第28話 白露 後編

「面白そうね」佳奈子は身を乗り出したまま、うんと大きく頷いた。「いつもコーヒー飲んでいってくれる学生さんに、これで少しは恩返しができる」

「佳奈子さん、本当にやるんですか?」

「あら、結衣ちゃんは反対なの?」佳奈子が意外そうな顔をする。「音楽ライブは難しいかもだけど、アート系のサークルだったら個展みたいな感じだろうし、それならうちでだってやったことあるじゃない」


「そうですけど」反駁の声をあげる一方で、そんな自分に戸惑いを感じた。営業時間中に場所を提供するだけ、それだけなら普段とほとんど変わらない。佳奈子の言うように、イベントなどでカフェのホールを貸したしたことがあるのも事実だった。

「大丈夫よ。お客さんもちょっとは増えるでしょうけど、学園祭の時期はいつもそうだし、どうにかなるでしょう」春菜が柔らかい声を結衣に向けた。


「……はい」結衣はそれ以上のことは言えなかった。

「じゃあ、決まり。ここに連絡すればいいのね」佳奈子は主催者とのやりとりの方法を春菜に確認し、すぐに店のパソコンでメールを打ち始めた。

「問題は、ここがちょっと大学から離れているってことなんだけど」


 春菜がため息混じりに漏らした。大学からこの場所までは、直線距離で一キロ以上離れている。飛び地のように点在する各キャンパスから等しく離れた場所。最寄りであってそうではない土地にあって、どうやって祭典に参画するのか、それは主催者も参加する店舗も共に考えていかなければいけない懸案のように思えた。

「それは大丈夫よ。考えていることもあるし」

 パソコンに向かいながら、佳奈子はまるで前から準備していたことがあるように、意味深なことを言った。

「どうするんですか?」

「そのためにも、まずは一歩踏み出すことね」


 佳奈子の飄々とした言いようはいつものことだ。そうして煙に巻きながら、本当は何を考えているのだろう。それも時期が来ればわかるのだろうか。

 春菜はしばらく佳奈子と打ち合わせをして、自分の店に戻っていった。佳奈子は春菜から受け取ったリーフレットを眺め、思案顔のままコーヒーを飲んでいた。カップを片付けながら、結衣は学園祭のイメージを頭に描いた。

 サークルに所属していない結衣でも、果帆のサークルの冷やかしで出向いた先にあったあの喧騒と狂乱は肌をひりひりさせる圧力を伴って記憶に残っていた。普段なら閑散としている通路でさえ無秩序に移動する人の波が押し寄せ、吹き溜まりのような場所では路頭に迷った客が流されるまま受け取った数多のリーフレットを持って右往左往し、看板を抱えた学生がその混乱に拍車をかける。阿鼻叫喚とはこのことを言うのだと実感した、そんな思い出が蘇る。


 学園祭まであと二ヶ月、何が変わるわけでもないという佳奈子と春菜のことを信じていないわけではなかった。でも、何かが結衣の不安を煽っていた。引き返せない何かが、取り戻せない何かが、踏み出した先にある気がした。

 圭に会いたくなった。圭なら、このとりとめのない気持ちに寄り添ってくれる。言葉にできない自分の不安を、圭ならば取り除いてくれるはずだ。漠然とそう思い、それ以上の思考を封殺した結衣の耳に、来客を告げる鈴の音が届いた。

 入り口には常連の男性客の姿があった。カウンターに案内し、水の入ったグラスを静かに置く。一瞬、圭が来てくれたのではないかと期待してしまった自分がいた。まだ午前中のこの時間に圭が訪れる理由はない。夕方に来てくれれば話せばいいし、そうでなくても話をする機会はいくらでもある。胸に渦巻く不安の種を無理やり押し込め、結衣はカウンターに向き直り、動き始めたカフェに意識を集中させる。


 カウンターでは、佳奈子が常連客と会話をしながらコーヒーを淹れていた。サーバーの内側に露がたまっていく。重力に耐えきれず琥珀色の液体に吸い込まれる蒸気の粒、その一つひとつが、カフェの空気をまとい、コーヒーに新しい命を吹き込んでいく。途端に店の中は豊かなコーヒーの匂いで満たされ、今日が始まったことを静かに告げた。

 秋になり、空気が少しずつ穏やかになっていく。草木に露ができるのはまだかもしれないが、確実に進んでいく季節は、結衣を大きな流れの中に没入させていった。

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