第30話 秋分 後編

 十一時、結衣は《カフェ・ラ・ルーチェ》のドアを開けてプレートを反転させ、開店の準備を終えた。祝日であっても都市の街は普段とあまり変わらない。常連客はそれぞれ決まった時間に店を訪れ、佳奈子と談笑するのに躍起になっているように思えた。結衣や真弓にしても、テーブルを巡り、それぞれの注文を聞き、ケーキやコーヒーを運び、会計をしてテーブルを拭き、また新しい客を迎える用意をする。そうしていくつもの時間を跨ぎ、これまでもこうして働いてきた。これからもそれは変わらないし、変えたくなかった。


 午後になり、学園祭実行委員の面々が店にやってきた。祝日なのに大変だと思いながら、アルバイトをしている時点で自分の状況もさして変わらないことに気づく。考えてみれば、学生にとっては日曜も祝日も関係ないのだ。四年間、延べ千四百六十一日という期間は、学生という身分がその全てを覆い隠す。考えようによっては毎日が休日であり、また一方で毎日が仕事なのだ。時間と場所が変わってもそれだけは変わらず、こうしてそれぞれが各々の目的、願望、使命に基づいて行動している。つまるところ、それが学生の生き様ということだろうか。


 店の奥のソファー席、結衣たちが仕事のあとに談笑する場所が、佳奈子を含む実行委員会の定位置になっていた。結衣はコーヒーを人数分運び、ちらりとその手元を伺った。資料の文字に目を走らせる。結衣は椅子をひとつ引き寄せ、テーブルについた。いつの間にか、結衣もその話し合いに参加することになっていた。

「形になってきたわね」佳奈子が資料の束をつかみ、ゆっくりと目を通していく。「参加する団体の抽選は来週だっけ?」


「はい。三十日の金曜日です。事前に各サークルの出店内容によって枠を振り分けていますから、校外展示になる団体の種類も、受け入れ可能な店舗の条件とマッチングは可能です」

 今日は三人の実行委員会が来ていた。委員長の羽鳥と副委員長の篠崎、そして企画担当の佐伯の三人だ。三人とも、この二週間は三日に一回はカフェに来て、佳奈子との打ち合わせに臨んできた実行委員会の主要メンバーだった。こうして打ち合わせに参加しているだけでも、この三人の、ひいては実行委員会の本気度は肌で感じることができる。


「本番はそこからね。地域通貨の方は順調?」佳奈子は佐伯に視線を向けた。

 聞きなれない言葉に、結衣も佐伯の方を見た。

「はい。事務局の了解は取り付けました。開催期間中は、学園祭の共通通貨として使用できます」

「佳奈子さん、地域通貨って何ですか?」たまらず結衣は佳奈子の脇を突いた。

「結衣ちゃん、この間の話し合いは出てないものね。えっと……」佳奈子が自分のファイルから資料を取り出す。「うちじゃ扱ってなかったから知らないもの無理ないけど、これも地域振興のひとつでね。まあ、店舗を跨いだ共通ポイント制度、って言った方がわかりやすいかな」


 佳奈子の差し出した資料によれば、この街の地域通貨の歴史は比較的古いらしい。有名な漫画作品との連携もあり、通貨の名称は確かに見覚えがあった。

 佐伯が佳奈子の説明にうんと頷き、資料から学園祭との関係という項目を引っ張り出して、佳奈子の話を引き継いだ。

「今まで、学園祭でその通貨を使うという試みはしたことがありませんでした。あくまでも校内だけのイベントという側面が強かったですし、そういう仕組みを活用するという発想はありませんでした。今回、地域を巻き込んだイベントにするにあたって、目玉になる企画なんです」


 結衣のイメージする学園祭は、学校内だけで完結するイベントだった。確かに、これまでにない取り組みをしているようだ。結衣の感心を察知してか、委員長の羽鳥が嬉々として言葉を繋いだ。

「大学と学生街、今までは学生を媒介にしたあやふやな関係しかなかったけど、今回のことでより強いつながりができると思うんです」

 羽鳥の口から飛び出した「つながり」という言葉が今朝の春菜の言葉を想起させ、結衣は胸に立ち込める靄に光が射すのを感じだ。あれだけ煩悶しながら、それでもこうして話し合いの場に参加していることも、結局は自分自身のつながりを確かめたいからなのかもしれない。カフェとのつながり、圭とのつながり、大学とのつながり、天秤にかけようにも叶わないいくつもの要素の中で、結衣は今やりたいことが胸の中で固まっていくのを自覚した。


 話し合いは続き、当日の来場者の動線やパンプレットの台割について、おおよその形ができたあたりで、今日はお開きということになった。

「ありがとうございました」三人が揃って礼をして、店を出ていった。

 机の上の資料を整える。佳奈子は三人が帰ったあとも、手帳に資料の要点を書き込み、何やら考えにふけっていた。前回の議事録を読むまでもなく、地域通貨の使用を提案したのは佳奈子だろう。そういえば、この話を最初に春菜から聞いた時、佳奈子は「考えていることもある」と言っていた。その時からすでに、佳奈子はここまで考えていたのだ。


 学園祭も商店街も、今や佳奈子の意見によってひとつになろうとしている。自分もその状況の一部になっている。そんな実感が結衣を包んでいた。

 夜が近づくにつれ、結衣の緊張は高まっていった。迷いはなくなった。ただ、圭にそれをどうやって話せばいいのか、結衣はまだわからずにいた。

「なんか、すごいことになりそうですね」

 客足が落ち着いた頃、真弓がトレーを胸元に抱えて近づいてきた。結衣が話し合いに参加している間、真弓は黙々とホールの仕事をこなしていた。いつの間にか、そうしてひとりで仕事を任されることも増えていた。イベントごとは結衣よりも関心があるようで、打ち合わせの間は黙っている一方、こうして後から話をしにくることが多かった。


「うん。さすがは佳奈子さん、って感じ」

「結衣さんも、結構張り切ってますよね」

「そんなことないよ」

「学園祭、私のサークルも興味津々ですよ」

「外でやったことないんだもんね」

 そうして真弓と話しているうちに、時間は過ぎていった。閉店間際、圭が店に来た。閑散とした店内を見回し、カウンターに近づいてくる。

「デカフェにしようかな」

 結衣は佳奈子にオーダーを伝え、圭の正面に立った。静かに呼吸をする。わかってくれないかもしれない。二人の時間が少なくなることを、圭はどこまで理解してくれるだろう。でも話さなければ何も伝わらない。つながりをはっきりさせるのだ。それだけを思い、結衣は重い口を開いた。


「学園祭のことだけど」切り出した途端まっすぐに自分を見返す圭の視線に、固まっていたはずの決意はゆらゆらと揺らぎ、続きの言葉を胸の中から消し去っていった。わずかな沈黙は、圭に続きを委ねた格好になった。圭はふと視線を外し、水のグラスについた水滴を指で突いた。

「知ってるよ。このカフェも参加するんだろ」

「佳奈子さんも張り切ってる」

「それで、結衣も……」

 圭はやはり気づいていた。真弓が感じていたように、圭も、結衣の気持ちの移ろいを察していたのだ。


 カウンターの脇で、佳奈子が静かにコーヒーを淹れていた。デカフェであっても沸き立つその香りはいつもと変わらず、立ち上がったコーヒーの萌芽を肺に吸い込んだ結衣は、先ほど霧散した言葉を胸に手繰り寄せ、まっすぐ続けた。

「うん。言い出せずにごめん。ずっと考えてたの。このカフェが好きだから。佳奈子さんにも——」

 佳奈子にもたくさんの恩があって、それを返すことができるのも、これをおいてほかにないと思っていた。春菜の提案に佳奈子が乗って二週間、思えば結衣にとって、それは全く新しいことへの挑戦だった。佳奈子と一緒にこの学園祭、絶対に成功させる。そのために、できることはすべてやりたい。たとえ、そう、たとえ圭と一緒にいる時間が少なくなったとしても。

 最初は、それが嫌だと思っていた。ただただ、圭との時間が少なくなることに怯えていた。それが変わったのはいつからだろう。気づけば自分も佳奈子と一緒に学園祭実行委員との打ち合わせに参加するようになり、怯えはいつしか葛藤に変わっていった。


「しばらく、忙しくなる、か」圭がぼそりと言う。結衣はその言葉に頷いた。

「日曜日も、お店は休みだけど、色々と準備があるから」

 今朝も、そんな自分の葛藤に戸惑っていた。春菜のところへ行ったのは、それを払拭できると期待していたからだ。新しい世界とのつながり。今の結衣には、それがただひたすら眩しく見えた。

 佳奈子がコーヒーを運んでくれた。圭は軽く頭を下げてから、静かにコーヒーを口にした。

「実行委員長の羽鳥は俺の友達なんだ。結衣とのことは話してないけどね。あいつがトップを張ってるなら大丈夫。佳奈子さんもいるし、絶対うまくいくよ」湯気に瞼を細め、圭が静かに息を吐いた。「今日みたいに、終わる頃には会えるだろう?」

「うん。ありがとう」


 圭の優しさに、どれだけ救われただろう。迷っていたさっきまでの自分が嘘のようだった。自分のことを受け入れてくれる人がいる。それがどれほど心強いことか、結衣は改めてそう思った。

 明日から、夜の方が長い日々が始まる。秋の夜長、学園祭に向けた準備が本格化する。時間は限られているけれど、きっと大丈夫だ。きっと、きっと。胸に響く呟きを繰り返す結衣を、カフェの明かりが柔らかく照らしていた。

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