第4章 冬

第37話 小雪 前編

 容赦なく降り続ける雨は、その勢いを増していた。晩秋の雨は空気をしぼめさせ、否応なく冬の風を連れてくる。教室にたちこめる暖房の熱気がかえって外の寒さを予感させ、結衣は膝にかけたコートの裾を足に絡めた。

 普段なら、より正確に言えば学園祭の始まる前までなら、隣には圭がいた。この『相対化する経済学』という謎の授業を履修すると言っていたのは圭で、結衣は『近現代文学史』とトレードする形でその授業を受けることにした。貨幣経済が現代社会を逼塞させていると捉え、その閉塞した関係を超えて、貸し借りや人のつながりといった古くからある価値観に立ち返ることで見えてくる社会とはいかなるものか、そういう内容の授業だった。授業の内容は面白かったが、それは圭がいて、授業の合間にわかりやすく解説してくれたからだ。


 圭は教室の真ん中、いつもと変わらない場所にひとりで座っていた。結衣は授業が始まってからこっそり教室に入り、一番後ろの席でその背中を眺めていた。講師の話はほとんど耳に入ってこなかった。時折後ろの窓を振り返り、雨の音を聞いた。その時だけは、胸の苦しみも癒えていくような気がした。


 学園祭の後遺症、今の状況を果帆はそう名付けた。確かにその通りだと思う。二人ともそれぞれの場所で学園祭という名の狂乱の渦中にいて、火中の栗を拾い続けていた。それが互いの関係を苛む一因になっていることに気づいていても、どうすることもできなかった。誰かのために、そう思って始めたことが別の誰かを傷つけてしまう、そういうことは起こり得るのだ。やがて栗は爆ぜてしまい、結衣は心に大きな火傷を負ってしまった。


《冷静になるまで距離を置こう》圭はあの日、結衣にそうメッセージを送ってきた。それ以来、圭からの言葉はなかった。カフェで佳奈子や果帆に励まされたものの、圭の言葉は結衣の深いところを穿ち、空洞を晒したそこに冷たい風が吹き込んでいた。

 それが心を冷やし静めるということならば、とうに結衣は冷静だった。恋愛に溺れていた自覚はなかったが、圭の存在があまりにも当たり前になっていたのだということは、なんとなくわかるようになった。ふとした瞬間に感じる寂しさを紛らわすために、結衣はアルバイトのシフトを増やしてもらった。もう圭はいない。距離を置くということが、失恋の前触れだということくらい承知していた。いつか訪れる終わりの時間、今はその時を冷静に迎えるための準備期間だ。


 授業の終わる気配が漂い始めた頃、結衣は静かに腰を浮かせ、中腰のまま通路を歩いて教室を出た。入るときも出るときも、圭とかち合うわけにはいかなかった。距離を置くのも配慮が必要だった。別れてしまったあとも、こうして目も合わせることなくお互いから逃げるように過ごすのだろうか。卒業するまでずっと、こんな毎日が続くのだろうか。これが自分の求めていた世界なのだろうか。

 コートをはおり、結衣は講義棟を出た。傘をさす。雫の打ち付ける振動が手首に伝わる。雨音に紛れて、結衣は地下鉄の乗り場に向かった。


 果帆とは春菜の《ハーベスト・ハート》で待ち合わせをしていた。傘をたたみ、店に入る。すでに果帆はカウンターに座り、春菜と談笑していた。

「いらっしゃい」

 春菜が小さく手を振った。結衣はそれに会釈で返した。果帆の隣に腰掛ける。

「春菜さん、遅くなっちゃったけど、学園祭お疲れ様でした」

 果帆はバッグの中から小さな紙袋を取り出した。

「あら、わざわざありがとう」

「佳奈子さんのカフェで展示してたサークルが作ったコースターです」


 果帆の説明を聞きながら、春菜は袋の封を破り、中身を取り出した。五センチメートル四方のコースターだ。緑色のグラデーションにオレンジ色が差し込まれ、まるで森の木々を見ているようだった。

「素敵ね。タペストリー?」

「古着を編んで作ってるみたいで、色とかこのカフェに合ってそうだったから」

 それは学園祭の日、果帆と二人で選んだものだった。《カフェ・ラ・ルーチェ》を会場として出店したのは身の回りの小物や装飾品を自作したり物販したりする同好会だった。カフェの壁はいたるところに趣向を凝らしたタペストリーが飾られ、小さいものは販売もされた。佳奈子の発案で、夜にはジャズのセッションも行われた。間接照明に照らされた織物が暖かい空気に花を添えていた。噂を聞きつけたのかSNSで広まったのか、翌日には昼間から店に行列ができていた。ジャズの演奏とはいかなかったものの、普段はあまり流さないBGMがかかり、がらりと変わった店の雰囲気は結衣の気持ちをふわふわと高揚させた。

 それほどのことがあっても、どうにもならないこともある。そのあとのことは、もう思い出したくなかった。


 森の色彩を映すコースターを眺めながら、春菜は何度も礼を言った。そのコースターを見つけた瞬間、これは春菜の《ハーベスト・ハート》そのものだと思った。深い落ち着いた緑色を呈したタペストリーは、まさに春菜の作り出す空気を体現していた。

「大切にするわ」春菜はコースターをそっと戸棚にしまった。「使うのがもったいないくらい」

 春菜の穏やかな声に果帆のほっとした気配が重なった。ひとまず、喜んでもらえてよかった。春菜は鼻歌まじりに微笑みながら、火にかけていたお湯をコーヒー専用のケトルに移し、コーヒーを淹れ始めた。

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