25.幸福しあわせ☆

 幸せか、と聞かれた。

 今にも泣き出してしまいそうな声で。

 いつもならくだらないと鼻で笑うか答える気すら起きないだろうに、何故だろう?

 大人をからかうなと振り返った時の、彼女のあの表情。何かを求めるような実直な瞳に、答えをはぐらかしてはいけないと思った。

 肯定か否定か、彼女が求めている方が分かってしまうからこそはっきりと、そう答えなくてはならないと、感じた。

 だからと言って、なぜ恥ずかしげもなくあんな嘘がつけたのか…

「へぇ、それはそれは良かったなー幸せそうで。まさか怜からそんな言葉を聞けるとは思わなかったよ」

 瑳と別れ、蘭館から社へ戻る途中の廊下。声に驚いて振り向くと、英先生がニコニコと楽しそうに笑っていた。

「先生、盗み聞きとは良いご趣味で」

「まぁね」

「先に戻られたはずでは?」

「僕の瑳ちゃんに、怜が抜け駆けしないようにね」

「それで、ご満足いただけました?」

「いいや」

 英先生は廊下の壁に背を預け腕組みをする。心理的に俺に心を見せまいとする仕草で強めに言った。

「怜こそ瑳ちゃんのことは僕に任せてよ。ご心配なく」

 そんなに敵視しなくても俺は関係ないのに、と何故か苛立ってしまう。

「先日、わざわざ自宅まで来て下さったのは…資料なんてただの口実ですよね?」

「ん?何の事かな」

「ゆかりが家にいることを上谷から聞いていらしたのではないですか?」

「なんだ、バレてたの?そうだよ。早退した怜を婚約者が慌てて追いかけて行ったなんてオモシロイ事を聞いてしまったから、つい。悪かったよふたりの邪魔をして。根に持ってたわけ?」

「違います。そんなことはどうでもいいんです。…ですがそれをご存じの上で、瑳を家に連れてきたのは、何故ですか?」

 言うと、先生は横目でじろりと俺を見た。いつも表面上ニコニコはしているが気分屋自由人で何を考えているのかわからないような先生から、一瞬鋭さのようなものを感じた。

「…今日の怜は、まわりくどいね」

「そうですか?」

「わかっているくせに」

「…いいえ」

 やはり先生には敵わないか。

「またまたぁ。…瑳ちゃんって、怜の話をする時すごく良い顔するんだよ?知ってた?僕にはそれがすごく悔しくてね。でも、おかげ様で思ったより傷ついてくれたみたいで…感謝してるよ怜」

「先生っ!…何を、笑って、いるんですか?」

 瞬間的にカッとなってしまったけれど、言葉を短く切ることで冷静を装う。

「それはどういう、意味ですか?」

「瑳ちゃんの泣き顔も可愛いけど…おかげで、天使のような寝顔をベッドでじっくり拝めたってこと」

「ッ!彼女を弄ぶのはやめてください」

 わかってはいた。頭では。ふたりがそうなる事さえ望んだ。それなのに…

「…だったら怜は、瑳ちゃんを傷つけないでいられる?僕は宣言したはずだよ」

「え?」

「まだまだ足りないんだよ、傷が。…半端に傷つけて放置しているのは怜だよね?」

 先生は飄々とした口調で、且つ淡々と続ける。

「そんなことで怒るならどうして瑳ちゃんを捕まえておかないの?その気がないのならもっとちゃんと傷つけて遠ざけてあげるのが優しさってものじゃないかな?」

「その傷につけ入る気ですか?」

「悪い?」

「いいえ」

「だよね?怜には、関係ないよね?…今さら離すつもりもないけど」

 先生は組んでいた腕を解き俺に向き直る。彼の冷めた視線に刺され、瞬時に落ち着きを取り戻した。

 こんなことで感情的になるなんて。

「安心しなよ怜、僕は遊びなんかじゃないから」

「わかっています」

 英先生が朱希さんの話を瑳にしていたことには驚いた。俺は兄と先生が仲が良かったこともあり、そのつてで聞かされていたが、まさか彼女に話すなんて。 

 いつもの遊びではなくそれだけ本気なのだとわかる。

 だから瑳は先生と一緒なら、結果としてまた哀しい思いをすることはない。先生は根は優しく一途な人だから、大丈夫。

「初めからそういうつもりで僕に瑳ちゃんを近づけたんだろう?」

「そんなことは…」

 確かに彼が瑳を気にいったことから始まり、彼女の働きで円滑に事が運び結果今回の大ヒットに繋がった。

「違う?怜は今までも仕事のためならいろんな犠牲を払ってきたよね?彼女の気持ち、利用してないって言える?」 

 本来なら、作家のスキャンダルになりかねない事を遠ざけなくてはならないのに、利益を優先しふたりが親密になる道を閉ざさなかった。瑳の気持ちに気づいていながら、気づかないふりをして…今までもそうやって。

 そして、これからも。

「だから怜も助かっただろう?なんの気兼ねもなく婚約者と幸せになれるんだから…応援してよ、怜」


 

 シアワセというのは、どういう事なのだろう。

 ベッドに腰掛け、2本目のタバコに火を付けた時、後ろの小さな寝息が止んだ。もそもそと起き上がる気配と共に俺を呼ぶ声。

「起きたか?」

「あれ?…私、寝ちゃって…?」

「あぁ」

「ごめんなさい」

 慌てて、散らかった下着を探す彼女を肩越しに見ながら、もう一吹かしして灰皿に押し付ける。

 ゆかりは何かと理由をつけてよく家に来ていたが、今までも泊まらせた事はなかった。そういう約束だった。

 彼女に限ったことではなく、何故か誰かと一緒には眠れないから。

「すぐ帰りますから」

「いや、ゆっくりでいい」

 俺は熱いシャワーでも浴びようと立ち上がる。

「待って怜さん」

「どうした?…シャワー先に使うか?」

「いえ…何か、あったんですか?」

「え…」

 どき、とした。決してあった訳じゃない。ただ何故か、今夜は酒だけでは足りなかっただけで。

「だって…怜さんから誘って頂けるのなんて初めてでしたし…何だかいつもと違うような…」

「そうか?」

「はい」

 そして、とん、と背中に張り付く温かさ。

「ゆかり?」

 確かに、今日の俺はどうかしていたかもしれない。

 英先生の挑発に乗るなんて。あえて煽るような事を言い、俺を試しているのだとわかっていながら抑えられなかった。

 俺は瑳の保護者にでもなったつもりか?

 シアワセという言葉の意味など俺になんてわかるはずもないのに、一瞬でも考えてしまっていた自分に吐き気がする。

 あまりにもくだらない。

「…私、怜さんが好きです」

「どうした、突然」 

 言葉の意味はわかる。意図がわからず聞き返しても黙ったままの彼女。

「ゆかり?」

「帰りたくない」

「え?」

 彼女は何も答えず更にしがみついてくる。

「悪いが…」

「なんて、言ってみたかっただけです」

 ゆかりは弾むように言うと、今度は俺の正面に立ちくすくすと笑いながらその身を寄せた。

「シャワーはもう少し待ってください」

 そして今しがた羽織ったばかりのシャツが床に落ちた。

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