第38話 小雪 後編

 布でできたフィルターを使うネルドリップという手法で淹れるのが春菜の流儀だった。三角錐状に固定されたペーパーフィルターとは違い、緩い弧を描いた円筒形のネルフィルターの中では、コーヒーの粒子とお湯が絶えず対流を作り、香りの柔らかいコーヒーができる。佳奈子の淹れるコーヒーとは違った魅力があった。作り手の選ぶ豆や手法によって、コーヒーの味は千差万別だ。


 サーバーに吸い込まれるように溜まっていく琥珀色のコーヒーは芳醇な香りを醸していた。たっぷり時間をかけて淹れられたコーヒーを、春菜はゆっくりとした動作で純白のカップに注いでいく。

「これはコースターのお返し。昨日焙煎したばかりだから」

 白く漂う湯気が密やかにコーヒーの表面から浮かび上がっていた。軽く息を吹きかけると、湯気の粒子が液面にぶつかり霧散する。それでも次から次へと生まれる水蒸気がまた湯気になり、その度に甘い香りを結衣の鼻先に拡散させた。


「ありがとうございます」

 結衣と果帆は揃ってカップを掴み、コーヒーに口をつけた。匂いとは裏腹に、いつも春菜が淹れているコーヒーよりも強い苦味を感じた。

「やっぱり春菜さんのコーヒーは甘くて美味しい」果帆がはしゃいだ声を出した。結衣は果帆の顔をちらりと見てから、もう一口飲み込んだ。舌先に触れた熱い液体の味を、今度はわからなくなった。甘みと苦みの境界線を越えて、喉を通り過ぎていくコーヒーが胃を温める。それでも、冷えた心の内側は一向に溶けることなく、凍りついたままだ。冷静になるということが、これほど冷たく結衣の胸の奥を閉ざしてしまうなんて、考えたこともなかった。

「結衣ちゃん、元気ないけど、何かあった?」

 唐突に向けられた春菜の声に、結衣は小さく首を振った。


「なんでもないんです。すいません」

「いいの。もし佳奈子にいびられたら、いつでも言ってね」そうして冗談で返す春菜の言葉を、結衣は複雑な心境で聞いていた。学園祭に参画することが決まって不安な気持ちを抱えていた時、静かに背中を押してくれたのは春菜だった。ちゃんと話してみること、そう言ってくれたのも春菜だった。あの時は、全てがうまくいくと思っていた。けれど、結局は不安が的中してしまった。圭と過ごす時間は短くなり、それが二人の間に溝を作ってしまった。思えば、圭が学園祭でコーヒーを売ると言ったのも、単に結衣に対する当てつけだったのかもしれない。

 考えれば考えるほど、学園祭に参加したことが全ての始まりだったとしか思えなくなった。そして、そのきっかけをもたらした春菜のことを——。


「本当に、大丈夫ですから」声に出し、思考に蓋をした。それでも結衣は、春菜の目を見ることができなかった。これ以上ここにいると、自分がどんどん醜い存在になってしまう気がした。

 コーヒーを飲み干すと、結衣と果帆は《ハーベスト・ハート》を出た。「結衣って今日もバイトだっけ?」果帆の声は雨音に混じって、どこか別のところから聞こえたように感じた。

「うん。もう少し時間あるけど、果帆も来る?」

 結衣にそう聞かれ、果帆は傘を持ちながら空いた手でバッグの中のスマートフォンをつまみ出した。画面を覗き、少し顔をしかめながら首を横に振った。


「ごめん、ちょっと用事があって、大学に戻らないと」

「そっか」

 坂を下る。救急車のサイレンが駅の方から聞こえてきた。それも雨の音に紛れてすぐに遠ざかる。駅前のロータリーを渡ったところで、結衣は果帆と別れた。

 カフェに続く路地に入った。胸が重い。不安と恐れ、そして怒りが結衣の中で渦を巻いていた。打つける場所もしまう場所もない激情を飼い慣らす術もわからず、結衣は言葉にできない叫び声をあげそうになった。佳奈子、果帆、修平、真弓、春菜、そして圭。結衣を囲む近しい顔が頭の中を巡り、結衣を嘲笑し、通り過ぎていく。そんな幻想を抱かせる自分の弱さに、結衣は傘の柄を強く握りしめた。


 うつむき加減で歩いていると、赤色に明滅する水たまりが目に入った。ぼんやりとした視線の先に白と赤の車を認めるや、結衣の足が止まった。《カフェ・ラ・ルーチェ》の正面に停車した救急車と、店のドアから出てきたストレッチャーに横たわる人の姿に、結衣の目は釘付けになった。

「佳奈子さん!」

 結衣は傘を投げ出し、救急隊員を押しのけて佳奈子に駆け寄った。エプロン姿のまま横になった佳奈子は、胸を押さえ、顔を苦痛で歪めていた。結衣の声に反応し、うっすらと目を開けた。


「結衣ちゃん、落ち着いて」後から出てきた修平に肩を掴まれ、ストレッチャーから引き剥がされる。

「ごめんね、大したことないのに、修平くんが……」佳奈子の苦しそうな声は途中で途切れた。救急車の後ろへストレッチャーごと運び込まれると、佳奈子の姿は見えなくなった。

「結衣ちゃん、俺は病院に行くから、お客さんを帰したら連絡して」


 修平は早口にまくし立て、救急隊員と言葉を交わしてから救急車に乗り込んだ。ドアが閉まると、雨音を吹き飛ばすほどのサイレンが路地を赤色に染めた。

 軒先から滴り落ちる雨の雫が結衣の頭や背中を濡らした。雨で滲む視界から赤色灯が遠ざかっていく。結衣はそれをただ呆然と見ていた。吐くたびに白く漂う息が雨に溶けていく。執拗に降り続ける雨は、凍りついた結衣の心の中で、小さな雪の結晶にその姿を変えていった。それは強い冷気を放ち、結衣を内側から冷やし続けた。

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