の落ちついた声音に後押しされ、結衣は続きを話し始めた。

「開店時間は通常通りで構いません。展示にはコアタイムを設けたいと思っていて、例えば午前十一時から午後三時、午後二時から午後六時みたいに、そうして見物客の動線をある程度コントロールする予定です。コアタイムの希望時間帯は、利用団体と打ち合わせの上、十月二十日までに実行委員会あてに連絡をお願いします」

「コアタイムね、柔軟な仕組みを考えたね」


「これも佳奈子さんのアイディアなんですけどね。実際の時間帯は、資料の二ページ目にありますけど、その中から選択していただく形になります」

「わかった。それはこの店を使う学生さんと相談だね」

 書類に目を通しながら頷く誠の様子を、結衣は上目遣いで眺めた。特に引っかかっているところもなさそうで、結衣は少し安心した。

「はい。ここまでで何か不安なところはありませんか?」

「いや、大丈夫だ。あとは、地域通貨のこと?」


 誠のまっすぐな視線を受け、結衣はすぐに手元の資料を指でなぞった。

「はい。地域通貨は、今回の学園祭に合わせて偽造防止用インクを使った仕様に刷新されました。原資は各団体の出店費用の一部を使っています。地域通貨は校内会場ではあくまでも購入に対するポイントとして来場者に付与され、使用は校外会場に限定されます。校外会場では、一ポイント一円で流通できます」

「そうやって人を校外に誘導するってことか」


「はい。パンフレットもありますけど、主会場はどうしても大学ですし、こうすることで校外会場の活性化に役立つはずです」

「なるほどね」誠は苦笑まじりに資料から顔を上げ、結衣と果帆の顔を交互に見た。何か言いたげな表情に、結衣は手に持った資料をカウンターに置いた。「でもね、これだけは聞かせてくれないか」

「なんですか?」

 嫌な予感がした。有無を言わさない誠の口調に結衣は身構え、その言葉を待った。

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